狼がラクルーサを離れる日、エリンは見送りにはいかなかった。それだけではない。宿営地の整理にすら顔を出さなかった。コグサならば、わかってくれるだろう。宮廷魔導師と今はイーサウに雇われることになった傭兵隊が親しくするわけにはいかない、などと兵には言いつつ、ただ寂しいだけだとわかってくれるだろう。
 ライソンだけではない。コグサとも、アランとも。キーリや他にも数人、親しく言葉を交わす兵たちがいた。彼らが遠く離れてしまう。致し方ないこと、半分くらいは自業自得。諦めても、諦めても。
 だから、エリンは知らなかった。聞いた瞬間、まさかと思った。思ったときには宿営地の側まで跳んでいた。
「……マジかよ」
 狼が宿営地を発って、まだ半年と経っていない。それなのに、宿営地は町になっていた。元々ラクルーサの王都アントラルの郊外にある。郊外と言っても、ほとんど城壁の傍らと言っていい距離だ。宿営地の側には当時からすでに町がある。新市街、と呼ばれているその町々は古いアントラルでは手狭になってしまった商人たちが作り育てた町。いずれ、狼の宿営地もそうなるだろう、とはエリンも思ってはいた。が、猶予はある、とも思っていた。
「マジか」
 同じことを繰り返すより、なかった。宿営地は、確かにすでに町の骨格がある。兵たちの営舎は宿屋にできるだろうし、商店や酒場は疾うにある。住む人間さえいればすぐにも商活動が始まる。
 そして、それがいた。エリンが目を疑ったほど、確固として町ができあがっている。嘘のようだった。たった三月かそこらで。なぜ。ふらふらとエリンの足がかつての営舎に向く。
「いらっしゃいまし。お泊りですかい、それとも――?」
 愛想のよい主人の言葉にかすかな訛りを聞いた。ここにつくまでの間にも様々な訛りを聞いた。どうやらある町や区画が手狭になったから移ってきた、と言うわけではないらしい。
「部屋の指定、してもいいかい?」
「どうぞ、どうぞ。窓際の眺めのいいお部屋がお好みですかね、それとも静かな一階が?」
 かつてのライソンの部屋を告げれば主人は何のこだわりもなくそこの鍵をくれた。部屋だけはたっぷりあるから、と笑って。
 屈託のない笑い声がいやに癇に障った。片手を振ってエリンはかつての彼の部屋へと上がっていく。
「……ライソン」
 部屋は変わっていて、変わっていなかった。寝台の位置も小さな机も同じ。品だけが、変わっている。それでも似たようなもの。そっと敷布に触れた。
「クソ」
 呟いた自分の声に驚く。ここはもうライソンの部屋ではない。ここにきて、人目を忍んでそっと愛し合ったあの部屋ではない。ライソンの忍び笑い、お手上げだ、とばかりに肩をすくめたあの表情。全部、消えてしまった気がした。
 会いたかった。三か月。ライソンはどうしているのだろうと思う。イーサウに、馴染んでいるだろうか。訓練で怪我をしていないだろうか。弟のように可愛がっていたキーリに、イーサウのあちこちを案内してやったりしているのだろうか。
 会いたかった。たまらなく会いたかった。会いに行ってしまおうか、一瞬は思う。けれどいま行けば、二度とラクルーサに戻る気がなくなるだろうとも思った。
「声、聞きてぇ……」
 ライソンに贈ったあの腕輪。白い宝石が転移の目標になるのは事実だ。が、青の宝石が声を伝える、などと言うのは嘘だった。
 せめて、ライソンにはそう思っていてほしかった。どんな声で、何を語りかけているだろうと思う。聞こえないそれが、悔しい。宝石にまで嫉妬したくなるほど、悔しい。
「できねぇよ」
 声を常時伝えるなど、いくらエリンであっても無理だった。無尽蔵ともいえる魔力を持つ半エルフでもない限り無理だろうと思う。人間のエリンには望むべくもないこと。
「研究、しようかな……」
 星花宮に戻って、師の許可を得て、リィ・サイファの塔で調べものでもしようか。かの偉大な半エルフの魔術師ならば、何かしらの示唆をくれるかもしれない。
「それでも」
 今ここで、ライソンの声が聞けないのだけは、変わらなかった。以前のライソンの部屋に佇み、茫然とエリンは町を見下ろす。かつてこの窓からは訓練中の兵たちが見えたものだった。活気のある、猥雑な笑い声。兵たちの容赦ない下卑た、けれど友愛に満ちた会話。騎士たちが身震いするような下品なそれがエリンには好ましい空気。
 いまはない。活気はある。猥雑でもある。けれど商人たちの、住人たちの、日常生活のそれ。傭兵たちの大らかなそれとはまったく違った。
 エリンはくるりと背を向け、部屋を出た。来るのではなかったと思う。最低限、この部屋に入るのではなかった。唇を噛みしめ、宿を出る。主人は怪訝な顔をしたけれど、宿代は前払いだ。それで使いもしなかったのだから結局はほくほく顔。
 ただエリンは町を歩いた。暁の狼の宿営地ではなくなってしまった町を歩いた。訓練のため、土のままだった道はいつの間にそうしたのか舗装されていた。あまりにも手早い、さすがに訝しくなってきた。
「ん、エリナード? やっぱりお前だよな」
 急に声をかけられて驚いた。それほど呆けていたかと思えば苦笑が浮かぶ。振り返った先、旧友のイメルが立っていた。
「なんだよ、お前か。どこ行ってた、どっかの帰りだろ。しばらく城で顔見なかったもんな」
