ライソンのところから戻って十日が経ち、二十日が経つ。やるせない気持ちばかりが募っていく。以前は半年近く耐えたのだ。そう思っても一度会ってしまったからには気持ちの抑えようがない。
 それを強いてエリンは普通の生活をしていた。いつものよう近隣の店に顔を出し、食事をし、人々と喋っては自分の店に戻って客の相手をする。
 相手はあのアレクサンダー新王。魔術師を嫌っている、否、憎んでいるとすら言ってもいい王相手に気は抜けない。付け入る隙を見せれば喰われるのは星花宮。
 その思いだけがエリンを立たせ続けている。自分が育った星花宮。師や仲間。後輩たちに先輩たち。彼らを守る手段の一つをフェリクスが整えつつある。師の手駒の一つである自分が恋に現をぬかすわけにもいかない。
 だからこそ、情報を集め続ける。何も普段の生活を演出しているのではない。庶民というものは、貴族が思うより物を知っている。なにも知らない、と貴族は思いたがっているだけだろうと、そもそもは庶民階級の出身であるエリンは苦く思う。
 なにも重大な情報でなくていい。貴族が看過する程度の情報で充分。それこそが、エリンは知りたい。貴族が知り得る情報ならば、星花宮でフェリクスが集めている。師の手の届かない部分を弟子の自分が補うのは当然というもの。そして補うことができる能力と手段があることこそをエリンは何者かに感謝したい。フェリクスに言えば自分の能力を疑うな、とでも言われることだろうが。
 人々は言う。アレクサンダー王の話は知らない、と。つまるところそれは、現状では亡きイェルク王とさして政策を変えていないらしい、と庶民が思っている、ということ。
 曰く、王様は狩りがお好み。服喪中のいまはずいぶんと退屈なさっているらしい。貴族の誰それがこのところ機嫌がいい。あちらは下働きにも八つ当たり。向こうは侍女に手を上げた。等々。
 聞く耳さえあれば庶民は色々なことを話してくれる。貴族が「知られていない」と思っていることまで。
 貴族たちは忘れている。あるいは気づいていない。彼らに仕える下働きたちは庶民だ、ということに。高位の貴族にもなれば侍女たちや従僕たちは下位の貴族の家から出てはいるだろう。だがそんな家でも台所の世話、庭の手入れ、洗濯物。そんな仕事するのは庶民だ。
 そして下働き、というものは貴族の目には映らない。本気で見えていないのではないかとエリンは疑っている。それほど気にも留めていない。
 だから彼らが何かを見聞きしているとは思ってもいない。侍女の前では体裁を取り繕う高位の貴族も、下働きの耳があることを気にしない。
 だからエリンは街にいる。庶民たちが自分の家族に、親しい人たちに他愛ない噂話、として話す貴族の話を聞くために。彼らも当然、職は惜しい。雇い主に睨まれるようなことは語らない。話術が決して得意ではないエリンだから、すべてを語らせることは難しい。だから何人にもに話を聞く。あとは話を継ぎ合せればいい。
「ったく。ほんとはこれ、吟遊詩人の仕事じゃねぇのかよ」
 ようやく店に帰ってきてエリンは肩を落とす。自分にあっているとは言い難い仕事だ。疲れもする。確かに吟遊詩人のほうが効率よく話が聞けるだろう。だからこそ、他国から訪れた吟遊詩人は警戒されるほどなのだから。
「イメルめ」
 いったい今はどこで何をしているのか。彼のことだから新王が立った評判をミルテシアあたりに聞きに行っているのかもしれない。さすがにそれは吟遊詩人にしか、できない仕事だ。まさかタイラントに行け、と言うわけにもいかないだろう。
「まぁ、無茶言ってるけどな」
 自覚はしていた。だからこれは誰が聞くこともない愚痴だ。エリンはそれこそ自覚している。イメルでは、用が足らない。
 イメルはフェリクスの策を知らない。エリンは片鱗であろうとも、知るべきことは知っている。だからエリンは自分が知ることに基づいて情報を集めている。あるいはだから、別の何かを知っている弟子が他にもいて、そちらはそちらで動いている可能性もある。
「それくらいはしてるよな、師匠」
 拗ねているのではない。むしろそうしていてくれなければ、怖かった。自分の肩に、自分と師の二人きりの肩に星花宮の行く末がかかっているのかと思えば。
 考えすぎだ、とエリンは笑い飛ばす。何も星花宮を率いているのはフェリクス一人ではない。タイラントがいる。リオンがいる。なによりカロルがいる。カロルがいる限り、おそらく新王は動かない。
「怖がってるもんな」
 四魔導師、と一口に言われはするが、実はカロルとフェリクスの魔力は図抜けている。タイラントやリオンが劣るのではない。彼らとて星花宮の四魔導師と称されるに充分すぎる。だから彼らが超一流なのだとしたら、カロルとフェリクスは人外だ、というだけのこと。
 そしてアレクサンダーはカロルをより怖がっている、らしい。このあたりはフェリクスからの情報だった。
「僕は宮廷に出ないからね」
 一言で済ませたけれど、実際は違う。フェリクスは表立って動かないだけだ。事実、イェルク王とより親しかったのはカロルではなくフェリクス。そして表に立つ機会の多かったカロルを、アレクサンダーは魔術師の首魁として恐れている。
「馬鹿か、あれは」
