王に首を差し出す程度のことは、予想していた。が、まさか追放は考えていなかった。甘かった、とエリンは思う。だからフェリクスがなにを言っているのか、わからない。
「エリィ、わかってる? 星花宮を離れたって、あなたは僕の弟子だ」
「そんな――」
 それは許されるのだろうか。アイフェイオンの名を持つ、ということは星花宮の一員であること以上に四魔導師の弟子である、ということ。常人にはわからなくとも魔術師ならばよくよくわかっている。
 だから厳密に言えばエリンは四魔導師の弟子であって、彼らの誰か一人の弟子、ではない。そのはずだ。それが星花宮の在り方だ。だがフェリクスは。
「あなたは僕の弟子だよ。あなたはこの僕が手ずから育てた僕の弟子だ」
 先ほどの再現のよう、フェリクスが自分の手をなだめるよう叩いている。それがなぜか笑えてしまった。
「なに笑ってるの」
「無茶言いやがるな、と思って」
「どこが? ねぇ、カロル。僕は誰の弟子なわけ?」
「あー、はいはい、馬鹿弟子は俺の弟子ですよ。だからなんだ、え?」
 投げやりな。ぼそりと呟きフェリクスは舌打ちする。これで師弟としては非常に仲がいいのだから不思議なものだった。
「ちょい待ち、師匠。それとこれとは違うでしょうが。あんたはカロル師の弟子だってのは当然だけど、俺が弟子んなったときにゃ――」
「エリィ。話が面倒くさい。いいんだよ、そんな細かいことは」
 どこが細かいんだろう。呟き声はタイラントのもの。凄まじい勢いでフェリクスに睨まれたタイラントはどこ吹く風、ととっくに目をそらしている。リオンが忍び笑いを漏らしていた。
「とにかく。あなたは僕の弟子だ。――ちなみに、不満があるわけ?」
 ふん、と鼻を鳴らす師の子供じみた態度にエリンはなぜか知らず泣きそうだった。追放される自分を慰めてくれているらしい師の、彼らしいと言うべきかぶっきらぼうな態度。無茶苦茶で、そのやりようが胸に迫る。
「ないですよ。はいはい、ねぇですって」
「なにそれ。別にいいけど。だからエリィ」
 再び鼻を鳴らし、今度はフェリクスが目をそらす。エリンは訝しげに眉を顰めた。あまり見たことのない師の顔つきだった。
「あなたは今日から、フェリクス・エリナードだ」
 表情の不思議さに囚われていて、聞き逃したかと思った。自分は変わらずフェリクスの弟子であるエリナードである、そう言われたのかと思った。愕然と握られたままの自分の手を引く。ついでのよう、フェリクスが引きずられてはこちらを向く。
「師匠!?」
「だから、なに? 不満があるんだったら聞くけど?」
「不満なんかねぇですけど! ちょっと待ってください。わかってんですか、あんたは! 俺は星花宮を追放されんだぞ!? なんでその俺にあんたの名前を寄越すんだ!」
「あなたが僕の弟子だから。いったい何度言ったらわかるの。ちょっと物覚えが悪すぎ」
「師匠の教え方が悪いんでね」
「……ふうん。そう」
 険悪になった眼差しから、なぜかタイラントが逃げようとする。視線は真っ向からエリンを捉えているだけだというのに。習慣、というものらしい。
「まぁ、いいや。悪態くらいは許してあげるよ。僕は寛大な師匠だからね。それに、こんなこと言いたくないけど。口の悪さは継承済みみたいだし? ついでに名前も継承しときなよ」
「ついでで済ますようなことかよ!」
「そんなもんだよ、別に。――僕は、追放されるあなたにあげられるものがなにもない。守ってあげられなくなる。だったら、はったりでもなんでもいいじゃない。あげるって言ってるんだから持って行きなよ。継承式はする暇ないけど、いいよね。あなたは僕の心を隅々まで知ってるわけだし。他に言っとくこともない気がするしね」
 滔々と文句を言いつつ、けれど迫ってくる師の愛情。エリンは答えを持たなかった。黙って頭を下げる。それで、わかってもらえる気がした。そっと握られた手に師のぬくもり。
「……面倒くせぇな。もらっときますけど。これで俺は弟子取らなきゃならねぇじゃねぇですか。ほんと、面倒くせぇな」
 ぼそぼそと呟くエリンの涙まじりの声を四魔導師たちは笑わなかった。エリン一人を犠牲にしたことは、誰もがわかっている。エリンを国王の手から守り抜くことができなかった。あるいはしなかった。星花宮の他の弟子たちのために。追放と言う手段をもってしかエリンを守れなかった。これはけれど償いではない。それはエリンが誰より理解していた。いずれ時至ったならば、何事がなくともフェリクスは己の名をエリンに継承させるつもりでいた。それが早まってしまっただけ。嫌と言うほどよくわかる。
「取らなくってもいいけど? 僕はあんまり系統がどうのってどうでもいいからね」
「師匠がよくても俺がよくねぇよ。俺があんたの血脈を途切れさせるわけにゃ行かないでしょうが」
「ふうん。好きにしていいけど」
 言いつつフェリクスは目をそらす。エリンにもようやくわかる。単に照れているだけだと。ちらりとタイラントを見やれば苦笑していた。
「んで? 星花宮を出たらどこ行くつもりだ。目算はあるんだろうな」
