いましか機会はなかった。これを逃したら、今度はいつになるかわからない。 アレクサンダー王の戴冠。嫌いだからこそそう思うのかもしれないが、即位式典しかり、十日に及ぶ晩餐会に舞踏会、要は祝典の数々に奢侈を見る。フェリクス共々蔭でそっと眉を顰めた。 そして新王はいま、贅沢に浸りきっている。新しい玩具としての権力に酔っている。ならば今。いまならば、ほんの少しの自由が手に入る。 エリンは厳重に店の内側に張った結界を確かめる。一歩扉の外に出るだけで感知できない特殊な結界だ。これならばたとえ見張られていようとも、異変に気づかれることはない。 その上でようやく浴室へと足を向けた。時折確かめている。否、毎日のよう、確かめている。浴槽を水鏡にしたライソンの足取り。ライソンがはめている帰還の紐のあの宝石が、エリンにそれを教える。 ゆっくりと呪文を唱える。当然、肌身離さずしているのだろうライソンだった。宝石の軌跡も、それに伴って移動を繰り返す。 「たぶんここだよなぁ」 甚だ頼りない言葉だった。ライソンの宝石が最も長く一か所に留まっている場所。それはおそらく彼自身の部屋だろう。その程度の頼りない情報で、エリンは転移しようとしている。いくら目標物があるとはいえ、フェリクスに知られれば首根っこを掴まれて説教は固い。三日三晩は怒鳴られるに違いない。それを思いエリンは小さく微笑む。覚悟が決まった。 念のため、幻影をまとった。イーサウ独立戦争の時に使った顔と同じもの。噂話によれば、アノニムはどうやら半エルフの子の魔術師、と言うことになっているらしい。半エルフであるアルディアの顔ではあったのだが、人間のエリンがまとえばそう言うことにもなる。いずれにせよ、好都合だった。正体不明という意味で。同時に、万が一ライソン以外の人間に見られたとしても、アノニムの顔ならば言い訳が立つというもの。頭を一振りして髪をさばく。エリン自身の髪は長くはないのだが、幻影の髪は長い。不思議な感覚ではあった。 そして唇から洩れる呪文が変化する。ゆっくりとした抑揚と複雑な旋律。わずかに強張った頬がエリンの緊張を語る。次の瞬間、エリンの姿はかき消えた。 まず感じたのは安堵だった。転移の失敗は常に周囲を巻き込んだ大爆発と言う形になる。つまり人の声が聞こえるならば成功している、と言うことだ。 ほっとしたのも束の間。なぜ、人の声が聞こえる。疑問がエリンの頭に浮かぶ。自分はライソンの部屋に転移したはず。否、その予測可能性が最も高い場所に、だと思いなおす。要するに違った、と言うことなのだろう。辺りを見回し確かめるまでに要した時間は、転移が完了してから一呼吸とかかっていなかった。 「ライソン――!」 いた。不機嫌な顔をして酒を飲んでいる懐かしい顔。そんな顔をして酒を煽っているところなど一度たりとも見たことがないはずなのに、それでも懐かしい。駆けよれば、驚いて避けられた。 「なんだ、あんた」 きつい目。本心で嫌がっているライソンにエリンは微笑みそうになる。そっと肩に手をかけそうになっただけ。それでもライソンは触れられることそのものを嫌がった。 「ライソン」 浮かれているのだと、自分でもわかっている。嫌がるライソンにかまいもせず首に両手を投げかけた。そのまま彼に抱き付く。あっと思ったときには引き離されていた。 「あんた、なにもんだ。なんの用だ」 これ以上不埒なことをするつもりならば剣に物を言わす。無言でライソンは剣の柄に手をかけていた。にっこり微笑み、エリンはライソンの耳元に囁いた。 「話しがしたい」 これでは誤解を招くとわかってはいるのだが、なぜかここは酒場なのだ。人目が嫌と言うほどにある。万が一にも会話を聞かれでもしたら事だった。幻影をまとってきた用心が早速にも役立っていてエリンは背筋に冷や汗を感じる。 「来い」 一言でライソンは立ち上がる。不機嫌で、容赦のない表情。たぶんまだ目の前の魔術師が何者か彼は気づいていない。滑るように後に続く魔術師の姿に、酒場の客が騒ぐ声。背中に聞いてエリンはまたも微笑んでいた。 路地裏で立ち止まろうとするライソンにエリンは首を振った。嫌がる彼を説き伏せて、彼の部屋へと案内させる。そこが最も密談に適している、と言って。 「で。なんの用だ。さっさと――」 ライソンは自室につくなり言い放ち、背後の魔術師を振り返る。そのまま時が止まったかと思った。愕然と膝が崩れそうになる。止めたのは無論。 「エリン――!」 「声がでけぇよ」 「でも! あんた……。悪い、ごめん。気がつかなかった。俺、馬鹿だわ。俺に用がある魔術師なんかあんたしかいねぇってのに。つか、それ以前に、なんであんただって気づかなかったんだ。馬鹿だ俺。あんたのことだったら――」 「気づかれたら魔術師の名折れだっつーの」 抱きしめてエリンはライソンの耳元に囁いていた。頬に彼の髪を感じる。それ以前に体中にライソンのぬくもりを感じる。