狼と入れ違うように王軍が前に出てきた。それを確かめたエリンは町の外壁の上に駆け上がる。驚いた顔をしたエラルダをよそに魔法を行使。 「なんですか、これは――!」 エラルダが声を上げたのも無理はない。そこにはエリンとよく似た姿の魔術師が五人、姿を現していた。半エルフの目をもってすれば幻覚だとわかるだろう。だが王軍にはわからない。それで充分だった。 「行くぜ」 ライソンに宣言したよう、エリンは魔法を放つ。王軍への直撃、と見えて微妙に外した低階梯の魔法。それでも防御手段のない軍には多大な損傷を与えた。 「もう少し」 損傷が、怒りになる。怒りを恐怖に変えるまで、あと一押し。一瞬の半分ほどエリンはあそこに王子がいる、そう思ってしまった。星花宮の魔導師にとって問題になり得る王子が。その思いを振り払い、エリンは更なる魔法を行使した。軍の前と言わず後ろと言わず、あらゆるところに襲い掛かる炎であり水流。同時に風の刃が吹き荒れ、大地が盛り上がっては兵の足を取る。幻覚のそれぞれが魔法を放っているよう、誰にでも見えたことだろう。 「あなたは……」 エラルダの声ももうエリンには聞こえていなかった。集中力のほうが上回っている。指先が魔法の維持にぶるぶると震えていた。 「退いた。退きましたよ……!」 ただ、エラルダのその声だけは聞こえた。あるいは彼もそうと悟っていたからこそ、王軍の撤退を教えたのかもしれない。 エリンは優雅に身をひるがえす。少しの疲労もいまは見せられない。そこに王軍の目があるうちは。軽やかな動作で外壁の内側に降り立ち、そしてそのまま崩れるよう座り込んだ。 「……アノニム!」 驚いたのだろうエラルダが側に寄ってくる。膝をついて気遣わしげに覗き込んでくる顔のその美しさに正気づいた。妙なところで役に立つ美貌だ、そう思ったことで更に生気が蘇った。 「あー、疲れた」 「え……。それだけ、ですか。その、大丈夫なんですか、あなたは」 「あ? それだけってな。あんた……。ったく、てめぇ自身の幻影に五人分の幻覚、おまけに幻覚と同調して攻撃魔法がしがし撃つって、俺はなんだ。なんかの記録にでも挑戦してんのかっての。世界一無茶選手権王座決定戦とかあったら絶対記録入りするぜ、俺」 自嘲気味に笑うエリンの額に浮いた脂汗をエラルダは気づかぬうちに指で拭っていた。そうしてしまってから相手が人間で、半エルフの自分がそこまで親しげな態度を取ってしまったことに自ら驚く。 「悪い。感謝」 片手を上げる姿も生気がない。よほど疲れたのだろうとエラルダは思う。半エルフの自分にわかることではない、と思いつつ、慮る気持ちだけは忘れたくないものだとも思う。相手が人間であっても。内心に呟いた声は誰にも聞こえなかった。 「ちなみに、優勝者は誰なんです、その場合?」 会話をすることで多少は気力が戻るのならばそのほうがいいのだろう。エラルダの冗談めいた気遣いにエリンは小さく笑う。 「決まってら。うちの師匠だよ」 にんまりとするエリンにエラルダはうなずけないでいた。フェリクスとは何度も会っているが、それほど無謀だとは思えない。口は悪いが、彼の本質は優しいようにエラルダは感じている。そう言う人は無茶無謀は避けるものではないのだろうか。その疑問が顔に出たのだろう、エリンが再びにやりとする。 「師匠は無茶だぜ。無謀でもある。――だから、俺がここにいる」 アリルカの支援をする。イーサウ側に立つ。自分が行くことはできないから、弟子の一人を送り込む。それを無茶と言わずに何を言う。エリンの言葉にこめられた裏側にエラルダが息を飲む。 「……あんたに言うことじゃねぇし、そんなことはないと思うんだけどよ。もし誰も師匠を助けてやれねぇようなことがあったら、あんた、師匠に手ぇ貸してやってくれるか?」 「あなたが、いるでしょう?」 「俺でもだめなときってのはあるさ。第一、俺は人間だからな。いつ何時どこで野垂れ死ぬかわかったもんじゃねぇ」 「そんなことは!」 「あるんだぜ、この世の中。だから、もしもの時には、師匠に手ぇ貸してやってくれよ。ま、弟子の俺が頼むってのも妙な話なんだけどよ」 言って照れてしまったのだろう、エリンはそっぽを向いた。それからゆっくりと立ちあがる。外壁の下のほうからごろごろとした大きな音が聞こえている。開門の音だった。 「ヘッジさん、間を読むのがうめぇな」 首だけ出してそちらを見れば、白旗を持ったイーサウの軍使が王軍に向かっている。これから停戦交渉に続き、独立を認めさせることになるだろう。 「そういうものなのですか?」 「うん? あぁ、こういうことはこっちが勝ってる間にするもんだ。巧く行くだろうよ」 エリンの言葉どおり、三日の間に停戦がまとまり、十日でイーサウは独立をもぎ取った。ヘッジの感謝たるや言葉では言い表せないほどだったが、目立ちたくないエリンはさっさとイーサウを後にしている。半エルフたちも同様だったから、具合もよかった。これで流浪の魔術師アノニムはアリルカの関係者、と人間世界では思ってもらえることだろう。 「……疲れた」 真っ直ぐに店に戻った。跳ぶ気力もなく馬で戻ったのだから魔術師としては途轍もない疲労、と言うことになる。このまま星花宮に行くなどとてもできない。