「なに言ってんだよ? 城に顔出さなかったのは誰だっけ? まぁ、帰りだけどさ、ミルテシアからの」
「吟遊詩人特権ってやつだよな。気楽なもんだぜ。お前、宮廷魔導師だろうが、ラクルーサの」
 呆れてエリンは言う。けれど内心には羨望があった。もしも自分が吟遊詩人だったならば、イーサウどころかミルテシアまでもライソンを追っていける。詮無い考えに内心で首を振った。
「俺に文句言われてもな。師匠だってふらふらしてるし」
 当然だ。イメルの師、タイラントは世界の歌い手の称号すら有する当代随一の吟遊詩人。ラクルーサ一国にいてはそれこそ角が立つというもの。
「そんな師匠に少しでも近づこうと俺なりに頑張ってるわけでさ。だからここにも来たんだけどね」
 どう言うことだ、とエリンは目顔でイメルに話の続きを促した。それに彼が驚いた顔をする。それからちょい、と指で近くの酒場を指し、座ろうと言った。こうなるのだったら、宿の部屋をそのままにしておくのだった、とエリンは苦笑しつつイメルの後姿に従った。
「だってさ、すごいだろ」
「だから、何がだよ」
「お前、わかってないのか。ここ、三月だぜ。三か月で、狼の宿営地はアレクサの町になった」
「ちょっと待て」
「なにをだよ」
「いまなんつった。町の名前、アレクサだと?」
「知らないのかよ、エリナード。宿営地だぞ、ほっといたら質のよくないのが入り込むかもしれないだろ。だからアレクサンダー王子がとっとと手を打ったんだ。意外とやり手だよな」
 少し見直した、イメルは言う。エリンは腸が煮えくり返るかと思った。イメルには、たぶん真相は言えない。どんなに親しい友人で同僚ではあっても、イメルにフェリクスは何も告げていないだろう。最愛のタイラントにすら、何も言っていない師だ。ならばイメルは何も知らない。
 だから、言えない。なぜ暁の狼がラクルーサを離れざるを得なかったのか。アレクサンダー王子の画策があったとは、彼は知らない。王子が、なぜそこまで狼を憎むのか。イーサウ独立戦争で負けたからだ。狼のせいにでもしなければ気が済まないからだ。ぞっとした。そんな人間が、次代の王になる。
「でもいただけないと思うのは、町の名前だな。なんと言うか、自分を喧伝しすぎだろ。アレクサはないと思うぜ」
「――殺しときゃよかった」
「エリナード、なに言った? 悪い、聞こえなかった。ちょっとここ、うるさいか?」
 エリンは微笑むことで答えに代えた。本当に、殺しておけばよかった。不意に気づいた。イーサウの外壁の上に立ったあの日、アレクサンダー王子の首は自分の手の中にあったものを。あれさえいなければ、狼はここにいた。友人たちも、恋人もここにいた。イメルに見えないよう、卓の下で手を握る。掌に爪を立て、殺意を押し殺す。わかっている。アレクサンダー王子一人のせいではない。片棒を担いだのは他ならぬ自分自身。
「エリナード、元気出せよ」
 はっとして顔を上げた。イメルが小さく困ったよう微笑んでいる。ようやく、気づいた。イメルは何も町の様子を見たくて戻ってきたわけではない。それを歌にしたくて帰ってきたわけではない。
 友人が心配で、ミルテシアから戻ってきた。飛んできたのかもしれない。話を聞いてすぐさま慌てふためくイメルの様子が瞼に浮かんだ。
「別に? 元気だぜ」
 嘘をつけ、とはイメルは言わない。代わりに顔に書いてある。それでも言わずにいてくれたことがありがたかった。
「その……エリナード。聞きにくいんだけど」
「別れてねぇよ」
「へぇ……。って、ちょっと待て! そもそもお前たち、付き合ってたのか!?」
「言わなかったっけ?」
「聞いてない!」
 憤慨する友にエリンは笑う。酒を注げば怒って飲み干す。ついでにエリンは自分の酒杯も満たしてあおった。飲まなければ、本当に今すぐ城に取って返して王子を殺したくなってしまう。
「だったら……」
「会いに行こうと思えばすぐ行けるよう手筈は整えてあるぜ? いまは忙しいだろうから行ってねぇけど」
 ほっとしたイメルの顔。友人というもののありがたさをエリンは噛みしめる。この友と話しているといつも怒りの矛先が鈍る。
 飲み潰れるまでその日は飲んだ。結局、宿に泊まったのだから主人は驚くやら呆れるやら。二度目の部屋は二割ほどまけてくれた。
 二日酔いの頭痛に悩まされながら王都の店に帰ったエリンは店の扉に何かが挟んであるのを見つける。馴染みの隊商が荷物を持ってきた、と伝言を残していた。焦る気持ちを抑えて隊商宿まで取りに行く。
「……あの馬鹿」
 荷物はイーサウ発。無論、ライソンからのもの。中身にエリンは笑みをこぼす。そっと取り上げて手首に巻いた。
 ラクルーサを発つ前、エリンがライソンに贈ったのと同じ作りの革紐の腕輪。宝石は、留め具代わりの小さなものが一つきりだったけれど。紐の編み方も無様でところどころ攣れたり緩んだりしていたけれど。
「わかったんだな。コグサに、聞かされたか?」
 二色の革紐で編んだそれの意味。無事を祈る帰還の紐。手首に巻いたそれをぎゅっと握りしめ、エリンはしばらくの間動かなかった。




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