 カロル以上がいるとは思わない。カロルと同等がいるとも思わない。それだけカロルが恐ろしいという意味なのかもしれないが、ならば恐れ方が足らない、と星花宮の弟子であるエリンは思う。
「カロル師が怖いんだったらあれとおんなじのがごろごろしてるって考えんのが普通だろうによ」
 もっとも、そう考えただけで星花宮の弟子たるエリンがぞっとしたのだから、魔術師を恐れる新王は考えたくもないことなのかもしれないが。
 エリンはちらりと思う。考えすらしなかった。思った瞬間に首を振った。浮かんだそれを退けた。――カロルが亡くなった後は、どうなるのかとは。
 ぞっとした体を奮い立たせ、エリンは再び活動を開始する。毎日の繰り返し。それでも新しい話はどこにでもある。
 当然と言えば、だから当然。エリンの耳に宮廷の噂は届きにくい。宮廷の下働きがくれる情報はあるけれど、宮廷で話題になっている何か、など下働きが知っているはずはない。だから耳に入るのが、遅れた。
 噂話は語る。いい声の吟遊詩人が歌っているのだ、と。下働きがこっそり宴席の隅で聞いたらしい。吟遊詩人は敗北して去って行く傭兵と、それを見送る魔術師の悲恋を歌ったらしい。
 聞いた瞬間、ぞっとした。策略にはまったらしい、という恐怖ではなく、歌の題材のひねくり返った甘さに肌が粟立った、という情けない理由で。少しばかり身に覚えがあることだけに共感してしまった苦笑もあったのだけれど。
「へぇ。どんな歌なんだよ? 魔術師ねぇ。聞き覚えはねぇけどな。知り合いかね」
「まさか。これってあれだろうよ、嘘っぱちって言うかさ、よくやるんだろ、吟遊詩人ってやつは。ほんとのことじゃないにしたって、でもまぁいい歌だったらしいぜ」
 酔った男は酒場でからからと笑って酒を飲み干す。付き合ってエリンも酒杯を空ける。おかげでこのところ自作の胃薬が大活躍だ。そんなことをちらりと思ったとき、男が歌いはじめた。男の親戚が耳にしたという吟遊詩人の歌を。
 聞いた瞬間、今度こそエリンはぞっとした。馬鹿がいる。わかっていてやっているわけはない。あれは仲間で友人だ。だから、ぬかっただけだ。わかっていた。
 エリンはそれでも笑って付き合い、何事もなかった顔をして店に戻った。冷たい水をわざわざ自分の手で作りだし、飲み干す。
「ドジ踏みやがって」
 舌打ちを一つ。それでも浮かぶのは苦笑。相当の苦境に立たされる。わかっていても憎めない相手だとも思う。淡々と店の中を片付けた。あるいは二度と戻ってくることができない可能性。ライソンにも会えないかもしれない。そっと首のあたりを撫でる。苦笑しかできなかった。
 物事が動くときというものは、こんなものかもしれない。翌日早々に城の衛兵がやってきた。連行する、という衛兵は店の中を見て驚いたらしい。すべてがあまりにもきちんと片付いている。
「どうぞ」
 差し出したエリンの手に衛兵は渋い顔をする。本当ならば縛り上げて連れて行きたいところだろう。が、相手は魔術師。それも町の魔術師ではない。これでも星花宮の魔導師だ。縄などかけても無駄だと彼らは知っている。エリンは抵抗しない、という意味で両手を差し出したのだが、衛兵たちはそんなことまで知るはずはない。無言で一人が背を向け、一人がエリンの背後につく。店を出た途端、やじ馬たちがさっと目をそらした。エリンは苦笑するしかない。これでは何事もなく解放されたとしても――そんなはずはないだろうけれど――店を続けて行くのは難しいかもしれない。そんなことを思う。
 他愛ないことを考えている。それはわかってはいたが相手の出方がわからない。衛兵を見れば相手が国王だということはわかる。が、なにをどう咎めてくるかわからない。わからない尽くしの中、わかっていることは一つ。魔術師が憎まれている。
「こちらに渡してもらうよ」
 はっとした。衛兵のほうが驚いたかもしれない。どこからともなく声が聞こえ、遅れて姿が現れる。よほど急いだらしい。
「師匠……」
 愕然としたエリンの声に、周囲に集まりだしていた人々が沸いた。エリンが星花宮の魔導師なのが知れ渡っているのならば、同時に彼の師が誰であるのかも知られているということ。
「氷帝だ――」
 人々の中から声が上がる。現れたフェリクスはつかつかとエリンに近づき、縛られていないことを不思議そうに見やってからエリンの手を取る。
「もらっていくよ」
「――ですか、フェリクス師。我々は陛下の」
「その陛下からお許しをいただいている。これは我ら星花宮の不始末。我々で決着をつけるべき問題、とメロール・カロリナが進言し、陛下は肯われた。質問は」
「……いえ」
「結構」
 言ってフェリクスはエリンを見上げた。衛兵は不承不承去って行く。一度店に戻るのも馬鹿らしかったけれど、衆人環視の中でする話でもない。第一店の扉はすぐ背後だった。
「ごめん、エリィ」
「なんすか、師匠。詫びられるような覚えはねぇですよ」
 まだ取られたままの手に手を重ねぽん、と叩く。まるで師を慰めているようなよい気分だった。
「ここじゃ、なんだね。向こうで話そうか」
 結局店の片づけは功を奏した、ということになる。いずれにせよ、たぶんここには戻ってこられない。エリンはそれを確信していた。




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