無精だとは思ったが、思念を飛ばして連絡するに留めた。 ――ご苦労様。報告は後日聞くよ。ゆっくり休んで。 フェリクスの精神の声の響き。そんなものにこれほどまでに慰められている自分がいる。エリンはその響きを心に漂わせたまま、三日三晩眠り続けた。 あるいはもう一日は眠っていられたかもしれない。起こされたのは、店の扉が激しく叩かれていたから。脛に傷持つ身としては、知らんふりはできない。王宮の使者であったりしたらいままでの偽装工作が無になる。 「……って、お前かよ」 精一杯に取り繕った顔で扉を開けたエリンは、そこにライソンを認めた途端に疲労をあらわにした。 「そりゃなくねぇ? あんた、ひでぇ顔してんけど」 「……とりあえず、入れ。茶は自分で淹れろ。俺はいまなんにもしたくねぇの」 元々店は開いていなかったから遠慮も何もない。居間へとさっさと歩いて行くライソンの後姿にエリンはわずかに苦笑する。その彼を振り返り、ライソンが土産の袋を掲げて問うた。 「言われなくても自分でやるっての。あ、菓子、いるか?」 普段は敬遠する甘い揚げ菓子が、いまは無性に欲しかった。それもかかっている蜜だけが。無言で手を出せばひょい、と乗せてくれる。舐めるように蜜の固まった砂糖衣をはぎ取っていたら、ライソンに笑われた。 「あんた何やってんだよ? 蜂蜜でも持ってきてやろうか?」 「別に……」 「エリン」 すっと屈んだライソンに目の奥を覗かれた。咄嗟に目をそらそうとしたけれど、その前に頬を包まれている。 「疲れてる理由は聞かねぇ。あんたが、俺たちが戦場にいた間どこにいたのかも、聞かねぇ。だからとりあえず、答えろよ。疲れてんだよな?」 心遣いに崩れそうだった。ライソンの顔を見た瞬間に湧き上がってきた感謝とも欲情ともつかないものが形になりそうになる。 「見りゃわかんだろ」 だからこそ、そっけない言葉になってしまうと、わかってもらえるだろうか。ライソンは理解したらしい。からからと笑い茶を持ってきた。普段エリンが淹れることはない、たっぷりと乳の入った茶だった。 「疲れてる時はこういうもんに限るからな」 「うちにこんなもん、あったかよ?」 「買ってきたに決まってんだろ」 「なんで?」 「あんたなぁ。うちにはアランって魔術師がいんだよ」 それだけで意味は知れるだろうとばかりライソンは悪戯に睨んで来る。やはりアランには自分の存在が確実に知れていた、とエリンは思い、そもそもライソンには顔をさらしたも同然だったことを思い出す始末。 「……怒ってねぇの?」 甘くまろやかな茶をすすり、エリンはその茶の揺れる様を見たままだった。とてもライソンが見られない。一時の高揚で、ライソンを傷つけたかもしれない。今更自覚する。自分に剣を向けてしまったライソンは、怒ってなどいないだろう。自分自身に対しての怒りを除けば。 ライソンは言った。エリンの手にかかって死ぬことだけはしない、と。それなのに、そのライソンに自分は剣を向けさせてしまった。命のやり取りをさせてしまった。戦場の興奮ごときで。フィンレイと同じことを。じっと茶を見つめるエリンはライソンの苦笑を目にすることはなかった。 「怒ってるってんなら、俺自身に、かな」 やはり。彼を理解できている嬉しさより申し訳なさが先に立つ。そのエリンの頭の上、子供にするようライソンが手を置いていた。 「でも、気持ちはわかる。あんた、俺と切り合ってみたかったんだろ?」 「おい」 「俺の腕を認めたから、ちょっと戦ってみたくなっちまった。そう言うことじゃねぇの? だったらとりあえず喜んどく。でも――二度はすんな。マジで心臓止まるかと思った」 「……悪い」 うつむくエリンにライソンは微笑んでいた。側に立ったまま、座りもせず飽きずエリンを見ている自分に少しばかりおかしみを感じないでもない。それでも離れがたかった。 「俺さ……。アランより先に気づいたんだぜ」 「ん、マジ? なんで気づいた」 「なんでって言われたってな。まぁ、外壁の上に立ってる魔術師があんただとは思わなかったぜ、正直な。でも、あんたが近くにいるのは感じてた。守られてんのを感じてた」 「……お節介したとは思ってる」 「あのなぁ、エリン。ちょっとこっち向け」 呆れ声で言えば、いつになく憔悴したエリンがいた。藍色の目が、揺れている気がしてライソンこそ困惑する。 「たぶんな、あんたには俺に言えない理由ってのが色々あるってわかってる。だから、それは言わねぇでいい。でもさ、もしかしたら俺を守るためにあそこにいた、とか自惚れてもよくねぇ?」 エリンはまじまじと目の前の若い傭兵を見ていた。ライソンが、這い上がってきたのを感じる。黄金の悪魔と称された最強の魔術師の横に立つに相応しくなれるよう、必死で這い上がってきたのを感じる。エリンの口許に小さな笑みが浮かんだ。 「自惚れてんじゃねぇよ」 鼻で笑えば、あってるじゃんかとライソンが呟く。それもこの上なく嬉しそうに。無言で守りに行ったなど嫌がるか、そう後悔しても遅かった。けれど守ってよかった、思いが湧き上がって止まらなかった。 「もしかして――」 フィンレイは守られるのを嫌ったのか。言いかけたライソンをエリンは睨む。エリンの口許が困っていたから、答えは知れたようなものだった。 |