季節が変わるころ、蹌踉とした覚束ない足取りのライソンが顔を見せた。エリンはそれで来るべきものが来たのだと悟る。 「どうしたよ? 熱でもあんのか」 店の扉を開けたまま立ちすくむライソン。たまらない愛おしさを感じた。あるいは若さ、かもしれない。ひょい、と額に手を当てれば嫌がるよう首を振る。 「エリン……」 「だから、どうしたって聞いてんだろうがよ。とりあえず奥行け、奥。店閉めっからよ」 「いいのかよ」 「客来ねぇのに開けといても無駄だろうが。来りゃわかるからそんとき開ける」 実際、常に店に座っている必要などエリンにはない。本当ならば星花宮に戻っていても何ら問題はない。扉が開けば感覚できる。それが魔術師というものだ。いるのはだからただの惰性だった。 「来いって」 動こうとしないライソンの背中に手を当てれば、今度は嫌がらなかった。そのまま怖がる子供のよう、抱きすくめてこようとする。 「だから!」 笑っていなした。そうとでもしなければ、自分が動けなくなる。エリンはそれを知っている。腕を絡めて奥に行く。こうしてライソンが店に、自分の家に来るのもあるいはこれが最後になるか。気取られないよう唇を噛む。 「ちょっと待ってな」 「――いい。俺がする。エリン、座ってろよ。俺が……したいから」 「なんだ? まぁ、いいけどよ」 ライソンも、わかっている。最後になるかもしれないから、自分の手で茶の一杯でも淹れてやりたい。背中を向けたライソンの肩が震えていた。 話したがらないライソンは黙って茶を飲む。エリンは隣に腰かけたまま、肩先に寄り添って茶を口にする。いつもより苦い気がした。ライソンの心の味かもしれないと、そんな甘ったるいことを思う。 「俺、エリンのこと。好きだから」 唐突にライソンが口を開いた。かと思うとがばりと体を起こし背筋を伸ばす。真正面から見つめられ、エリンは危ういところで笑い飛ばさなかった自分を内心で褒めた。 「なんだよ、急に。照れりゃいいのか、それともなんだ、あれか。好きだったけど、でも別れるって話か、え?」 「……エリン。茶化すな。俺、すげぇ真面目なんだけど」 「そこまで生真面目になられりゃ大人は照れるもんなんだ。で、どうしたよ?」 頬に手を添え、ちゅと音を立ててくちづける。じんわりとライソンの口許が緩んだ気がした。すぐさま引き締まったけれど。 「……会えなくなる」 絞り出すような声をしていた。わかっていたエリンは黙っている。黙るしか、どうしようもない。コグサはやはり、ラクルーサを離れる決心をしたか。それだけを思う。 「あんた、驚かねぇな。知ってたか?」 「知ってるわけねぇだろうが。誰が知らせに来るよ?」 「隊長とか」 ぼそりと言うライソンのその口調にかすかな嫉妬を見る。とても敵わない、男としてその域には達していない自分とコグサを比べてしまうその若さ。それが好ましいと言ったら怒るだろうか。 「で、どこだ?」 「イーサウ」 「……へぇ」 それにはさすがに驚いた。むしろ、感謝した。コグサがミルテシアを選ばなかったことに。さすがにミルテシアでは、ラクルーサの宮廷魔導師であるエリンがおいそれと恋人に会いに行くわけにもいかない。逆にラクルーサ国内の貴族に雇われても同じこと。雇い主が宮廷魔導師の訪れを喜んでも嫌っても政治判断が発生するのは火を見るより明らかだ。 「でも、隊長は、俺の好きにしていいって」 「は? 好きって、何をだよ。なんか、あるのか」 「エリンさーん、そりゃなくね? 隊長は、あんたの側に残るならそうしてもいいって、隊を離れてもっつーか、傭兵やめんならやめてもいいって」 「馬鹿か」 「エリン?」 自分の声があまりにも不満げだった。色々と悩みもした。決心もして、ここに来た。それをただ愚かだと言われてしまってはライソンにはどうしようもない。あるいは一瞬だけ思った。「大人たち」の戯言に巻き込まれたのか、と。すぐさま否定はしたけれど。 「違ぇよ、お前じゃねぇ。コグサだ、コグサの大馬鹿野郎を馬鹿って言ったんだ、俺は」 「だって、エリン! 隊長は――」 「なにがだって、だよ? なに言ってんだ、あいつ。お前に傭兵やめろって? やめてどうすんだ、え?」 「そりゃ……」 「俺の側で暮らす? 別にそりゃいいぜ。俺も楽しいしよ。顔見てぇって寂しがることもねぇしな。でもなんだ、お前はどうすんだ、ライソンよ?」 「どうって」 「うちは鑑定屋だぞ、用心棒なんざ要らねぇぞ。だったらなんだ、酒場で用心棒でもするか? それともまっとうに手に職つけるか、え。どうすんだ。それでお前は生きてんのか、ライソン」 はっとしたよう顔をそむけたライソンの頬に再び手を添える。先ほどの彼のよう、真正面からじっと見た。 「あのな、舐めるなよ。昔のこたぁ言いたかねぇけどな。お前の前の男も傭兵なんだぜ。俺は傭兵って生きもんがどういうもんかよくよく知ってら。お前は絶対に戦場に帰りたくなる」 「そんなことは」 「たぶん、一年か二年、もしかしたら五年くらいは平気かもな。でもそのあとは? 