エリンはカロルの忠告どおり、リィ・サイファの塔にいた。星花宮を出た直後、異変を感じ取っていた。通りに出たエリンは思わず苦笑したものだった。一線を引いたとはいえ、かつては傭兵隊に身を置いたこともある。その上エリンは魔術師だ。常人よりよほど感覚が鋭い。兵の殺気を感じ取るなど造作もない――とまでは言い過ぎとしても、これほどあからさまな殺気ならば嫌でも感じた。だからこそ、すぐさま路地に入り込み転移することができた。カロルの忠告のお蔭、でもある。
 塔の中はいつもと変わらぬ静謐。ほっと息をつきたくなるのは何度来ても変わらない。
 国王は、エリンが憎いのではない。エリン個人に対して思うところがあるのではない。魔術師そのものが気に入らない。
 そしてエリンはイーサウに敗戦を喫したあの戦いで当時王子だったアレクサンダーが率いていた暁の狼と関係がある、と知れてしまった。傭兵隊が戦わなかったから、王子の自分まで敗戦することになった、と思っているアレクサンダーのことだ、その傭兵隊と関係のある人間が自分の宮廷にいた、と考えるだけで虫唾が走ったのだ、とエリンにはわかっている。
 だからこそ、目の前にいなければ問題はない。そこにいる、と思うから手を出してくる。ならばいなければいい。それだけのこと。自分がイーサウ側についていたのが知られていたならばこのようなものでは済まなかった。いかに四魔導師が庇ってくれたとしても、確実に首が飛んでいた。だから王は事実を知らない。知っているのはエリンが狼とかかわりがあった、それだけだ。それも実際の情報を得たのではなく、イメルの戯れ歌で知っただけ。
 他愛ない子供のような馬鹿らしさ。これが一国の王だと思うだけで暗澹とする。そして何より酷いのは、国王自身がそれを自覚していないことだった。
「まいったね」
 追放の憂き目を見たエリンであっても、己の身の上のことはまったく心配していなかった。むしろ星花宮の今後のことのほうがずっと気がかりだ。だからこそ、自分はここで捕まるわけにはいかない。万が一の際に師や仲間の手助けができる場所にいなければならない。
 そのためにもまずはほとぼりを冷まさなければならない。国王の目も、いまはまだエリンを探していることだろう。そのうち飽きる、とわかっている。ならば今は身を潜めるに限る。
 そうしてエリンは塔にいる。まずしたことは、手紙を書くことだった。イーサウの、狼の魔術師、アランに宛てて。
 追放された、心配するな。折を見てそちらに行く。ただそれだけの内容だったけれど、アランはきちんとライソンとコグサに伝えてくれることだろう。
 本当ならばライソンに直接書きたいところではある。が、人伝に運んでもらう手紙では、持って行った人間の身が危ない。アレクサンダーの配下に捕まってしまえば、なにをされるかわかったものではない。
 だから結局、魔術による手紙、ということになる。かつてイーサウに遊びという名目の偵察に行ったとき、アランを呼びつけたよう魔力の鳩の形にしてイーサウに飛ばした。
「……ライソン」
 悪い、と思った。本当ならばすぐにも飛んでいってやりたい。この知らせを聞けば、どれほど心配することだろう。
 とは言うものの、実はエリン、失念していた。追放がよほど衝撃的だったのだろう。自分の置かれた身の上を把握し切れていなかった。
「自由、か」
 すでにラクルーサ宮廷魔導師団の一員ではなくなった。手紙を書きつつ、それを思った。そしてようやく染み通ってきた。
 自分はどこに行ってもいいのだと。ほとぼりさえ冷めればライソンの元に行くことができるのだと。ようやく湧き上がってきた思いも喜びより苦笑が先に立つ。
 長い間星花宮に身を置いていた。籍だけ置いていた時間も長かったけれど、星花宮は常に故郷だった。生まれた場所はもう忘れた。星花宮に引き取られたその日から、エリナードと名付けられたその日から、エリンにとって星花宮が故郷。
「失くしてはじめてわかるってのも陳腐だね」
 ふん、と鼻で笑ってもどうにも冴えない。それでも日々を過ごしていくうちに、少しずつ現実が馴染んでいく。星花宮が遠くなり、イーサウが、ライソンが近くなる。
 アランからは返事が来た。それこそ絶叫としか言いようのない手紙でエリンは一人、大笑いをした。ライソンが剣を取って駆けだそうとしたこと、コグサがそんなライソンを殴りつけて止めたこと。自分ではどうにもならないから、早く片をつけてこちらに来てくれ。アランの嘆願のような手紙。それでも狼がある程度落ち着いていることをエリンは読み取る。
「さすがだね、コグサ。やっぱお前はいい隊長だよ」
 本人を目の前にしては決して言わないだろう言葉も、こうして一人きりなら呟ける。手紙に、何度か指先で触れた。アランの手紙ではある。だがそこにライソンの声がこもっている、そんな気がした。
「なんでお前、傭兵なんだよ」
 魔術師ならば直接に声をかわすことができるのに。こうして人を介して話すしかないではないか。文句の一つも言いながら、それでもエリンは微笑んでいる。やっと、微笑むことができるようになった。何カ月も経ったわけではない。が、苦笑するしかなかった毎日から、抜け出そうともがき続けた日々だった。
「師匠のお蔭ってやつか。今頃どうしてんだかな。危ねぇよなぁ、あれ。ほっとくとばっさり行きかねねぇ」
