イーサウの春は早い。温泉が湧く街のせいだろう、本来シャルマークでは根付かない草木も、この町では花開く。爛漫の春のころ、イーサウ市議会議員、ヘッジ・サマルガードの元を珍客が訪れた。
「お久しぶりです」
 微笑むエリンの姿に、一瞬はヘッジもぎょっとした。エリナード・アイフェイオンの追放はすでにヘッジも報告を受けている。あれからずいぶんと時間が経っているとはいえ、まさか本人がのうのうと顔を見せるとは思ってもいなかった。
「あー、やっぱ邪魔でしたかね」
「いや。驚いただけですよ。どうかなさったか。いや、いままでどこに?」
「なに、避難所があるもんで。ついでにご心配をおかけするといけないんで言っときますと、ラクルーサの人間はもう監視しちゃいませんよ」
 ヘッジがにやりとした。彼は彼なりに周辺を洗っていたのだろう。だからこそ、エリンがいま現れたのだ、と納得のいく思いでもいた。が、彼はどうやってそれを知ったのか。ヘッジにしても中々に人手のいる仕事であったものを。
「俺は魔術師なんでね。水系の魔術師を敵に回すのはやめた方がいい」
 にんまりとするエリンはそれ以上のことは語らないだろう。ヘッジも聞きはしなかった。それだけで、充分エリンの腕のほどを知ることができる。まして独立戦争時に最も世話になっている魔術師だった、彼は。
「再会を祝って、と行きたいところだがね――?」
「まぁ、まず用件ってやつにしときましょうか。――できりゃ、なんですけどね。狼の宿営地に引っ越してこようか、と」
 だからイーサウの重要な議員であるヘッジの意見が聞きたい、あるいは同意を求めたい。エリンは言う。ヘッジとしては不思議だった。
「狼の、かね?」
「ん、言いませんでしたっけね? あそこの兵と、まぁ……なんつーか、その、ね。その辺を察していただけると」
 ひょい、と天井を見上げてエリンが頬の辺りを指でかく。ヘッジが思わず笑いを噛み殺しきれないほどの表情だった。
「で、あそこの隊長の許可があればってやつなんですけどね。こっちにもご迷惑をかけかねねぇんで、一応ご挨拶っつーか」
「それはそれはご丁寧に。うちは問題ないでしょうな。エリナード・アイフェイオンがイーサウに住んでくださるというのは何とも心強いものだ」
「ご存じでしょ。俺はもうアイフェイオンは名乗れねぇんですよ。今は――フェリクス・エリナードです」
 にやりとしたエリンのその表情に、ヘッジは引き込まれた。ラクルーサは下手を打った、つくづくそう思う。この有能な魔術師をなぜ手放した。だがヘッジは商人であるにもかかわらず、彼を利用しようとは思わなかった。利用しようと考えれば、エリンはこの地を去るだろう。言われなくともそれがわかってしまう。
「氷帝の後継者でしたか。お祝いを申し上げましょう。何か良いものを差し上げられればいいのですが――」
「住んでいいって言ってくれるだけで充分すよ。あぁ、一応は商売するつもりなんで、それも認めていただけりゃありがたいですがね」
「ご商売を?」
 元宮廷魔導師がなにを商うというのだろうか。生まれたときから商売人であるヘッジは訝しく思う。その思いが顔に出てしまっていたのだろう、エリンが微笑んだ。
「俺は元々宮廷魔導師としては異質だったんで。ラクルーサでも店持ってましたしね。今んところは元やってたみたいに鑑定屋兼薬屋でもしようかな、と」
「ほう、薬ですか。我がイーサウでは遺憾ながらあまり進んでいない分野ですな。なにせ温泉があるものだから、軽い怪我や病気なら湯に入って治してしまう」
 からりと笑うヘッジにエリンも笑い返す。自分の相手はだから町の人ではないのだと。傭兵たちの傷を治すための薬こそを作る、と。それならばヘッジにも異論はなかった。町にある薬屋と競合することもないだろう。
「シャルマークは薬草が豊富なんでね、それも俺にとっちゃありがたい」
「わかります。イーサウの主要な輸出品ですからな。なるほど、では狼の地に留まれない場合はイーサウの町に?」
「たぶん。あんまり遠くに行くと彼氏が泣くんで」
 冗談のように言ったけれど、ヘッジは実感として聞いた。商人の彼にして、エリンとその恋人に同情しているのかもしれない。ラクルーサを去って以来、彼らは会うこともままならなかったはずなのだから。昨今稀な純愛をこの目で見て少しばかり照れくさくなったヘッジは席を立つ。
「では町の薬草商のところにご案内しましょうか。薬を商うということは――」
「あとは樹脂や蜜ですね」
「そちらもご案内しましょう。――薬はすでに狼が?」
「以前から使ってもらってますよ」
「では、町の薬屋にも卸してはどうです?」
 ヘッジの言い分に一瞬エリンは不思議そうな顔をした。それでは町の人間の既得権を奪うことになるのではないかと。だがヘッジが首を振る。
「傷薬の類はあまり作っていないのですよ。薬草を摘んできて使うか、温泉です。効果があればそれなりに需要はあるでしょう」
「ご迷惑にならなければ、ありがたいですね」
「では早速、商談に参りましょうか」