平々凡々な一生に退屈するのか。俺の横でぼーっと年取ってくだけの人生、お前は平気か? 俺は嫌だぞ、そんなの」 「でも、会えなくなる。いまみたいに頻繁に顔見れなくなる。いまだって、俺すげぇ嫌なんだぞ、わかってんだろうが。それなのにイーサウ? ――遠すぎる」 「ミルテシアじゃなかったことを喜べっつーの」 今にも泣きそうなライソンにエリンは微笑んだ。こんなに真っ直ぐな愛情を注がれる資格が自分にあるのだろうか。ふ、とフィンレイを思い、そして脳裏の彼に殴られた気がした。ある、と言って。 「イーサウだったら、まぁ俺は縁があるしよ。とりあえず宮廷魔導師の俺でも、黙認くらいはしてくれんぞ。ミルテシアだったらそうはいかねぇ」 「そりゃ、そうだけど。でも――」 「まぁな、お前は会いには来れねぇし、言い分はわかるけどよ」 「お前はって」 忘れているのか、と言うようエリンは微笑む。両手で彼の頬を包み、こつりと頭をぶつける。自分で自分が恥ずかしい。それでも止められなかった。 「手ぇ出しな、ライソン」 なんのことだと言いたげに、けれど黙ってライソンは左手を出した。それにエリンの目が和らぐ。ライソンは、きちんと武器の手ではない方の手を出した。 「やるよ」 その手首に、エリンは革紐を巻き付けて行く。柔らかな腕輪のようだった。二色の革で編まれたその意味にライソンはたぶん、気づかない。コグサは気づくだろう。 「なんだ、これ。いや、嬉しいけど。あんた、こういうのも魔法で作ったりするわけ?」 「こういうもんは手でするから意味があるんだ、魔法じゃねぇよ。ま、石のほうは魔法だけどな」 巻き付けられた腕輪の留め具にもなっている三粒の石。二つは薄青く、一つは乳白色。いずれも淡く透き通っていた。 「白いのが、あれだ。ちょっと自慢ってやつ? ちょいと加工してあってなっつーか、もともとそれも水滴なんだけどよ」 「水滴って……。壊れたりしねぇの?」 「おうよ、その辺は任せとけ。師匠直伝の偽宝石だぜ。売っ払ってもバレねぇし、三十年くらいは宝石として通用するぜ」 胸を張られてしまったライソンは、それは詐欺ではないのかと言いたい気持ちを飲み込んだ。だいたい、と思う。氷帝はなんのために偽宝石などを作る技術を持っているのか、とも聞きたかったけれどこれも聞けずじまい。 エリンの心遣いか、とふと思った。先ほどまでのどうしようもないやるせなさが消えた、とは言わない。それでも、離れても、エリンは自分を思ってくれるその確信がいまは、ある。そっと宝石に触れれば元が水滴と聞いたのに、なぜか温かい気がした。 「んでもってな、更に加工してあってよ。お前が身に着けてる限り、俺は確実にお前がどこにいるかわかる。わかるってことはな、ライソン。お前を目標にして跳べるってことだ。浮気なんざできねぇと思っとけよ?」 にやりと笑うエリンの言葉の意味が理解できなかった。跳んでくるとは、どういうことか。会いに来てくれるという意味なのか。呆然とエリンに手を伸ばす。困ったやつだと言いたげに苦笑して、エリンが自らライソンの腕の中に納まった。 「エリン――」 「なんだよ?」 「寂しい。会いたい」 「あのなぁ、今ここにいんだろうが。――ついでに、青い方の石な。それ、お前の声聞こえるから。お前がきっちり聞かせたいと思ってりゃ、だけどよ。悪いな、俺はだから寂しくねぇわ」 「エリン!」 「なんだよ?」 腕の中から見上げたライソンは、いつになく精悍だった。思わず見惚れたところでにやりと彼が笑う。額に唇が触れ、それでもまだライソンが笑っているのを感じた。 「ほんとはすげぇ寂しかったり? もう、今すぐでも泣きたいくらいだったりするわけ、エリンさん?」 「お前じゃねーし。泣かねーし」 ぷい、と顔をそむけてそれでも胸に頭を預ける。わかってくれたか。寂しいけれど、つらいけれど、その嬉しさがいまは先に立つ。 「お前は傭兵しかできねぇよ。そんなのに惚れたんだから、もうしょうがねぇ。きっちり働いて来い」 戦場で倒れたりするな。必ず生き延びろ。エリンの声にならない言葉が聞こえる。もう、自分の元に生きて帰れ、とは言えない彼なのに。抱きしめれば一瞬エリンが震えた気がした。 「できるだけ長生きするからさ」 「……おうよ」 「でもさ、あんた。ジジイんなった俺でもいいわけ? 長生きの魔術師さんとしてはそこんとこどうなのよ」 「いまよりいい男なんじゃね?」 「ひっでぇの」 笑うライソンの胸の響きにエリンは耳を澄ませる。ひどく心地よくて、本当ならば離したくなどない。自分の傍らに一生置いておきたい。もしもそれで満足できるライソンならば、そうしたとエリンは思う。 そうはできない傭兵だと知っているから、笑顔で送り出すよりないではないか。そう思う自分が馬鹿馬鹿しいほど健気で、けれど嫌ではないなとも思う。 「いつか、年食って引退したら――」 そのときには帰ってくる。言いかけたライソンの言葉を奪うようエリンは仰のいてくちづけた。聞きたくなかった。聞けば、反対になってしまいそうで怖かった。 |