訓練中の宿営地の中庭。ぎょっとしたように剣戟の音が止まる原因などそうはない。コグサは溜息をつきつつ振り返る。元凶が楽しげな顔をして立っていた。 「お前な。何しに来たんだよ?」 他に誰がいると言うのか、エリンに決まっていた。イーサウ攻めが終わった後から、妙にエリンは機嫌がいい。他人に理由はわからなくとも、付き合いの長いコグサは知っている。 「彼氏の顔見に来たついでに、納品?」 「……逆だろうが」 「は?」 「納品ついでに顔見てけ! 仕事しろ、仕事」 「してんだろ。順番逆でも問題ねぇわ」 「俺の精神衛生によくねぇんだよ」 呟けばこれ以上ない朗らかさでエリンが笑う。溜息以外にどうしろと言うのか。コグサはこの場で頭を抱えたくなる。とはいえ兵も見ていた。あまりみっともない顔をするわけにもいかない。頭の痛いことだった。 「……ったく、この色ボケ野郎が」 「あん?」 「いーから、来い。納品だろ、仕事するぜ」 あいよ、と呟いてついてきたエリンの足取りが弾んでいる。フィンレイと付き合っていた当時はここまで頭の中身が春ではなかったはずなのだが。内心にコグサは呟く。 「とりあえず確かめろ」 だが杞憂だった。隊長執務室に入り、二人きりになった途端、エリンは態度を改めた。コグサが知る、いつものエリン、だった。 「お前なぁ」 「おい、コグサよ。ボケてんのはお前だろうが。イーサウ攻めで、狼はどうなった、え?」 「知ってんのか?」 「知らいでか」 指摘されてみれば当然のこと。エリンは宮廷魔導師だ。ラクルーサ王室内で暁の狼隊の評判がどうなったか、おそらくコグサよりもよく知っているはず。目顔で聞きたい、と促せば渋い顔をした。 「よくねぇよ、お前が知ってるとおりな。一応、それについては詫びる」 「なんでお前が詫びるよ? お前は関係ねぇだろ」 「関係してっから詫びてんだろうが。素直に受け取っとけ」 それこそ言うまでもない。狼が敗北を喫したのは、ひとえにエリンのせいだ。エリンがイーサウ側についていた。エリンさえいなかったならば、狼はあるいは勝っていた。 「で、詫びがこれだ。――内緒だぜ? イェルク王が、危ない」 「おい!」 エリンは自分が何を口にしたか、わかっているのか。わかっているに決まっている。イーサウ側に密かについたなどというものではない。それ以上の反逆寸前の言葉だ、いまのは。コグサが青ざめるのも当然。現王の健康状態は国家の機密。それをいまエリンは漏らした。 「わかってるな、コグサ。次の王はあのアレクサンダー王子だ。お前、あの王子と軍を共にしたんだから、わかるよな、俺の言う意味が」 「……使われたくねぇな、あれにゃ。あの馬鹿……っと王子にゃ、戦いってもんがわかってねぇ。いや、人間ってもんがわかってねぇ。命令すれば人は従うのが当然だと思ってやがる」 「それが、次の王になる。さぁ、コグサよ、お前はどうする。それを決めとけよ」 エリンに言われるまでもなく、コグサにもそれはわかっている。イーサウより帰還して以来、考え続けている。 ただ一つ、懸念がある。この態度のわりに繊細な戦友が、ようやく心から笑うようになった。笑えるようになった原因を作った男が、コグサの配下にいる。そして狼がラクルーサから離れることになれば、エリンはまた大切な人間を失うことになる。 「……お前は宮廷魔導師だろ」 唐突な言葉にエリンは苦笑した。コグサがエリンを戦友と言うのならばエリンも同じ。考えを察することなど容易かった。 「まぁ、狼がどこに行こうが、俺は跳んでいくだけさ。ちょろっとあいつのところにだけ顔出して、誰にも見られねぇうちに帰る。俺のことは気にすんな」 そうは言っても、無理だろうと思わないでもない。ライソンに隠し事ができるとは思えない。恋人の訪れの後は、喜びにあふれた表情を取り繕うことなどできないだろう。そうすれば、自然と狼とエリンの繋がりが広まってしまう。 「お前、だからか!」 コグサは愕然とする。エリンがライソンに寄せる思いは嘘ではない。その上で、彼はライソンを隠れ蓑に情報を漏らした。そうせざるを得ないほどエリンの周囲は、あるいは緊迫している。 「勘づくのが遅ぇんだよ。なんで馬鹿面さらしてっか考えろ。こっちも監視付きなんだぜ」 たとえ色に堕したと言われようともライソン個人のみと関係があるのであって、暁の狼隊と宮廷魔導師の繋がりではない。せめてそう解釈されればと望んでのこと。 「は? なんでだ。お前、それこそ感づかれたか」 「馬鹿言うんじゃねぇよ。そこまで間抜けじゃねぇ。理由はそっちじゃねぇの」 「だったら、なんだ。言える理由なら聞かせろ。そもそも、お前はどうしてあそこにいた?」 尋ねていいのだろうか。コグサの戸惑いの表情にエリンは目を細める。いい顔をするようになったな、と思う。青き竜の副隊長であったコグサだったが、いまは立派に隊長の顔をしている。 「まぁ、口止めはされてねぇからな。俺の判断で言ってもいいってことだろうけどよ」 「それでわかった。氷帝か?」 そうだと言う代わりにエリンは苦笑した。だがそれにしても、コグサには不思議だった。フェリクスが、イーサウを応援する理由こそがわからない。 