自室に戻ったライソンが待ちくたびれて落ち着かなくなったころ、ようやくエリンが訪れた。どことなく疲れた顔をしているのはコグサとの会談のせいか。単なる納品とも思えなかった。
「よう――」
 なにをどう言っていいのか困る、そんな表情の彼にライソンはそっと笑う。言えないことがあるのならば言う必要はないとばかりに。
「これさ、あれなの? 前に、イーサウ行ったよな? あの時のって、これなのか?」
 そう思った途端に口をつく問い。己の若さが厭わしくなる。そんなライソンの頭をエリンは乱暴に撫でた。
「言えるか、馬鹿」
「だよな……。悪い」
「謝んな。なんか悪いことしてるような気になるだろうが。――まぁ、お前がそう思ってるんなら、それが正解じゃねぇの? 少なくとも、そのつもりで行動しても悪いこたぁねぇだろよって、言っとくか」
「それ、エリンさん。喋ってんだろ」
「なんの話だ?」
 鼻で笑ってとぼけるエリン。本当は明かすべきではない情報をくれた気がした。ラクルーサ王室から、イーサウ独立の機運が高まっているがゆえに近々出陣を依頼する、とは冬の終わりに使者が来た。暁の狼として正式に受けたから、ライソンもそれは知っている。
 その時にも思った。コグサはすでに知っていたのだと。あるいは、あのとき星花宮に呼ばれたのは、フェリクスがそれを知らせてくれるためだったのかと。そこまで察したライソンだったけれど、だからこそ誰にも言わなかった。今ここで、エリンが正解をくれた。ライソンの表情が引き締まる。
「あのな……。まぁ、コグサが喋ってねぇことだ。俺が言うことじゃねぇ。だから、言わねぇよ。なんでかわかるか?」
「そりゃ、いまあんたが言ったじゃん」
「違う。そっちじゃねぇよ。コグサがなんでお前に言わねぇのかって方だ。お前が察した通り、イーサウ行はただの休暇じゃねぇよ。でもお前にコグサはなんにも言わなかった。どうしてだ?」
 ひょい、とエリンが手を振った。アランあたりに頼んでおいたのだろうか。食堂で淹れたと思しき茶が現れる。驚くライソンに片目をつぶり、エリンは自分でもそれを一口飲んでライソンに勧めた。
「それは……その。俺、ただの兵だし。部下に一々全部教える必要なんて……」
「それも違う。あのな、ライソン。コグサはお前を買ってるぜ? お前が思ってるより、たぶんずっとコグサはお前を評価してる。その上で、言わなかった。どうしてか。――そのほうが、お前が動きやすいからだ。妙な勘繰りをして機敏さがなくなりゃお前の命にかかわる。だから、コグサは言わなかった。わかるか」
 ぽかん、とした。ライソンは。エリンにそこまで言われてなお、コグサの気持ちがわからない。そこまで買われる理由がわからない。自分はただの若い傭兵だ。
「お前、腕はいいぜ。コグサが育てたくなる気持ちもわかんなくはねぇな」
 ぽんと肩を叩かれて正気づく。途轍もない言葉で褒められたのだと気づき、やっと頬に血が上る有様。それをエリンがまた笑った。
「で。準備、できたのかよ?」
「あ? あぁ、まぁ。準備ってほどでもねぇし」
 どれだ、と呟くように言うエリンに訝しげなものを覚えつつ、ライソンは荷袋を示す。エリンは意外と丁寧な手つきで荷物を開けて中身を確かめていた。
「お前なぁ」
 そして呆れられた。なにもそこまで酷い顔をしなくともいいではないか。抗議の声をライソンは内心に押し込めてそっぽを向く。自分はフィンレイのような歴戦の傭兵ではない。エリンの目から見れば荷物にも不備が嫌と言うほどあるだろう。
「なんでこんな古い水袋、使ってんだよ」
「それは……。キーリ、金ねぇって言うから。新しいの買ってやったら自分の分買う金なくって」
「弟分にいい顔したかったってか? それでてめぇが不便してたらみっともねぇだろうが。ったく、しょうがねぇやつだな」
 文句を言い、エリンが口の中で何かを呟く。魔法だ、とさすがにライソンにもわかるようになっていた。と、思う間もない。いままで何もなかった場所に水袋から砥石まで、傭兵の必需品一式が揃っている。
「やるよ。持ってけ」
「ちょっと待て、エリン。あんた、今日はなんか変だぜ」
「なにがだよ?」
「さっきもそうだ。アランにやったあの石、なんかやたら貴重なんだってあいつ、すげぇはしゃいでたぜ。いまもそうだ。なんで俺にここまでしてくれんだよ。なんか……」
「なんだよ?」
 不思議そうなエリンの顔を見ていられなくてライソンは目をそらす。気づかないうちに体の脇で拳を握りしめていた。それに目が留まり、驚く。真っ白になるまできつく握りしめられた自分の拳。エリンが、何を意図しているのかがそれほどまでに怖かった。
「なんか……二度と会わねぇみたいじゃん」
 絞り出した声。どうぞ自分が戦死するから会えないのだとは聞こえませんように。祈るライソンの願いも虚しくエリンが苦い顔をする。
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ、ライソン」
 軽い音がした。頬を張られたのだと気づくまでに一瞬。撫でられたかのようなそれ。エリンの掌の感触だけがライソンの頬に残った。
