イーサウの発展は目覚ましいものだった。ヘッジの言ったよう、少しずつ都市間の同盟が進んでいく。エリンが手を貸すこともあれば要請がないこともあった。
 狼も変化を遂げている。コグサはイーサウを見て思うところがあったらしい。イーサウは商人の町らしく、誰もが商売に携わることができるよう、子弟を集めて教育する場、というものを持っていた。読み書き勘定程度のものではあるのだけれど、あるとないとではずいぶん違う。傭兵として、命令書を読むために、あるいは陳情をするために文字を学んだコグサとしては中々に羨ましいことだったのかもしれない。
 そしてコグサは一念発起した。五年かけて狼の宿営地の隣に兵のための学校を作ってしまった。商家の子弟が学ぶもののほかに、もちろん武器防具の扱いや戦略、戦術を教えもする。いずれはここからイーサウの自警団が、そして狼の兵が生まれて行く。無論、反対はあった。
「無茶だ! 隊長、なに馬鹿なこと言ってんですか、俺の年を考えろ!」
「お前、いくつになった。ライソンよ? 二十五か、若かねぇよ。問題ねぇ」
「あるだろうが!?」
 ライソンの多大なる抗議にもかまわずコグサはライソンに狼を譲り渡した。ライソンの影ではエリンが渋い顔をしていたけれど、それでもコグサは我を通す。何も遠くに行くわけではない。一朝事あれば何を置いてもライソンを援助する。その覚悟がエリンにも伝わったか、最後には諦めてくれた。そして若すぎる傭兵隊長の誕生となった。
 ライソンも悩んだらしい。エリンはそれを近くで見続けている。ラクルーサは結局手を出してこなかった。出せなかったのだ、とエリンは知る。
 イーサウは、重要な位置を築き上げていた。いずれ音を上げる、と思っていたのだろうラクルーサの首脳部はかえって窮地に立たされたのが自分たちであると知って泡を食ったらしい。
 イーサウは貿易の要だった。なにより重要なものをイーサウは握っている。鉄鉱石と、薬草だ。武器防具と医療を押さえられてしまったのでは戦争はできない。そしてそれにつけ込むよう、ミルテシアが国境大河を侵すことが続いた。とてもイーサウにかまっていられる余裕はなくなってしまった、と言うわけらしい。
 エリンはほっとすると同時に懸念があった。星花宮はどうしているだろうか。師は、順調でいるだろうか。連絡がまるでないわけではない。むしろ頻繁にある。が、あのフェリクスのことだ。弟子に心配をかけまいと平気な顔をするに決まっている。
「大丈夫じゃないですかね。前の師匠も平気な顔してましたしね」
 そう言うのはカレン。否応なしに預かることになってしまった魔術師の卵だった。元々彼女はエリンの同僚の弟子だった。ミスティという名のカロルの弟子で、エリンとはあまり相性がよくない。もっとも互いにそう言い合うのだから仲は悪くない。
「どうも火系の魔術師にしちゃ湿っぽくってよ。あわねぇんだよ、俺とは」
「そんなもんなのかよ? 系統で性格が決まるとか?」
「逆だ、逆。所詮、傾向だがな。火系は頭に血が上りやすい野郎が多いし、水系は策略に走りがちだ」
「……あんたが?」
 心の底から同意しかねる、という顔をしたライソンにエリンは笑ってくちづける。いまでもすぐ側にいられる、それがこんなにもありがたい。
「まぁ、走るんだがよ。結局は面倒くさくなって突っ走るのが水系だな。風系はふらふらするし、地系は堅実なやつが多い。ミスティはどういうわけか湿っぽくってよ。火系らしく思い切りのいいところもあるんだがな。ま、もともと火系と水系は相性が悪いしな」
「氷帝と黒衣の魔導師は――」
「ありゃ例外中の例外だ。二人して頭がおかしいとしか思えねぇし。それでちょうどいいんじゃね? だいたいミスティってのもカロル師の冗談だぜ」
 幼いころ、その内気な性格を評してカロルはその子供をミスティと呼んだ。結果としてそれが呼び名として定着してしまった、ということらしい。無論、ミスティ本人が納得して選んだことでもある。
「湿っぽい方かよ! 不思議な、とかそっちかと思ったぜ。ほんっと、魔術師ってわかんねぇわ」
 匙を投げるライソンの向こうでカレンが笑っている。当初は眩暈を起こしそうだったものの、いい加減にエリンも慣れた。
「この娘は外の世界のほうがあってると思う」
 ミスティの伝言はただそれだけ。だいたい、とエリンは思う。火系の魔術師が水系に弟子を預ける、というのはどう言う了見だ、と。もっとも、その憤慨はすぐさま撤回することになった。カレンはミスティの弟子であるにもかかわらず、水系に深い適性を見せた。ごく稀に、こういうことがある。カレンを弟子に取ったミスティの見る目がなかったのではなく、魔法の面白さだ、とエリンは思う。結局は反対属性に適している、と判断したミスティはやはり一流だ、とも思う。
 以来、カレンはエリンとライソンの家に住み続けている。エリンが狼の宿営地に住むようになってライソンは、誰に文句を言わせるものかとばかりの勢いで家を建て――コグサに借金までしようとしたが足りない分はエリンが払った――そして同居を始めた。
「楽しい新婚生活だったのによ」
 カレンを睨めば心得たものでそっぽを向く。それでも口許が笑っているのだから始末に悪い。が、嫌でもなかった。
