転移した先は当然のよう、星花宮の自室だった。長年ここに暮らした、との思いがふとエリンに湧き上がる。それが少し、怖かった。 「理由は、わかってるみたいだね」 フェリクスの覇気のない声。いつか師がしてくれたよう、殴って気合を入れてしまいたくなるような声。エリンは苦笑してうなずく。 「イメルの歌でしょうね。あいつ、宮廷で歌ったらしいじゃないですか。よりによって俺とライソンの戯れ歌を」 庶民の間でも話題になるくらい、好評だった。あるいは決定的に嵌められた。いずれでも結果は同じだ。国王の耳に届いた、ということはエリンと狼の繋がりを知られた、ということ。 いままでだとて星花宮の魔導師として警戒されていた身。それが漠然とした誰かではなく、エリナード・アイフェイオンと特定された。しかも暁の狼の関係者として。 「――僕は」 「師匠。あのね、こんなこたぁ言いたかないですがね、俺の色恋は、てめぇの問題です。それで首括られるってんなら、自業自得ってもんだ。師匠は手ぇ出すべきじゃなかったでしょうが」 「そんなことできるわけないでしょ! わかってるの、エリィ。あなたのことなんだ。あなたを僕が見捨てると思ってるんだったら、ずいぶんと見くびられたものだね。そんな弟子を持った覚えはない!」 ようやく普段のフェリクスになった。微笑むエリンに乗せられてしまった、と気づいたのだろうフェリクスが舌打ちをする。 「でもね、師匠。俺を国王に渡して切り捨てた方が、星花宮は安泰だった。違いますかね」 「違うよ。根本的な勘違いをしてる」 「――あぁ、すでに安泰とは程遠い? そりゃ心躍る現実ってやつだ」 師弟で肩をすくめあっていれば世話はない。だが実際、それくらいしかできることがない。エリンは部屋の中を見回す。 星花宮の弟子、と一言で言われていても段階はいくらでもある。引き取られたばかりの幼い子供たちから独り立ちした上で師の補佐をしている魔術師たちまで。幼いうちは多くの仲間と同室で共に暮らす。独り立ちが許されれば、こうして部屋をもらうことになる。ここに暮らしたのは何年ほどだっただろうか。それほど長くはない。独立してすぐ、エリンは傭兵隊に行ってしまった。市井で研鑽を積み、いずれは星花宮に帰還するつもりだったが。だがしかし、エリンは一時期その魔力のほぼすべてを失った。それなのに星花宮に籍を置いたままにしてくれた師の愛情。帰ってくる場所を作ってくれた師の心。一度はここにライソンを招き入れた、とも思い出す。だからこそ、時間的には長く暮らしたはずのない部屋が、こんなにも懐かしい。 「それでもね、エリィ。あなたを見捨てるってことは、星花宮が瓦解したってことだよ」 「んなこたぁ――」 「あるんだよ。僕らが弟子を見捨てるって言うのは、そう言うことだ。僕らは、弟子たちの誰一人として見捨てたりしない。それが師匠の責任ってものだからね」 真っ直ぐと見上げてくる小柄な師からエリンは目をそらしてしまう。昔からそうだった。とても敵わない。敵いたいとたぶん、思っていない。 「……師匠。頼みがあるんですが」 「なに」 「イメルの馬鹿。責めないでやってくれませんかね。吟遊詩人ってなぁ歌って語るのが商売だ。間が抜けてたって言っても、嵌められたのは俺だ。身内でやりあっちまっただけでしょ」 だからイメルを責めてくれるな。歌うことをあいつから取り上げてはくれるな。エリンの言葉にフェリクスの眼差しが和む。感謝に見えた。 「……タイラントがね」 「悲鳴でも上げましたか。あいつはタイラント師の弟子ですからね」 「卒倒したよ。本気で」 なんとも言い難い声を上げてエリンは天井を仰ぐ。それでもタイラントはイメルを捨てはしない。フェリクスがエリンを庇うように。それを信じられるのがなにより幸福だとエリンは思う。 「イメルのことは、あいつの責任。あなたはうちの子だしね。僕が責任とるのが筋ってものでしょ」 「ちょっと待ってください、師匠! あんた、なにするつもりだ!」 「ねぇ、ちょっと。それが師匠に対する口の利き方なわけ? 前から思ってたけど、あなた。傭兵と付き合って口が悪くなったんじゃないの」 「今更なに言ってんですか。俺は師匠の弟子ですよ。口が悪いのなんか当たり前ってもんだ」 「おかしなことを言うね、可愛いエリィ。まるで僕の口が悪いみたいじゃない?」 にっこり笑う無邪気な悪魔をどうしてくれようかと一瞬思ったものの、次の瞬間にはエリンは笑いだしている。この時間も、もうすぐ終わるのだ。不意に確信が湧いた。 「さて、やることしちゃおうか。エリィ」 つい、と腕を引かれた。まるで子供のように師に手を取られて部屋を出た。振り返りはしなかった。懐かしい部屋が遠くなって行く。 星花宮の中はいつもと違って静かだった。異変がすでに伝わっているのだろう。魔術師たちも弟子たちも、揃って部屋にこもっているらしい。あるいは四魔導師の命令か。 「連れてきたよ」 無造作にフェリクスが入っていったのは、広間でも会議室でもなんでもない。そのことにエリンは少しだけ驚く。メロール・カロリナの自室だった。 「おう」 片手を上げて黒衣の魔導師が挨拶を寄越す。黒衣の魔導師、と呼ばれている割に星花宮にいるカロルは黒をまとうことは少ない。