「俺は死なれたくねぇから気ぃ使ってんだろうが。アランもそうだろ。火晶石一つありゃあいつは相当な魔法が使えんぞ。腕はいいんだ。魔力が足んねぇだけで。あいつがそれなりに使えりゃ、お前もコグサも死なねぇで済むぞ。わかってんのか、馬鹿。荷物もそうだ。一つ一つはちっちゃいことだけどよ、こういうところから危険は増すんだぞ。とにかく水袋と砥石だけはいいもん使え。一日の戦闘が終わったら、必ず砥げよ。いくら傭兵の剣はほとんど鈍器みてぇなもんだって言ってもな、それでも刃がついてんだ。砥ぐと砥がないとじゃ全然違うだろ。わかってんのか、お前は!」
 そこまでをエリンは一息に言った。ライソンの胸ぐらを掴みすらして、勢いよく言ってのけた。それに負けたわけではない。気圧されたわけでもない。ただ、嬉しかった。
 死ぬなと言ってくれる人がいる。それがこんなにも嬉しいものだとは思わなかった。返すべき言葉が見つからず、じっとエリンを見つめれば、それで理解したとわかってくれたのだろう彼がうなずく。
「死ぬなよ」
 ぎゅっと掴まれたままの胸元にエリンが視線を落とすのをライソンは見ていた。まるで離したくないかのように見えてしまった自分にそっと笑う。
「死ぬなって言ってもらえて、帰って来いって言ってもらえて。すげぇ嬉しいわ」
「当たり前だろうが。ちゃんと帰って来いよ」
「でも、ほんと……なんでだろ。すげぇ、嬉しい」
 眼差しを床に落としたライソン。それくらいならばこちらを見ればいいのに、思ったエリンこそ目をそらしてしまう。それでもまだ彼の胸元を掴んだままだった。
「俺さ、一つだけ決めてることがあるんだ」
 ぽつりと呟くライソンにエリンは首をかしげることで続きを促した。なぜかひどく自嘲的な声音に聞こえ、眉根を寄せてしまいそうになる。
「俺も傭兵だし。戦場で死ぬかもしれないのは当たり前。でも、ひとつだけ、これだけは決めてる。俺がどこでどんな死に方をしようと、俺は絶対にあんたの手にかかって死ぬことだけはしない、それだけは、決めてる」
 フィンレイのようにはならない。間違っても、エリンを悲しませるような死に方だけはしない。ライソンの心の声が聞こえた気がした。彼は魔術師ではないのに。精神が接触しているわけではないのに。ライソンの、フィンレイに対する隔意までまざまざと感じた気がした。
 以前ライソンは言った、フィンレイが嫌いだと。彼を嫌う一番の理由は、この手にかかる結果になったせいか、エリンは思う。
 あの日以来、色々な人が言った。エリンは悪くない。飛びだしたフィンレイが悪い。けれど殺してしまったエリンの心には響かなかった。理由はどうあれ、殺したのは自分だ。
 ライソンは、だからフィンレイが嫌いだと言うのか。恋人が、どんな思いをするかわかっていなかったフィンレイだから。その手で殺すことになってしまったエリンが、どれほど嘆くか、後悔するか。フィンレイは理解していなかったようにしか思えないから。
 だからライソンは言うのか。その手にだけはかからない、と。エリンはうつむく。まるで誓いのような言葉に返す言葉がない。
「あ、いや……。別に、まだ若ぇし、死なねぇし。別に、なんつーか、俺が勝手に決めた覚悟みたいな? あんたが気にするようなことじゃねぇんだけどさ」
 なにを誤解したかライソンがうろたえる。いいものだな、とエリンは思う。フェリクスとタイラントのような一対にはなれないだろう。どこか欠けていて、いつも不具合を抱えた二人でしかないだろう。だがそれもいいかもしれない。時々手を入れて、互いに補い合えばいいではないか。
「気にしねぇわけねぇだろ」
「だよな。悪い。出陣前にすっげぇ不吉なこと言ったよな。俺、そういうの気にならない質なんだけど、あんた気にする?」
「普通、傭兵は気にすんだろうが」
「だから、俺は気にならねぇの」
 一々気にしていたら身が持たないだろうと思ってしまうから、ライソンは気にしないことにしている。だからもしかしたら人一倍気にする質なのかもしれない。
「ったく、験の悪ぃこと言いやがってよ」
 舌打ちするエリンに申し訳ないような気がした。言葉でどれほど言っても無駄だろう。必ず帰ってくる。そして元気な姿を見せる。ライソンは内心に誓う。そう思ったときだった。
 エリンの手が伸びてくる。なにを、と思う間もない。首筋をむんずと掴まれ引き寄せられ、頭突きでも食らうのかと思った。その時にはもう唇に柔らかなエリンのそれ。痛いほどに掴まれた首とは裏腹の、ついばむようなくちづけ。
「――続きは帰ってからだ」
「って、エリンさん!? これは厄落としかなんかすか!?」
「安く見られたもんだぜ。馬鹿言ってねぇで支度しな。そろそろ集合かかるぜ」
 驚きうろたえるライソンに、もう一度軽くくちづければ、追いすがられた。すげなく追い払い、エリンは笑う。
「帰ってからだって言ってんだろうが。したかったら元気で帰ってきな」
「性欲で釣るんじゃねぇ!」
「若いんだ。それが一番のエサだろうが」
「うるせぇな!」
 からりと笑うライソンの腕が伸びてくる。それまでもはエリンも拒まない。一度きつく抱きしめられた。そっと離れて互いの顔を覗き込む。照れたのだろうか、エリンがにやりと笑う。
「痛ぇだろ!?」
 悪戯だったのだろうか。ライソンの砂色の髪をむしった、と思ったときにはエリンはすでに転移した後だった。




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