当然のよう、狼の宿営地は沸いていた。突然、と言うほどでもないが早すぎる出陣要請だ。当たり前のこと、とエリンは気にしない。
「へ、エリン? どうしたの……」
 宿営地の、普段ならば訓練に使われる広い庭でライソンが唖然とした声を上げて駆け寄ってきた。エリンは片手を上げて苦笑する。
「あのさ……実は」
 言いにくいのだろう、とエリンも思う。たった一言、出陣する。それがライソンは言えない。もしかしたら、これが最後の別れになるかもしれないから。そんな彼の砂色の髪を乱暴にかきまわした。
「なに困ってやがんだよ? 師匠に聞いたぜ。出陣だってな」
「……えー。うん、まぁ」
「なんだその気合いに欠けるのはよ。しゃっきりしろよ、しゃっきり!」
「だって、その。つーか、あんた。何しに来たんだよ?」
 まさか出陣の挨拶に向こうから来てくれるとは思えない。エリンが武運を祈るなどと言うのだろうか。あまりにも似合わなくてライソンは笑ってしまう。
「あ? 納品に決まってんだろうが。戦に薬は必需品だろ」
 たったそれだけのことだったか。よもや自分に会いに来てくれた、などと思ってはいなかったけれど、なぜか寂しく、同時にほっとしもする。ライソンはそっと笑ってエリンを見た。
「そっか。納品か。そりゃ、要るよなぁ」
「だろ」
 それだけのことだ。気にするな。妙な気を回すくらいならば、戦に集中しろ。言いたくて、エリンもまた言えない。周囲の兵たちの騒ぎが妙に耳につく。ライソンも、だったのかもしれない。先に聞きつけたのは、ライソンだった。
「あれ、黄金の悪魔だよな――?」
 どうやら、先年の負け戦で減った兵の補充は済んでいるらしい。新兵、と言うには薹の立った兵たちだった。そのせいだろう、エリンのことを知っているのは。
「黄金の悪魔も行くのか、一緒に?」
「いや、うちの兵じゃないらしいぜ」
「なんでだよ? あれがいれば楽勝だろ」
 ライソンが癇に障ったよう顔を歪ませる。あれ、と言われたエリンは気にも留めていない。常人からそのような言われ方をするのは生憎と慣れている。
「いやいや、お前。知らねぇのか? 黄金の悪魔ってやつはあれだぜ。仲間殺しだ。そんな危ねぇのと隣で戦えるかよ」
 調子に乗った誰かの声。エリンが止める間もなかった。手を伸ばしたときにはライソンがその男に飛びかかっている。若い傭兵、と言い続けてきたけれど、機敏なものだ。立派な傭兵だ、とこんな時に感心してしまった。おかげで乱闘が大きくなっている有様。エリンは額に手を当てて嘆息する。
「てめぇら、出陣前になにやってんだ」
 声を荒らげて介入しようとするも、そこは魔術師の悲しさ。いくら武器も使う星花宮の魔導師とは言え傭兵たちの乱闘に手を出せば怪我は必至。さすがにおいそれと殴り合いに参加するわけにもいかない。
「てめぇら、何やってやがる!」
 さすがだった。騒ぎを聞きつけたらしいコグサが飛んできて発した怒声はエリンのそれとは段違いによく響く。だがそれでも騒ぎは収まらない。ちらりとエリンのほうを見やり、そこに聞いてもだめだと判断したのだろう、周辺の乱闘に加わっていない兵に話を聞く。そしてコグサが指を鳴らした。
「あの、馬鹿……」
 エリンは頭を抱えた。隊長が自ら乱闘に加わってどうするのか。飛び込んで行ったコグサに、それと気づかず殴ってしまったものが現れる始末。それでもコグサはライソンの襟首を引き掴んで乱闘の輪の外に投げ出す。反対にエリンを中傷した兵は蹴りつけておとなしくさせた。
「お前なぁ」
「文句があるか、え? ふざけたことぬかした屑が悪い。俺もライソンも悪くねぇぞコラ」
「隊長が乱闘に加わってどーすんだよおい」
「収まっただろうが。文句あっか」
 ふん、と鼻を鳴らしたコグサは擦り傷だらけだ。出陣前に甚だ景気が悪い姿だ、と言わねばなるまい。だが誇らしげなコグサ、満足そうなライソン。悪くはない、とエリンは思ってしまった。
「……んなこと言ったって。そいつがいりゃ、俺ら、死なねぇで済むんでしょうが。隊長が縛っときゃ、仲間殺しだって……」
 蹴り転がされた兵が果敢に声を上げる。怖いのか、ふとエリンは気づく。戦争に、これから駆り出される。傭兵の日常であるはずの戦争が、彼は恐ろしいのだと。
「仲間殺しだ? ふざけんな。こいつは誰も殺してねぇ。勝手に死んだ馬鹿がいるだけだ」
「……おい」
「うるせぇぞ、エリン。俺が喋ってんだ、黙っとけ」
 じろりと見やられてエリンは肩をすくめる。その程度で済ますことができるようになった胸の傷。タイラントに改めて礼を言いたかった。あの冬の日、フィンレイの遺言を聞かせてくれた彼に。
「ついでに言やぁな、こいつを雇うだ? できるか、馬鹿。お前ら百人分の給金は優にかかんだ。うちは財政難なんだ、黄金のエリナードが雇えるかってんだ」
「あのなぁ。百人分なんかかかるか。せいぜい三十人分だろうが」
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ、エリン。こいつら屑兵だぞ。あっちこっち放逐されて、うちでも人数足りねぇから致し方なく雇ったんだ。こいつら百人分? それでも安いぜ」