いまも魔術師らしくはない、裕福な商家の若者のような胴着姿でソファに腰を下ろしている。その背後を守るよう、リオンが微笑んで立っていた。その笑みが挨拶代わり。そしてカロルの正面、憔悴した顔をしたタイラントが浅く腰かけている。 「ごめん、エリナード」 開口一番、タイラントは詫びた。師として、嵌められた弟子の不始末を詫びた。エリンは笑って首を振る。 「付けこまれる隙を作っちまったのは俺です。誰でもない。タイラント師、さっき師匠にも言いましたけど、イメルのやつを責めないでやってくださいよ」 「でも――」 「済んだことですよ、タイラント師。今更へーかに聞かなかったことにしてくださいってわけにゃ行かねぇでしょうが」 「ま、難しい問題ではありますけど。できなくはないですよ、エリナード」 「リオン師が言うとものすっごく不穏ですから」 「おやおや、星花宮一の人格者で通ってるんですよ、私?」 「比較対照が間違ってるんです。ここにゃ人格者なんてぇもんはいねぇんですよ」 「実際やろうと思って発案はしたがよ、やるとなると星花宮と王室の戦争だからな。俺とリオンの独断ってわけにもいかねェし。馬鹿弟子に言ったら乗りそうで怖ェし」 ぼそりと言うカロルにエリンは顔を顰める。本気でやりかねない。そしてフェリクスも乗りかねない。辺りを見回してタイラントに目を留める。涙目になって首を振っていた。どうやら彼一人は反対らしい。つくづくほっとした。 「んでもって、俺はどうなるんですかね。一応、首が危ぇんだったら知らせたいやつの一人や二人はいますし、遺言くらい残してもいいのかなぁ」 「なに馬鹿なこと言ってるの。あなたを死なせる? それだったら僕はカロルの提案に乗るよ。あぁ、そうだ。思いっきり乗ってやる。僕が率先して――」 フェリクスが言葉を留めたのではない。エリンが背後から羽交い絞めにしていた。タイラントがごめん、と目顔で詫びる。 「でもね、エリナード。それは俺も同じ気持ちだからね。俺の弟子の不始末だから言うんじゃない。俺は俺なりに君を大事に思ってる。そう言ったのを覚えてる?」 「覚えてますから! ものすごくありがたいと思ってますし、実際問題として俺が死んで済むような話でもねぇってのも察してますから! いまのは戯言、失言の類です。だからタイラント師! あんたの男だ、ちゃんと躾けてください! なんでこう攻撃的なんだ!」 「……エリナード。俺も命は惜しいんだ」 エリンの腕を振りほどき、フェリクスがタイラントを睨みつける。ぎくりとしてタイラントは身を縮めたけれど目が笑っている。どうしようもない師匠たちだ、とエリンの目が言っていた。 「まぁ、なんだ。テメェの処遇だけどよ。平たく行こうか、それとも回りくでェ方がいいか」 「ざっくり行ってください、ざっくりと! いい加減俺だって覚悟が鈍るってもんでしょう」 言い返したエリンにカロルの翠の目が笑う。なぜか初めて綺麗だ、と思った。いままでカロルを恐ろしく思ってきた。尊敬はしていたけれど、やはり怖いとも思っていた。 それがいまは。対等だなどとは口が裂けても言えないし、考えることすら不遜。それは実感している。それでも同じ魔道を歩く者だ、と不意に思った。後になって思う。独立の瞬間はここだったのだ、と。それまでは師の手の中にぬくぬくと守られていたのだと。 「――リオン」 カロルが片手を上げた。微笑んでリオンがエリンに近づく。タイラントもまた。そしてカロルが正面に立つ。はじめからフェリクスはエリンの片手を取ったままだった。四人の魔導師に囲まれ、それでもエリンは毅然と立っていた。それこそをよしとするようカロルが微笑む。 「星花宮の魔導師は、宮廷魔導師。忠誠は国王に、利益も国王に。外部のいかなるものを利することも許されない」 表向きは、そう言うことになる。人間関係など、そればかりで測れるものではないけれど、だが法はそう規定している。エリンはそれを破った。暁の狼という傭兵隊と親しくしその利益を図った、ことになっている。少なくとも、国王はそう思っている。そしてあの王には疑い以上に必要な理由などなかった。 「弁解があるなら聞こう」 カロルが唆す。国王の言いがかりなど吹き飛ばせと。守ってやる。そう言われた気がした。だがそのとき星花宮は。だからこそエリンは抗弁しない。 「ありません」 自分一人が責を負うことで、星花宮を守ることができるならば安いものだ。本気で思った。師を悲しませることになる、それだけが心残り。エリンの覚悟を見定めたよう、カロルの表情が引き締まる。 「エリナード・アイフェイオン。この瞬間を以て、お前からアイフェイオンの名を剥奪する」 す、と血の気が下がった。殺されたほうがましだ。叫びそうになった声を留めたのはフェリクスの手。生きていて。それだけを伝えるよう握りしめている師の手。 「名もなき魔術師、エリナードを星花宮から追放する」 四魔導師の宣言。この時点をもって、エリナードは故郷を失った。友を仲間を、親をも。青ざめた顔でフェリクスを見つめる。 「とはいえ、あなたは僕の弟子に違いはない。氷帝フェリクスの弟子である名もなき魔術師エリナードって、いかにも面倒で長すぎると思わない?」 紙より白く血の気を失くしたまま、それでも微笑むフェリクスにエリンはじっと眼差しを向け続けていた。 |