 ぼそりと呟いてしまった己の声にエリンはぞっとした。まるで予言のようで。いつかフェリクスがアレクサンダーに剣を向けそうな、そんな気がしてしまった。
「まさかな」
 フェリクスには抱えるものが多すぎる。いくら愛弟子とはいえ、エリン一人のことで国王に敵対するわけにはいかないはずだ。
「あれで師匠は守るもんが多いからな」
 誰に対しても冷眼しか向けないような男であるのに、本人は心の柔らかい部分で色々なものを大切にしている。たとえフェリクス本人がそれを否定したとしても、エリンはそれを知っている。彼の精神の中に丸ごと抱え込まれた自分だからこそ、知っている。
 それが不安と言えば不安だった。あれほど守るものの多い彼を、ならば誰が守ってくれるのだろう。万が一の際、星花宮の弟子たちのうち、いったいどれほどがフェリクスの前、身を挺して彼を守ろうとするだろう。それを思えば今すぐ師の元に飛んで帰りたい。同時に、だからこそ、別のどこかで師のために働く場所を作らなければならない。自分が二人いればいいのに、詮無いことを思うぶん、エリンは立ち直ったのかもしれない。
 今日も堂々巡りで考えを弄んでいたエリンだった。不意に塔への来客を感覚しては顔を上げる。そしてすぐさま苦笑が浮かぶ。誰だか、わかってしまった。
「……エリナード」
 扉を開け、その場で立ちすくむ人影。少し見ないうちにずいぶんと痩せた気がする。
「よう、イメル。なんだよ?」
 茶でも淹れてやるよ、ちょうど飲もうと思っていたところなんだ。言うエリンの言葉など聞こえていないよう、イメルはそこに立ち尽くしたままだった。
「座れって」
 無理やり腕を引き連れて来ても、そうされていることにイメルは気づいていない様子だった。座らせて、茶器を手にあてがう。熱さにだろう、やっとイメルが顔を上げた。
「エリナード、俺は――」
「あのな。別にいいから」
「よくない! 俺が歌ったことで、お前は追放された。俺が悪かったんだ。もてはやされて、嵌められたのにも気づかないで滔々と歌ってた。馬鹿は俺だ!」
 叩きつけるよう、茶器を置く。その拍子に熱い茶が指先にかかったのにも気づかないイメルの手をエリンは取る。
「吟遊詩人だろ。手は大事にしろよ、商売道具だろうが」
「こんなもん、要らない! 俺が――」
「おい、イメル。まず人の話聞けよ、いいか? お前は嵌められた。それは事実だ。馬鹿で間抜けだったのもまぁ、事実だよな?」
「だから――」
「聞けっての」
 ふ、とエリンは微笑む。卓の上、頬杖をついてイメルの顔を覗き込む。悩んだのだろう、後悔したのだろう。憔悴しきったイメルの、友の、その顔。
「あのな、お前のせいだけってわけじゃねぇんだよ。ドジ踏んだのは俺も同じ。狼との繋がりを気取られなきゃ済む話だったんだってぇの。ついでに言うとな、イメルよ。俺は自由の身になったわけだ、わかるか? これで晴れてライソンのとこに飛んでけるってわけ。おわかり?」
「茶化すな、エリナード。お前がなにを言っても、俺にはわかる。お前も俺も、同じ星花宮で育ったんだ。お前が追放されたって意味が、俺にはわかる」
「だったらもう黙っとけ」
「だから、エリナード!」
「あのな、イメル。例えばだけどよ。お前が詫びてどーなるわけ?」
 はっとしたようイメルが顔を伏せた。責めているのではないことくらい、それこそ同じように育ってきた仲だ、彼にはわかっているはず。それでも顔など上げられない。
「どうにもならない。もう済んだことだ。だからよ、イメル。とりあえず先に進もうぜ? あのさー、イメル。俺がフィンを死なせちまった後、お前が言ったんだぜ。終わっちまったんだから先に進めって、言ったのはお前だぜ。だったら今度は俺がお前に同じことを言う。てめぇの言葉の責任だ。きっちり取れよ」
「……わかってる」
 軽口のようなエリンの言葉のその重み。自分のしたことをイメルは忘れたくない、そう思っている。決して忘れない、心に誓う。一時の言動で、どれほどこの友を傷つけてしまったのか。自分が何かを失ったのではない。大切な友人に失わせてしまった物の重みが肩に圧し掛かる。
「お前さ、歌うのやめようとか思ってないよな、イメル? 俺、お前の歌。好きだぜ」
 にこりとエリンは笑った。イメルは目をそらせなくなる。エリン追放の宣言がなされる前後、イメルは星花宮に謹慎させられていた。実際は監禁だった。下手を打てばイメルまで失うことになる。そう危ぶんだ四魔導師の判断。その間イメルは一人、歌をやめようと決心していた。それをいま、ここでエリンに撃ち抜かれた。
「呪歌の使い手に俺が言うのもなんだけどよ。まぁ、鍵語魔法も同じ言葉だ。俺もお前も同じ魔術師、言葉の怖さってのは嫌ってほど身に染みてるよな?」
 たとえそれが通常言語でないにしろ、魔術師たちは言葉によって他のものを支配し行使する。エリンはそれを言う。
「あぁ、怖いよ。すごく怖い、エリナード」
「それを知ったお前はもっといい歌が歌えるんじゃね? 魔道も一歩進んだってやつかもな」
「……偉そうだよ、お前。すげぇ嫌味」
 エリンは答えなかった。笑うのに忙しかったのかもしれない。だからこそ、わかってしまう。イメルはすでに許されていることを、はじめから責められていなかったことを嫌でも理解してしまう。口の中、小さく呟く、ごめんと。エリンは笑ってそれを見ていた。




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