 さすがに傭兵隊の宿営地だった。カレンは実年齢で若い娘だ。魔術師だから若く見える、と言うわけではない。本当にエリンの元にきたときにまだ十七歳だった。こんな若い娘を傭兵の間に放つわけにはいかない、とエリンは知っている。どれほど善良で信用のおける兵だとて、所詮は精気のみなぎった男の集団だ。危なくてかなわない。これが年経た魔術師である、というのならば兵のあしらいくらいはなんなくするだろうが若いカレンにそれを望むのは無茶というもの。結局は同居している。
「いい加減、自分で家持てよ」
「師匠が金出してくれるんだったら考えますよ。手持ちがないんで」
「なんでねぇんだよ!」
「こないだ、付与魔術に失敗したんです。ものの見事に物も触媒もぱーですよ」
 淡々と天井に向かってカレンは手を開いて見せた。当初に比べればずいぶんと背も伸び、もう一人前の女性だった。ほっそりとした姿も、どことなく皮肉げな表情も、ライソンはエリンに似ている、と思っている。口喧嘩を繰り返しつつ、それでもこれで仲のいい師弟だと知っていた。まるでフェリクスとエリンのように。そしていま、エリンがカレンを娘のように思っていることも知っている。だからこそ、今になってよくわかる。フェリクスがどれほどエリンを慈しんでいたのかが。氷帝の、エリンは息子だったのだとよくわかる。
「お前なぁ。やるんだったら俺に相談しろよな、未熟者め」
「まぁ、一応は言おうかと思いましたけどね。ここはやっぱり成功させて驚かせようかと」
「それで失敗してりゃ目も当てられねぇわ」
「ですね。今度は相談しますよ。――と言うわけで、金、ないです」
 にっこりと笑うカレンにエリンは握りしめた拳を震わせる。ライソンはひっそりと笑いを噛み殺す羽目になった。
 この一見は男のように精悍な黒髪の娘をエリンがどれほど大事にしているかと思えばこそ。
「お嬢、金だったら手伝うぜ」
「あ、だったら触媒の金、貸してください。もう一回確かめたいことがあって」
「おうよ、いいぜ。いくらだ?」
「甘やかすんじゃねぇ、ライソン! カレンもだ! 金が要るんだったらてめぇで稼いでこいっつーの!」
「まぁ、そりゃそうなんですけど。この面じゃ、酒場でひと稼ぎってわけにもいかなくって」
 確かに娘らしい身なりではない。背もエリンと並んで引けを取らないほどだし、艶やかな黒髪は研究の邪魔だ、と男のように短くしている。立ち居振る舞いも可愛らしいというよりは頼もしい、のほうが相応しい。五年の間に生活に馴染んだこの娘を、ライソンは妹のように思っていた。さすがに娘、と言うほど年が離れていない。
「そうか? お嬢は可愛いぜ」
「そんなこと言うの、ライソンさんだけですよ」
「……誰が酒場で稼げっつった! 魔術師が裸踊りで稼いでどうすんだっての!」
「いやいや、さすがにそれはさせませんよ、エリンさん? 狼の巣でそこまで下品なことやられちゃ隊の沽券にかかわるってもんだ。隊長の俺が許しません」
 ふふん、と鼻を鳴らしたライソンだったがエリンは気づいていた。自分で隊長、と言うほどに自信がないのを。ふとエリンの目が和む。
「はいはい、師匠。続きはご自分の部屋でどーぞ? さすがにここではじめられたら眺めますよ、私。まだ若い娘なんで、興味津々です」
「若ぇ娘がそんなもん眺めんな!」
「……いや、叱るのはそっちじゃない気がする」
 ぼそりと言ったライソンは五年の間にどうやらコグサの苦労性が移ったらしい。気づいてエリンは再び笑う。
 イーサウは軌道に乗り、コグサの兵学校も順調だ。だからと言うわけではない。それこそコグサは狼移転の年にヘッジを説得している。そしてエリンはずっと拒み続けている。
「いい加減に落ちろよ、お前」
 その日も訪れたコグサが溜息をつく。何度言われてもエリンは首を縦には振らなかった。ライソンもこれには自分は関与しない、と黙っている。カレンはそっと話の成り行きだけを窺っていた。
「嫌なもんは嫌だ」
「なんでだ。お前にゃカレンがいるだろ。ちょっと規模がでかくなるだけだろうが」
「カレンだって無理やりいきなり預けられたんだ!」
「惨いこと言う師匠だな、おい。カレンちゃん、酷いお師匠さんだよな。いじめられてねぇか?」
「大丈夫です、いじめ返してくれますから」
 にやりと娘らしくなく笑うカレンの眼差しの先にいたのはライソン。肩をすくめて冗談ですよ、と彼は呟く。
「お前だってわかってんだろ、エリン。魔術師は必要だ。この世界に魔法がある限り、どうしたって必要だ」
 兵学校の長に納まってからも、コグサは考え続けている。戦う術を、兵たちの命を守る術を。コグサの言うことももっともだ、とエリンにもわかってはいた。
「俺が兵を育てる。お前が魔術師を育てる。なんの問題がある、エリンよ?」
「ガキの相手は苦手なんだよ、知ってんだろうが」
「そう言う問題じゃねぇだろ。お前な、氷帝の名をどうするつもりだ。お前で途絶えさせんのか」
 アランの差し出口だろう、とエリンは渋い顔をする。カレンがいる。そう言って拒んでもよかった。が、彼女が自分の後継者に値するのかはまだわからない。コグサに言われるまでもないことだった。星花宮を追放されたあの日、師の名を授かった同じ日。エリンは誓っている。フェリクスがなにを言おうと決して師の系統を途切れさせはしないと。
「……ったく。しょうがねぇ。わかった。受ける」
 それはイーサウ独立より十年目。フェリクス・エリナードを長とした魔法学院がイーサウの地に開校した。コグサとエリン、イーサウの両輪となってこの地で花開く、その証のように。




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