たまらなくなってきつく抱きしめれば、同じように抱き返してくるライソンの腕。 「……会いたかった」 精々恰好をつけて囁いたはずなのに、声は震えて今にも泣きそうだと自分でもわかってしまう。ライソンの肩口に顔を押しつければ、黙って抱いていてくれた。 「俺も。すげぇ会いたかった」 「悪かった。もっと早く、会いに来たかったけど」 「大丈夫。知ってる。王様、変わったんだってな? うちが逃げ出すのがぎりぎり間に合ったってわけだ。あんたのお蔭だって、隊長言ってたぜ」 「コグサの話なんか聞きたくねぇよ。お前のことが聞きたい」 「エリンさんってば」 くっと喉の奥でライソンが笑った。照れくさくなって少しばかり離れれば、ようやく部屋の内部を見渡せる。 かつての宿営地の彼の部屋と、あまり変わらなかった。強いて言えばこちらのほうがずっと狭いことくらいが差異だ。ライソンの趣味かと思えば、それを知ったことそのものが嬉しくなってくる。 「なんだよ?」 半年近く、会っていなかった。だが、若いとはいえ成長期の子供でもあるまいし、さほど変化するはずもないライソン。それなのに、変わっていた。一歩も二歩も大人になった。見惚れるエリンの目を照れくさげに見つめ返し、ライソンはそっと額にくちづけてきた。壊れ物でも扱うようだ、そんな甘ったるいことを考える自分にエリンは笑う。 「意外と、もしかしてあんた俺にベタ惚れなのかと思って」 「意外ってなぁどう言う意味だコラ」 「いや、そのまんま。つか、突っ込むのそっちかよ!? ベタ惚れとか言っちまって、内心どきどきなんですけど、俺」 「は? どこに目ん玉つけてんだ、てめぇは。俺の浮かれっぷり見てベタ惚れだと思わねぇんだったら目玉くりぬいて銀紙でも貼っとけ。用は足りんだろうがそれでよ」 「ったく、あんたは!」 からからと笑ったライソンがきつく、それはきつくエリンを抱きしめる。魔術師のエリンが痛いと文句を言うほどに。けれど嫌ではないと知っているライソンは決して腕を緩めはしなかった。 「ほんと、もう。どうしよう。あんたがすげぇ可愛い」 「うっせぇ。頭どうかしてんぞ」 「ちょっと自覚はしてるぜ?」 ふふん、と笑うライソンにエリンも笑う。目が合う。唇が重なる。悪戯のよう、ちゅっと音を立てて離す。 「エリン、好きだ。会いたかった」 「俺もだよ――って何度言ったらお前は信じる? しつけぇっての」 「何度言っても足りねぇの。ほんと、あんたが好きだ」 だから、離したくない。飲み込んだライソンの声が聞こえた。エリンの答えもたぶん、ライソンに届いた。互いに見交わす目と目。それでいまはいい、そう思う。ちらり、ライソンが微笑んだ。 「つけてくれてるんだな、それ」 「ん? せっかくの贈り物だしよ」 「照れんな」 「言うな、うっせぇ!」 ライソンに手首の腕輪をいじられつつエリンはライソンに寄り添っていた。部屋に入ってから、一瞬たりとも離れていない。すぐに離れ離れになるとお互いにわかっているからこそ。 「隊商なんか使って、金かかっただろうが」 「まぁ、そりゃそれなりに?」 「石も。宝石なんかつけなくっていいんだよ、無理すんな」 「無理はしてねぇっつーか。だって、綺麗なの贈ってやりてぇじゃん。こないだ小競り合いがあったからさ、多少の臨時収入はあったしよ。それに、あんたは俺に綺麗なのくれたんだし」 「俺は自前の魔法でやってんだ。金かかってねぇの、わかるか、そこんとこ」 「俺は自前の腕で稼いでんだっての。わかる、そこんとこ?」 言い合って、目を見交わす。それだけで、充分だと思うほど満ち足りて行く。それなのに唇を求める。その先を求める。 「待てライソン」 「悪い。待てねぇ。あんたが欲しい」 「だから、待て! 声、聞こえちまう――」 エリンのささやかな抵抗もなんのその、ライソンはあっという間にエリンの服をはぎ取った。唖然として、笑ってしまうほど鮮やかに。 「なに上達してんだよ。浮気疑うぞ。おい」 「してねぇのはあんたが一番知ってるくせに」 「まぁな。ついでに証明しろよ」 「あいよ」 にやりと笑ってライソンは一晩かけて証明に励むことになる。この上ない歓喜と共に。それを喜んでくれる恋人ともに。 「ライソン。もっと。強く――」 「跡ついちまう」 「つけろって言ってんだ」 寂しいから。別れた後、せめて一日か二日、思うよすがに。エリンの言葉にしなかった思いを汲み取ったライソンが、肌を強く吸う。かすかな痛みに身じろいで、それでもエリンは嬉しそうに微笑む。 「俺も。ずりぃだろ。あんただけ」 「どこ」 「首んとこ」 ちょい、と指したそこはどううまく着ても服から覗くだろう場所。エリンはにやりと笑って同じようくちづける。他にも、何度も。互いに跡をつけ合って、それが高じて噛み跡すら残した。痛みが、嬉しかった。ほんの少し、別離の寂しさを和らげてくれるから。 |