狼の新しい宿営地はラクルーサにあったそれに比べれば段違いに狭い。それ以上に粗末だ。当然と言えば当然。イーサウ自体がまだ新しい国なのだから。兵の営舎など掘立小屋に毛が生えたようなもの。酒場も場末のそれのほうが品よく思えてしまう。 そんな宿営地が、沸いていた。空気を沸騰させたらこうもあろうかと思うほど沸きに沸いている。昨夜のライソンのせいだった。 「で、あれはあの野郎であってんだな?」 なんとか隊長執務室ばかりは体裁を取り繕ってある。手狭ではあるが、客が来ても恥ずかしくない程度にはなっていた。その机の向こう、コグサが頭を抱えている。 「まさか違うだなんて隊長、思っちゃいないでしょうね?」 にやりとライソンが笑う。騒動の責任を追及されている、らしい。が、茶番だとどちらもが知っている。 昨夜、酒場に現れた美しい魔術師。イーサウの住人もちらほら酒場にはいたから、その連中の驚いた顔に傭兵たちは魔術師の正体を知る。独立戦争の時、イーサウに味方した魔術師アノニムだ、と。もしもそんな噂を聞けばエリンは心の底から胸を撫で下ろすことだろう、幻影を被っておいてよかった、と。 「面の出し方が大袈裟なんだ、あの野郎は。なんでわざわざ目立つことしやがんだ。ったくよ!」 「あ、いや。隊長、そりゃ誤解っす。騒動起こす気はなかったらしくって」 「は? わざわざ酒場に――」 「いやいや、それが間違いでして。あいつは俺の部屋を転移の目標にっつーか、部屋だと思って転移してきたっつーか、そんな感じらしいんですけどね」 困ったようライソンが頬をかく。エリン曰く、最もライソンが留まっている場所であるのならばそれは自室だろう、と予測したらしい。だからこそを出現点に選んだ、と言っていた。 「ほう? なのに間違えやがったか、あの馬鹿は」 「いやいや、間違えたんじゃなくって。単純に俺が自分の部屋にいるより酒飲んでる時間のほうが長かったってだけで――」 言った途端だった。コグサに怒鳴られたのは。あるいは最初から見透かされていたのかもしれない。エリンの騒動、などというものは説教の前段階であって、本題は体調管理を正しくしろ、のほうか。ライソンはぬかったとばかり天井を仰ぐ。 「おうおう、坊主よ。わかってんだったらきっちりやれよな。お前はなにもんだ、え? 体一つで飯食ってんだぞ。二日酔いで役に立たねぇなんてことしやがったら即座に叩きだすから覚えとけ」 できれば追い出してほしいなぁと思わないでもないライソンだった。そうすればエリンの元に。思ったけれど、やはり内心で首を振ってしまう。ラクルーサに戻ったとしても、自分には戦うより術はない。ぐずぐずとエリンの側で燻るだけの人生など送りたくない。エリンに恥ずかしい。 「で、あいつはなんか言ってたか」 「隊長の話なんかしたくねぇそうですよ? せっかく会えたのに野暮なこと言うんじゃねぇって怒られましたけど」 「言ってろ。で?」 「いや、マジで。ほんとになんも言ってなかったですし。本気で拗ねてたからマジっすよ」 ライソンの少しばかり照れた声音にコグサは深くなった頭痛をこらえる。失敗した気がした。どこかで無駄な努力、という声が響く。 「言うな、ライソン。ありゃ、俺のダチなんだ、わかるか。ダチなんだ。拗ねたのなんのと戯言は聞きたくねぇ。あの野郎が拗ねる? ぞっとするわ!」 「ときめかれても俺も困りますし」 「言うんじゃねぇ、背筋が寒くなるって言ってんだろうが!」 声を荒らげ、自ら両腕で体を抱く。震えがきている気が本当にしている。少なくとも、コグサが知るエリンはそのような男ではない。フィンレイと共に過ごしているころだとて、そんな顔は見たことがない。あるいはフィンレイは見たことがあったかもしれないが。 ぞっとしつつコグサは考えている。エリンは本当に何も言っていかなかったらしい。色惚けか。一瞬は思った。が、あのエリンだ。それはないと即座に否定する。 ならば言わなかったことが答えになる。告げる意味がない。あるいは告げないことこそが返答。真剣になったコグサの眼差しにライソンはじっと己の隊長を見つめていた。いまはまだとても敵うとは思えない凄い男。いつかコグサのようになりたい。憧れの眼差しに気づいた様子もなくコグサは考え続けていた。 言うべきことがないのか。それは変化がないと同義か。ならば、ラクルーサは落ち着いている、ということか。 否。違う、そうではない。最低限、エリンの周囲が落ち着いているはずがない。もしもそうならばエリンはもっと早くライソンの元を訪れたはず。同時にアノニム騒ぎだ。つまりエリンはラクルーサ側に警戒されている、そう言うことか。 だがそれは以前からではなかったか。独立戦争以前、イーサウを訪問した時にも異常なほどに気を使っていたエリン。ならばなぜ今になって警戒を厳にする。 「馬鹿か、俺は」 己の頭を拳で叩く。忘れていたわけではないが、新王はあのアレクサンダーだった。今頃はまだ祝典に大はしゃぎしているだろう顔が浮かぶ。 「だから、いまか」 祝典に飽きる前に。新しく握った権力を使ってみたくなる前に。ラクルーサを一晩でも空けられるのはいましかない、エリンはそう考えたのか。 