 はん、と笑うコグサにライソンが驚いたような顔をする。確かに特殊技能の持ち主である魔術師は給金が高い。それにしてもそこまで、とはライソンは思わなかったのだろう。
「お前ら、暁の狼は出陣する。その前に出て行けよ。要らねぇわ。隊の規律が乱れる元だ。やっぱだめだな、こういう兵を数合わせに入れるもんじゃねぇわ」
 独り決めしてうなずいたコグサ、と見えたがなぜか旧来の隊員が揃ってうなずいている。エリンは懐かしい傭兵隊の雰囲気に苦笑した。
 何事かをわめいて抗議しているその兵たちを古参の兵が引きずり起こして立ち上がらせる。荷物をまとめて出て行け、と言うことらしい。エリンのほうを見ては憎々しげに唾を吐く。その頭を古参兵が思い切り殴りつけていた。あれではまた乱闘か、と思ったがさすがにそうはならない。コグサが睨みを利かせている。騒ぎが静まったころ、ようやくコグサの視線がエリンを向いた。
「で、エリンよ。なんの用だ」
「そっちの坊主にも言ったけどよ。納品だ、納品。いるだろ、薬」
「いるけど金ねぇぞ」
「なんでねぇんだよ、前金は」
「あったら言うかこんなこと」
 吐き出すコグサにエリンは申し訳なくすら思う。一応はこれでも星花宮の魔導師、ラクルーサ宮廷魔導師だ。アレクサンダー王子の不手際ならば宮廷の一員として詫びなくてはならないかもしれない。
「だったら後でいい。帰ってきたらきっちり取り立てるからよ」
 だがエリンは詫びなかった。コグサもそれでいいとばかりにやりとした。互いの間にあるすべてのわだかまりと過去の傷が流れて消えた。ふ、とエリンは微笑む。
「じゃあ、隊長執務室で数と効能、確かめてくれ。――あと、ライソン。話がある。お前の部屋で待っててくれ、用が済んだら行く」
 ひらり、片手を振った。傷だらけのライソンが楽しげに笑っている。勝って帰ってきてもらっては困る戦に送り出す。今回はイーサウ・アリルカ連合に勝ってもらって休戦まで持って行かなくては、そしてイーサウ独立を認めさせなくてはフェリクスの策が壊れる。それなのに、彼らは負けない、そんな気がしてしまった。喜びと共に。
「おう、アラン」
 ようやく騒ぎを知ったのだろう狼の魔術師、アランが顔を見せる。傷を負ったライソンに呆れ顔をしているところを見れば相変わらず仲はいいらしい。そのアランにエリンは懐に忍ばせていた小さなものを放り投げる。
「へ、なんすか……ってこれ!」
「こないだ鉱山で見つけたんだ。やるよ。俺、使わねぇし」
「だって、こんなに貴重なもの!」
 手の中に納まってしまった火晶石。アランのように触媒がないと魔法が使えない魔術師にとってはこの上もなく貴重な火系魔法の触媒だった。この大きさ、この純度の石一つ買うにはアランの給金など三年分は優に飛ぶ。
「だから俺、要らねぇし。だいたい拾ったんだ。別に俺の懐痛めたわけじゃねぇから気にすんな」
 確かにエリンには触媒などいらないだろう。だが。貴重で高価なものだ。戸惑うアランの肩をライソンが叩く。にやりとしていた。
「もらっとけよ。お前が巧いこと魔法使えりゃ、俺らも生き残る確率跳ね上がるしよ」
「そりゃ、そうだけど。お前、わかってねぇよ。これが……」
 どんなに貴重なものなのか。震える手で火晶石を包み込む。火系触媒のせいだろうか、それとも勘違いだろうか。石は掌の中で温かかった。あるいはそれはエリンの心遣いのぬくもり。
「ありがとうございます。このご恩はいずれ何かで――」
「そんな面倒くせぇもんいらねっての。拾いもんで礼されたんじゃかえって気が咎めらァ」
 無頼な言葉でエリンはアランを退けた。照れているらしい、ライソンにはわかってしまった。アランはどうだろう。小さく微笑んでいるから誰にでもわかったのかもしれない。ほんの少し悔しくて、誰より先に気づいたのは自分だ、とライソンは言いたくなる。
「じゃあ、あとでな」
 手を振ってエリンはコグサと共に仕事の話に行ってしまった。ふと気づく。なんの用だろうと。出陣前になにか用事を言いつけられるのだろうか。それともまったく見当もつかない話題なのだろうか。考えても考えるだけ無駄だと気づく。
「ライソン。なに考えてる?」
「いや、その。……エリン?」
「なんか、雰囲気変わったと思わねぇ? 俺の気のせいかな。物もらったから言うんじゃねぇけど、ちょっと柔らかくなった気がする」
「そりゃ、物のせいだろ。なに、そんな貴重品なのかよ?」
 エリンがコグサとの用を終えるまでの暇つぶし、そう思ってうっかり言ってしまったのが悪かった。アランは火晶石がどれほど貴重で、どんなに素晴らしい触媒なのかを滔々と語った。
「俺は傭兵なんだ! 騎兵なんだ! お前がなに言ってんのかさっぱりわかんねぇんだよ!」
「でもすげぇってことはわかるだろ?」
「わかった、わかったから頼むからもうやめて。出陣前に頭使わせんな。熱出したらどうしてくれんだ」
「お前はガキかっての。ん、いや、ガキか。だよな? エリンもガキ扱いしてっしよ」
 楽しげにはしゃぐアランに拳固をくれれば痛いと喚く。出陣前の喧騒が、ライソンは嫌いではなかった。必ず帰ってくる、ここにもう一度戻ってくる。そう思うことができるから。




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