 なるほど、ヘッジはそこで紹介料なりなんなりを取るつもりか。わかったエリンは内心で笑う。嫌な気分ではなかった。むしろ、よい気分だった。イーサウが自分を受け入れてくれれば、後ろ盾ができる。ラクルーサと事を構えようとは思いはしないだろうが、後ろ盾があるとないとでは話が違う。
 ヘッジに従って町を歩けば、以前訪れたときより活気づいた町並みだった。独立が、イーサウに好景気を与えている。人々の顔は明るく未来を見ていた。
 町の薬屋、というのは小規模で昔風の店だった。エリンの持っていた薬を確かめ嬉しそうにうなずいている。どこかでラクルーサの薬を見たことがあるのかもしれない。
 これならば充分売れるだろう、ということで試しに少しばかり置かせてもらうことになった。とんとん拍子で話が進んでしまい、かえって不安になるほど。これでこの地を去ることになったらどれほど寂しいことか、そんなことをエリンは思う。
 まだ、狼の宿営地を訪れてはいなかった。万が一、イーサウが拒絶した場合、エリンは別の手段を考えなくてはならない。だからこそ、ライソンにぬか喜びはさせられない。だからまだ、会っていない。すぐそこに彼がいる。いるのに、まだ会えない。身のうちが焼かれそうな、そんな気すらする。
「近々、近隣の町と会合を持つつもりです」
 不意にヘッジが言う。エリンは何事か、と首をかしげた。今のところ、自分はまだ余所者の魔術師でしかない。ヘッジが何を言い出したのか理解できなかった。単なる雑談、とも思えない。
「イーサウは、独立した街です。二王国もそれは認めている。ですが、弱い」
「それは、まぁ。小さな、と言っちゃなんですけど、小さい街ですからね」
「そのとおり。我々には武力もない。いまは狼がいますがね」
「狼を、イーサウの兵とするお考えで? 傭兵隊としては最高ですよ、あいつらは。ですが、金が続きますか」
「続かせてみせましょう、必要な間は。そして我々は周辺の町と緩くかつ緊密な連携を取り、都市国家同盟とでも言うようなものを作り上げる。そのつもりです」
 イーサウ独立戦争時にフェリクスが語ったことが現実になろうとしている。師の目の確かさに舌を巻くより茫然とした。この男は理想や夢を語っているのではない。現実の一歩先を見ている。ぞくりとした。新しい歴史の起点に、自分はいま立っている。
「お手伝い、いただけますか?」
「――我が師の意志と暁の狼の利益に反さない限りは」
 エリンの答えにヘッジが莞爾とした。そう答える、とはじめからわかっていたかのように。そして予想通りの答えを返すことで、ヘッジに測られたのだとエリンは思う。
「ではそれまであなたの身柄はイーサウが保証いたしましょう。万が一ラクルーサ王国が何かを言ってきたとしても、フェリクス・エリナード。あなたは安全です」
 エリンは返す言葉がなかった。これほどの厚遇を与えられる理由がない。人の好意のありがたさに涙さえ出そうだった。
「あなたは我がイーサウ独立の隠れた英雄ですよ、エリナード」
 わかっていないのか、と不思議そうなヘッジに指摘され、はじめて彼の好意の理由を知る。自分が何かしたから返してくれる、そう言われたほうがいまはずっと気が休まる。それに気づいてエリンはずいぶんと心がささくれていると気づくありさま。あまり意識してはいなかったが、ラクルーサ王に向けられた憎悪が意外とこたえていたらしい。
「細々と商売して生きて行きますよ、当分はね」
 だが貸せる手ならば貸す。言外のエリンの言葉にヘッジは微笑んでうなずいた。それで充分、というように。
「このあと狼の宿営地に――」
 行くならば案内をしようか。言いかけたヘッジが苦笑して言葉を止めた。エリンが何事か、と振り返る。
「――エリン? お前かよ!」
 驚いて走り寄ってくる暁の狼隊、隊長。ヘッジは彼の年相応の落ち着いた姿しか知らない。こんな若々しく嬉しげに駆け寄ってくるコグサなど知らない。だが。
「エリン」
 そのコグサに追いつき、追い越し。もう一人の青年が走ってきた。そのまま掠れ声でエリンを呼んではきつく抱きしめる。
「おやおや、隊長。そう言えばエリナードはご友人でしたか」
 とぼけて言うヘッジにコグサが苦笑する。肩をすくめたコグサにヘッジはにんまりとする。
「ライソン! いいからちょっと離せ! 話もできねぇだろうが!」
「……やだ」
「ガキみてぇなこと言ってんじゃねぇぞ、てめぇ! いいから、俺はコグサに話が――」
 ライソンにはわかっていた。エリンがアノニムの顔ではなく、素顔でいる。つまりそれは束の間かもしれないけれど安全であるということ。わずかの間であっても、側にいてくれるということ。いまはたとえエリン本人の嘆願であったとしても、離したくなかった。
「どうやらエリナードは忙しいらしい。私からお話ししましょうか、隊長。彼はそちらの宿営地に住みたいと言っていますよ。お断りになると――」
「断ったりしたら、俺がイーサウに住む。断ったりしたら、隊長なんか大っ嫌いになってやるからな!」
「……お前に嫌われてもなんの問題もねぇよ、俺は」
 ぼそりと呟き額に手を当てたコグサ。エリンがたまらずライソンの腕の中で大きな笑い声を上げていた。




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