イーサウにできた狼の新しい宿営地は粗末だ。イーサウそのものの立地がまずあまりよくない。西側に向かってわずかに開けているだけで、そちらは耕作や放牧に使う貴重な土地だ。しかも遠くに行き過ぎれば右腕山脈に突き当たる。北側は森が広がっている。東は山。となれば宿営地は必然的に南側、ということになるのだが、そちらはそちらで大小の岩が転がる荒地同然の土地だった。
 それを傭兵たちが一つ一つ取り除き、整地をした。取り除いた岩を積み上げ、宿営地の外壁の基礎にする。そうして働いているうちに、狼がこの土地をほぼ恒久的に使う、と町の人々が理解しはじめた。
 それからは早かった。大工や石工など技術を持つものが格安で仕事を請け負ってくれてのち、ようやく狼の宿営地はできあがる。
 できあがったものの、まだまだ粗末な町だったけれど。兵の営舎に雑貨屋が一軒、酒場も一軒。ただそれだけの町だ。武器防具の手入れをするにもまだイーサウの町に入らなければならない。それでもここが新しい狼の宿営地。
「はじめての降臨祭かー」
 イーサウで迎えることになるとは思わなかった、とライソンは呟き苦笑する。昨年の降臨祭はラクルーサのエリンの店で賑やかに過ごしていた。急にフェリクスが訪れ、イメルが参加し、エリンは頭を抱えながら笑っていた。もう二度とあんな夜はないのだと思う。
 失ってしまってはじめてわかる、などとは言わない。一瞬にして様々なものが変わってしまう。それをライソンはすでに経験している。それでも、懐かしいより切なかった。いまだエリンはリィ・サイファの塔にいる。あれからずいぶん姿を見ていない。
「会いてぇなぁ」
 文句を言ってもだめなものはだめ。それもわかってはいた。いまエリンが姿を見せる、ということは狼をまたラクルーサ王の敵意の前にさらすことになりかねない。時間も経っていることではあるしそろそろ大丈夫だろう、とライソンは思ってはいるのだけれど楽観はできなかった。
 宿営地は静かだった。降臨祭だ、兵たちはみなイーサウの町に遊びに行っている。一軒だけある酒場は、開けてはいるものの暇そうだった。ライソンは一人、飲んでいる。アランとも今日は話したくない。そんな心を汲んで彼もまた、仲間と町に飲みに行った。酒杯を傾け、そしてぴたりと止まる。ライソンの眼差しが店の入り口へと向けられた。
「――やぁ」
 寒い外から入ってきたからだけではない顔色の悪さだった。憔悴して憔悴して、どうにもならない顔色。ライソンは黙って片手を上げる。
「座っても?」
「そのつもりで」
「……うん」
 イメルだった。ライソンの側に腰を下ろし、イメルは黙っていた。なにを言うべきか探している。けれど見つからない。そんな態度。
「……ごめん」
 最初の酒杯を空けたのち、ようやくイメルが呟いた。ライソンは黙って飲んでいる。答えはない、と知ったイメルがうつむいた。
「詫びて、済むような問題じゃないのは、わかってるんだ。俺が、なにをしたか、エリナードから聞いてるよね?」
 きゅっと唇を噛みしめた気配にライソンは苦笑してやっとイメルを見た。顔を見た瞬間から、怒りは沸騰しそうだった。が、いま逆に静まった。
「イメルさん。あんたは誤解してる。つか、あんた 、ほんとにエリンのダチかよ?」
「――え?」
「エリンはそんなこと、言わねぇだろ。俺が事情を知ってんのは傭兵だから。情報は生命線だからな。だから、あんたがなにしでかしたか、エリンがどうして追放されたか、俺は知ってる。でも、エリンが話したわけじゃない。わかる?」
 唇を噛みしめ、うつむきそうになる顔を必死の思いでイメルは上げていた。握りしめた拳が痛そうでライソンは顔を顰める。片手で小突けば、イメルが驚く。
「あんた、吟遊詩人なんだから。手ぇ傷めるぜ」
「もう、傷めても――」
「エリンはなんて言ってた? 会ったんだろ。会ってなくっても、エリンならなんて言う? あんたは吟遊詩人だ。魔術師だろうけど、吟遊詩人でもある。あんたから歌を取り上げようなんて、エリンは微塵も思ってねぇよ。それに、俺はあいつ、あんたの歌が好きだと思うよ」
 にこりと微笑まれてしまった。イメルは腹の中に熱いものを抱える。ライソンもだった。ライソンまでも。
 すでに、許されてしまっている。どうしようもないことをしてしまった自分を、どうして彼らは許すのだろう。責められるより、つらかった。つらいことそのものが、だから罰なのだと思う。そうして過ごしていくしかないのだとイメルは思う。
「これから……もう少しよく考えて行動する」
 それしか言いようがなかった。誓っても無駄だとも思った。これから先の自分を見ていてもらうしかないのだろうと。だがイメルは驚く。ライソンが溜息をついていた。
「あんたねぇ。そう思うんだったら今ここに来ちゃだめでしょうが」
「え?」
「エリンがここに寄り付かないのはどうしてだよ? 狼がラクルーサに睨まれないようにするためでしょうが」
「それは、わかってるつもりだけど」
「そもそもラクルーサ王にエリンが睨まれたのはなんで? 俺たちと繋がってるからだ。あんたは誰、イメル? ラクルーサの宮廷魔導師だ。エリンのダチだ。あんたがここに来たら、ラクルーサ王はまたエリンを疑う。王が手を伸ばして潰せる相手だからな、エリンは」