それはつまり、エリンはアレクサンダー新王が星花宮を敵対視し、大鉈を振るう可能性を否定していない、ということになる。 さすがにコグサもぞっとした。エリンの無言には、おそらくそれだけの意味がある。自分は動けない。これ以上は無茶ができない。たぶん、エリンはそう言っている。 「隊長」 「なんだよ? いま考え事してるんだがな」 「――エリンなら、大丈夫ですよ」 ふ、とライソンが笑った。ラクルーサについていたころには見せなかった顔だ、とコグサは思う。ほんの半年でも人間は成長する。その証のようでコグサはくすぐったくなる。 「生意気ぬかしやがって。だいたいなんだ、俺があの野郎の心配してるようにでも見えたかってんだ。俺の心配は――」 「ラクルーサがどう動くか。イーサウがどう出るか。要は、俺たちが生き残る可能性が一番高いのはどこか。でしょ?」 コグサは黙って立ち上がり、無言で腕を伸ばす。机の向こうに立つライソンに向け、拳を落とす。 「生意気だって言ってんだろうが」 ぼそりと言えば誠意のない詫びが返ってきた。それににやりとし、コグサは疲れたよう再び腰を下ろした。 「ったく。出来がいいガキってのも考えもんだぜ。お前がどうしようもねぇ野郎だったら手に負えねぇって放り出してやるのによ。いまじゃ俺の片腕だからな」 「ご冗談。俺なんかが片腕じゃずいぶん不自由でしょ。まだまだっすよ」 「……お前、放り出されてあいつんとこに、とは思わなかったのか」 「思いましたよ。何度も。でもあいつが嫌がるから」 コグサには意外なことだった。口では何をどう言おうが傭兵を続けて行くことのほうこそを、エリンは嫌がると思っていたのだが。それにライソンは言う。 「腑抜けた男を養う義理はねぇそうですよ?」 要するに、エリンはたぶん諦めたのだ。ライソンを選んでしまったのだから、どこかで割り切らねばならないことだと覚悟したのだ。それが不憫だとコグサは思う。同時に申し訳なくも思う。もう少しうまく立ち回っていたら、狼はまだラクルーサについていたかもしれないものを。 「そういや、最近ラクルーサは隼がお気に入りだってな?」 聞いているか、とライソンに言えばうなずいた。中々耳も早くなってきている。嬉しいけれど、やはりエリンのためには申し訳ない。 「あぁ、そういや。噂話ですけどね。隼は薬品類の注文、イーノック商会に出してるらしいっすよ」 「ん、それって」 無論コグサにも覚えがある商会だ。イーノック商会は、エリンが鑑定屋の副業に薬を卸している。狼は商会で買うよりエリンから買ったほうが当然安いのでそこの世話になったことはない。そして隼をエリンに紹介したのはコグサだ。ならば隼もエリンから買うのが道理。 だがそうしていない。ライソンが聞きつけた噂話ではあるけれど、おそらく精度は高いだろう。そうでなければ今ここでライソンが言うはずはない。 それはエリンが隼との交流を王家に知られたくない、と警戒していることに他ならない。そこまで追い詰められているのか。あるいは杞憂であって、単に用心しているだけであってくれればいいのだが。ぐっとコグサは思いを飲み込む。現時点でエリンにしてやれることはなにもない。こちらで体制を整えることが急務。そしてそれが万が一の際、エリンを救う手立てになる可能性すらある。ライソンもそれがわかっているからこそ、噂話を仕入れているのだろう。そうだ、と言うようライソンの目がうなずき、話を続ける。 「聞いて答えるとは思えねぇんで俺も聞きませんでしたけど。間に入ったの、あいつだと思います。直接交渉を避けたんじゃねぇのかな。隼まで睨まれるとあいつも動きにくいだろうし、こっちも動けなくなる」 「……ほんっとに、生意気だぞ、お前」 「俺をこんな風に育てたなァ隊長ですよ」 にんまりとするライソンだったが、コグサは違うと思っている。少なくとも、一年ほど前のライソンは違った。となれば必然的に誰の影響かはっきりするというもの。 「ったく。片腕候補じゃあいつにくれてやるってわけにもいかなくってよ。まいったね」 ライソンにはそれが詫びに聞こえた。誰に。自分と言うよりはエリンに。二人の友情にちくりと胸が痛む。 「んでライソンよ、あれ。どうするんだ?」 コグサの顎が窓の外を示す。魔術師アノニムとライソンの話題で持ちきりだった。ここまで、まだ喧騒が届いている。 「ん、ほっときますよ」 「いいのか、それで。お前、闇討ちされんぞ。意外とエリンは人気あるぜ、あれでな」 「そりゃ、俺の男ですし。もてて当たり前ってやつ? でもまぁ、ほっとくのが最善かな、と。アノニムだっけ?と俺とエリンと。三角関係っつーか浮気っつーか、そう思ってもらってりゃあいつも動きやすいでしょ」 「まぁ、本人だとは思わねぇだろうな」 「俺が気がつかなかったくらいですし」 胸を張って言うようなことか、と思ったがコグサは尋ねる気力を失くした。もっとも、ライソンの言うことは当を得てはいる。だから無理やりそちらに納得することにして、強引にその話題を忘れた。 そんな騒ぎなど露知らず。店に戻ったエリンは誰にも気づかれなかった逢引に安堵しつつ、一人静寂の中にいた。 |