 カロルの問いにフェリクスが噛みつく。そんなことを聞くべきではないと言って。一応は王家の臣である自分たちがエリンの行き先を知れば王の問いには答えざるを得ないのだから、と。カロルはそんな弟子の態度を一蹴する。エリンが答えない、もしくは最初から問うつもりもないことだったのかもしれない。
「まぁ、どこに行くにしてもよ、忘れもんはするんじゃねェぞ」
 一度星花宮を出たならば、もう二度と足踏み入れることはかなわないのだから。とどめのようなカロルの言葉にフェリクスが拳を握る。いつの間にかタイラントがフェリクスの隣に立っていた。
「ちなみに、わかってると思うがな。孫」
「はい!? なんすか、その孫ってなぁ」
「あん? テメェは馬鹿弟子のガキだろ。倅のガキなら俺の孫。あってんじゃねェか」
「ずいぶん美人さんなお祖父様もいたものですねぇ。可愛い、カロル」
「……気の抜けるようなことぬかすんじゃねェよ、ボケが。で、だ。一応忘れてるとまずいから言っとくがよ、リィ・サイファの塔は現時点で俺の管理下にある」
 近々継承させるつもりだがな、カロルは続けた。驚いたようフェリクスが目を丸くする。が、その話はあとだとばかりカロルが片手を振った。
「わかるか。塔は俺の管理下だがよ、王室の所有じゃねェ。俺の言ってる意味はわかるな?」
 にんまりとした黒衣の魔導師にエリンは朗らかに笑った。星花宮を出ても、塔への出入りは自由だ、彼はそう言ってくれた。魔術師としてこれほどありがたい贈り物はない。同時に、避難場所もくれたのだと遅れて気づく。
「エリナード。先立つものがあって悪いということはないですからね、持ってお行きなさい。旅の餞、というものですよ」
 にっこり笑ってリオンが差し出した革の小袋には、これでもかとばかり宝石が詰まっていた。さすがに眩暈がする。餞別で済ますようなものではない。
「あぁ、お気になさらず。地属性の魔術師ですから、私。その程度はどうということもないですし」
 確かに宝石というものは大地に埋まっているものであるし。――考えたところで無駄を悟り、エリンはありがたく受け取ることにした。
「これは、俺から。即物的で悪いけどね」
「こっちのほうが気楽にもら……えねぇんですけど、ありがたくもらいます」
 似たような革の、こちらはいささか大きな袋には金が入っているのだろうと思ったら案の定。タイラントの差し出したそれの額の桁違いぶりにエリンは頭痛がする。
「いいんだよ、どうせ歌って稼いだんでしょ。元手はかかってないんだからもらっときなよ」
「シェイティ。そりゃないよ」
「文句があるの」
 睨まれてもタイラントは笑うだけ。四魔導師のささやかで盛大な諍いや笑い声から、自分は旅立っていくのだ。不意に足がすくみそうになる。
「……エリィ」
 すぐさまフェリクスが腕を掴んだ。これはもしかしたら精神の中に抱え込まれてしまった過去の、あの後遺症なのではないか。エリンは疑う。それほどフェリクスは心の動きに敏い。
「大丈夫ですよ、師匠」
「つらかったら戻っておいでとは言えないんだけどね。でも助けが必要だったらいつでも――」
「師匠。ちょうどいいと思いませんか」
「……なにがさ」
「そろそろ親離れ子離れの時期ってことでしょうよ」
 にやりとすればカロルが大袈裟なほどに大きな笑い声を上げた。あれは間違いなくフェリクスをからかうものだ。エリンは気づいたけれど、フェリクスはそれ以上を悟る。カロルもまた喜んだのだ、と。己の弟子が一人の魔術師を立派に育て上げたことこそを、カロルは弟子のために喜んだのだと。フェリクスの目許がほんのり染まり、エリンは苦笑する。
「ほとぼり冷めて、落ち着き先が決まったら連絡しますよ」
「いいよ、危ないし」
「知らないと気になるでしょうが。大陸中探しまわられるかと思うと落ち着かねぇや。連絡します、俺から」
「――勝手にしなよ、待たないからね」
 顔をそむけ、背を向け。フェリクスは呟く。エリンはその背に向けて深く一礼した。これまで育ててくれた恩、それ以上の親でもこうはいかないほどの愛情。なにより、エリンの手に魔法をくれた師の背中。別離の言葉は言わなかった。二度と会えないわけではない。そのつもりで言わなかった。頭を上げれば他の三人が微笑んで見送ってくれた。エリンもまた笑みを返し頭を下げ、背を返す。
「――エリィ!」
 扉を出る直前、フェリクスが叫んだ。後悔にも似たその表情。守れなかった。最後まで手放すのをためらってくれているその表情。だからエリンは笑って出て行ける。
「行ってきます、師匠」
 まるでそこまで使いに行くのだと言わんばかりに言ってのけ、扉を閉めた。さすがに、閉めきった途端、力が抜ける。当分師の顔が瞼の裏から去りそうにない、そう苦笑した。
 扉の向こう、小さな声が聞こえる。タイラントがフェリクスを慰めているのだろう、歌声めいた囁き声。ほんの少し、エリンは立ち止まったままそれを聞く。
「よし」
 なにもよくはない。少しも大丈夫ではない。それでも、生きている。星花宮を離れたとしても、四魔導師の思いはこの身に篤い。ならば拳を握りしめて立ち上がる。あの日、フェリクスに生かされた命だから、立って歩く。エリンはもう一度扉に向けて一礼し、そして星花宮を出て行った。




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