 追放されたエリンに、星花宮の四魔導師の保護はない。旅先で「事故」にあっても不思議はない。ライソンの仄めかしにイメルは顔色を失う。
「イメル、あんたはラクルーサ王の臣下かもしれない。でも王が魔術師嫌いだってことをもう少し真剣に考えるべきだと俺は思う。ダチとしての忠告な?」
 にやりと笑ったライソンに、イメルは羞恥を覚えた。人間とは年齢だけで測れるものではない。それは当然の事実。だがライソンは年齢で言えばイメルにとっては子供の年。そのライソンのいかにも成熟した思考と態度。己が恥ずかしくてならなかった。自分がどれほどぬくぬくと守られた魔術師なのか、嫌と言うほど理解した。
「昔エリナードが、傭兵隊に参加してたのは、こういうことだったのかな。宮廷生活じゃわからない色々を考えたかったのかな」
「あんただって吟遊詩人だろ、いろんなとこに行くんじゃね?」
「行っても、考えなかったら無駄だってことが今更よくわかったよ」
「まぁさ、俺だって偉そうなこと言ってるけど、ほとんど隊長の受け売りだぜ? でも、学びたいとは思ってる」
 エリンのために。言わなかったライソンの言葉にイメルは打ちのめされそうだった。ただ魔法を学び、歌って過ごしてきた年月だと実感してしまった。身についたものがなにもない。そんな気すらする。
「あれからエリナードとは……会ってないんだよな、君は。少しなら、話してあげられる」
「いいよ、元気なのは知ってるから。聞けば――会いたくなっちまう」
 ふい、と顔をそむけたライソンに、申し訳なくて申し訳なくて、イメルは唇を噛みしめる。師であるタイラントに言われた。エリナードもライソンも君を許すだろうと。自分たちの誰もが君を責めることはしないだろうと。安堵より、不可解だった。それこそが罰だったと、やっとのことで理解する。そこから学べ、とみなが励ましてくれているのを理解する。無言の叱咤にイメルは身を震わせた。
「あ――」
 突如としてライソンの声が華やいだ。吟遊詩人でもあるイメルにはその声の響きは顕著なほど。驚いてそちらを見れば、なんとも嬉しそうに微笑むライソン。そして眼差しの先。
「ライソン」
 うっとりと微笑んで駆けてきた半エルフの子と思しき魔術師だろう者の姿。そのままライソンの腕の中に飛び込む。イメルは息もできずにそれを見ていた。ライソンのあの眼差しの先にいるのはエリンのはずだった。それなのに、別人がそこにいる。
「ちょうどいい。あんたの歌、こいつにも聞かせてやりたいな。場所変えようぜ」
 抱きすくめていた腕を緩め、ライソンは無造作に魔術師の肩を抱く。ほんのりと頬を染め、魔術師は彼を見上げていた。
 イメルに何を言わせることもなく、二人はさっさと酒場を後にしようとする。数少ない傭兵たちがライソンを浮気者、果報者となじっているのだか茶化しているのだかわからない声援を送っている。イメルは蹌踉と彼らの後に続く。エリンに、なにを言えばいいのだろう。言わない方がいいのだろうか。彼に告げる一言が、あるいは告げないことが二人にどんな未来を選ばせるのだろう。ぞっとして、立ちすくみそうになった。自分の行動をしっかりと考える、とはこんなにも恐ろしいことだと、今更わかる。同時に、どれほどふわふわと生きてきたのかも。そしていまとなってはそのことのほうが怖かった。
「入ってよ、イメル。狭いけどな」
 どうやらライソンの自室らしい。浮気相手なのか、それとも新しい恋人なのかイメルに判断ができようはずもない。思えばエリンとは長らく会ってもいないのだ。若いライソンが別の恋を求めたとしても誰も責められない。責められるべきは自分だ。イメルが何度となく唇を噛みしめたとき、突然に後ろから頭を叩かれた。
「な――!」
 急なことに驚いていた。殴られる意味がわからない。しかも半エルフの子らしい魔術師に叩かれたのだ。ライソンならばともかく初対面の相手だ。そう思ったイメルが振り返り、再び硬直する。
「お前なぁ。注意力が散漫なんだよ。俺だってーの。なんでわかんねぇかな?」
「バレたら魔術師の名折れだとか言いやがったのはどこの誰だよ、エリン」
「イメルは別だろうが。こいつはいわゆる幼馴染ってやつだぜ? 俺の魔法の感覚はよーく知ってるはずだぜ?」
 にんまりと笑うエリンがそこにいた。そしてもう一度イメルを忘れたような顔をしてライソンに抱き付く。
「エリナード!?」
「遅ぇよ!」
 ライソンの腕の中から振り返り、エリンが笑っていた。それでも彼から離れようとはしないエリン。無作法を咎めるべきではあっても、イメルはそうはしなかった。
「お前が来てるとは思わなかったぜ、イメル。ちょうどいい、歌ってくれよ。降臨祭だしな」
 そしてエリンはライソンを腕の中から見上げた。降臨祭の晩だから。ほんの一晩の隠れた逢瀬。イメルは久しぶりに会えた恋人たちのため、精魂込めて演奏をした。
 もしかしたら彼らの邪魔をしたのではないだろうか。そのことにイメルが気づいたのは実に季節が変わってからのことだった。




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