「今後どんな計画を持ってんのかまでは俺も聞いてねぇんだ。聞いて口割るタマでもねぇしよ。たぶんな、お互い警戒しあってるってやつだ。わかるよな? アレクサンダー王子だ」 腕組みして、エリンは珍しく気難しげな顔をしていた。コグサには普段の王子の生活など知る由もない。が、エリンは宮廷魔導師であるだけあって、知らないでもないだろう。 「王子は、魔術師が嫌いでよ。嫌いっつーか、好きが高じて憎いって感じか。師匠としては色々考えることもあるってところじゃね?」 濁した言葉の裏側を考え、コグサは青くなる。最悪の場合、ラクルーサから魔術師がいなくなる。宮廷魔導師団そのものが廃されかねない。そう言うことなのか。だからこそ、避難所としてのイーサウをフェリクスは想定しているのか。 「それが、そもそも師匠の画策ってやつだ。師匠が俺にばらしたのは、まぁ、平たく言やライソンだな。お前らが出陣すんのはわかりきってたからよ、あっちに味方して、ついでに守ってやれってことだったみたいだぜ」 「守られた気がしねぇのは気のせいか。がんがん魔法撃ちやがってよ」 「ぬるいこと言ってんじゃねぇよ。手加減なんかしたらばれんだろうが。だいたい、お前らにはアランがいるだろ。アランなら対抗できるってわかってるから撃ってんだ、こっちは」 「ずいぶん買ってるな?」 「あいつ、腕いいぜ。同階梯で制限してやり合ったら、俺もちょっと危ねぇかもしれねぇ。――言うなよ?」 にやりとしたエリンにコグサも笑みを返す。自分の配下を褒められるのは気分がいい。そしてその配下を守るために何をするべきか、責任が圧し掛かる。そのためにエリンが冒してくれた危険を思えばこそ。 「ちょっとした雑談だがな。……炎の隼隊、どうだよ、評判」 「良くも悪くもってとこだな。お前はとりあえず宮廷じゃ外面取り繕うってことを知ってるがな、あそこはなぁ」 「お前に言われるようじゃ終わりだろうが」 「ぬかせ。俺も師匠も当たり前の魔導師面はできるぜ? したくねぇだけだ。だいたい、カロル師を見ろ。あの人の変わり方はおかしいぞ」 コグサも知らないではない黒衣の魔導師。とはいえ、メロール・カロリナの普段の生活をよく知っている、と言うほど関係は深くない。が、罵詈雑言の源泉、と言われていることだけは実感していた。 「隼は、どういうわけかね。ありゃ隊風ってやつか? なんかどうも隊長が代替わりしてもあのまんまらしいんだよな」 「ん、知ってんのか」 「噂でな。隊長が、いずれ隊を譲ろうかって考えてるらしい若いのなら、うちの客だし」 「誰だ?」 「言うかよ」 にんまりとするエリンをコグサは悪戯に睨む。もっとも、見当がついていなくもない。隼には以前交流を求め、それからずっとつかず離れずでいる。それが双方のためになる。 「お前はどうなんだよ?」 コグサ自身のことではないだろう、狼の将来を問われていた。いずれ傭兵は引退する。そのとき隊は誰に譲るのか、と。エリンは聞きたくないだろうと思う。だからこそ、いま言っておくべきかとも思う。 「……想像通りってとこだな」 エリンの舌打ち。当然だった。ライソンが隊を率いるようになれば、頻繁に会うこともできなくなるだろう。宮廷魔導師の彼には、否が応でも政治的配慮というものが付きまとう。 それ以前の問題かもしれないな、コグサは思った。ライソンが隊を率いると言うことは、すなわち彼が傭兵であり続けると言うこと。長く戦場に立てば立つほど、戦死の機会もまた多い。 「エリナード」 「わかってるよ。あいつが好きですることだ。止めやしねぇ。――止めて、俺の隣で呆けるあいつなんか見たくねぇよ」 「すまん」 「一番の腕利きに隊を預けたいって思うのは当然だろ。……それにしても、ラグナ隊長がいまのお前を見たらどう思うかね。竜を解散するんじゃなかったと思うかもしれねぇな」 「褒めすぎだ。隊長みたいにゃいかねぇよ。あの人のすごさが今更よくわかる。――ほんと、どうしたもんかな。金はねぇ、人脈もねぇ、人手は足りねぇ。いっそ隼と合流すっかな」 「よせよせ、心にもねぇこと言いやがって。大事な隊だろ、お前のな」 自分の傭兵隊。エリンに言われてコグサの心に蘇る一瞬。竜がなくなり、当時の仲間たちと隊を起こし、「暁の狼」と名付けた瞬間。小さな、隊とも呼べない傭兵隊の始まり。コグサの視線が窓の外に向く。 エリンの訪れで止まってしまった訓練も、再開してずいぶんになる。剣戟の音に乱れがある。疲れてきているのだろう。遠く、馬の練習をしているらしい馬蹄の音。夕方に向けて宿営地の酒場が準備をする声。大勢の人が暮らす営みの音。 「お前の肩にゃ、命が乗ってんだぜ。コグサ」 「言われるまでもねぇ。気楽でいいよな、宮仕えはよ」 皮肉にエリンが口許を歪める。コグサもわかってはいた。エリンは何もライソンを守るためだけにイーサウにいたのではない。フェリクスの要請とはいえ、エリンの肩には、星花宮の魔導師全員の命がかかっていた。最後の命綱となるべきものを繋ごうとしていた。その重さをコグサもまた知っているからこそ、知る者同士で冗談にできる。互いに浮かべた疲れた笑みに、互いの苦労をも知る。悪くはない気分だったが解決にはならなかった。 |