春まだ浅い日、フェリクスから連絡がきた。新しい呪文の実験をしたいから星花宮まで来い、と言う。エリンは察するものがあっただけに普段と変わりなく戸締りをし、いつものように星花宮を訪れた。 「来たね」 呪文の実験、との言葉を裏付けるようフェリクスは小さめの呪文室で待っていた。その表情が硬い。エリンの思ったとおり、イーサウ・アリルカ連合のことだろう。 「状況は最悪だ」 だから言われたときに覚悟をした。すっと引き締まるエリンの顔にフェリクスは安堵したよううなずいた。 「午後にも暁の狼に出陣要請がかかる」 「はい!?」 いくらなんでも早すぎる。イーサウ周辺はまだ雪が残っているのではないだろうか。ラクルーサ王室は金に糸目をつけずイーサウを落とす気でいる、そう言うことか。青ざめたエリンにフェリクスは首を振った。 「邪魔なのが大将なんだよ」 「もしかして……」 「そのとおり。アレクサンダー王子が出陣する」 「それじゃあ……。狼が、本気でまずいな。あの馬鹿王子、戦上手って話は聞いてませんぜ」 「僕もだよ」 短い言葉で懸念を伝えフェリクスは厳しく唇を引き締めた。それにしてもなぜここまで出陣が早まった。早くとも春すぎだと思っていたものを。その思いが顔に出たのかフェリクスが首を振る。 「ラクルーサの不手際だね。ミルテシアに、情報を掴まれた。ミルテシアも、イーサウは欲しいんじゃない?」 「そりゃ、あそこがありゃ税金の上りもいいでしょうしね」 「そう言うこと。とりあえずうちとミルテシアでイーサウを落としておいて、後はどっちか喧嘩すればいいって向こうさんは思ってたんだろうね。まぁ、反論はできないよ、うちだってそう思ってたんだから。問題は――」 「先に掴まれたこと、ですかね」 「そう。こっちで情報を仄めかすより先に、掴まれた。だからラクルーサは動かざるを得ない。それにね……。イェルクも頭が痛いんだよ」 父として、息子に戦場の厳しさと、兵士の痛みを知ってほしい。上に立つ者の苦労と責任を身をもって学べ。王はそう無言で諭しているつもりだ、とフェリクスは言う。 「無駄じゃないっすかね?」 エリンはそう思う。その程度で理解ができるのならば、もっと早くに悟っているだろう。むしろ、これでだめだったときのことを考えれば、そのほうがずっと恐ろしいのだが、おそらくは変わらないとわかってもいる。 「だから頭が痛いんだって」 「まぁ、しゃあねぇですけど。じゃあ、師匠。星花宮は出陣できるんですよね」 それならば小細工はいらない。自分が身元を隠してイーサウ側に立つ必要はなくなる。もっとも、ラクルーサの宮廷魔導師として戦場に立ったならばそれはそれで細工が必要ではあったが。イーサウを落とさないための細工が。そう言うエリンにフェリクスは溜息と共に首を振った。そしてわかっているだろうと言わんばかりに王子の名を呟く。 「あぁ……」 納得してしまった。アレクサンダー王子が遠征軍の将軍を務めるのならば確かに魔術師の同行は拒むだろう。その時点で王としては失格だ、とエリンは断じる。戦をするべき時にできない国王も困りものだけれど、いざ戦と言うときに己の体面にこだわって使うべき戦力を使えない王、と言うのは論外だ。 「イェルク陛下も大変ですね」 あれが王座に上ったときに、星花宮はどうなるのだろう。不安が頭上に雲のようにわだかまる。が、いまはそれは後にするべき問題だった。 「じゃあ、俺は――」 やはり内密にイーサウに跳ぶべきか。問おうとしたとき、す、と呪文室の扉が開く。ぎょっとして体を固くしたエリンに微笑みかけ、扉の隙間からタイラントが顔を覗かせる。 「あぁ、やっぱここだった。あっちこっち探しちゃったよ」 「ここだって言ったじゃない。聞いてなかったの?」 「聞いてたけどさー。君、呪文室のちっちゃいの、としか言わなかっただろ。いくら俺だってどこだかわかんないって」 探したんだからな。悪戯に睨むタイラントにフェリクスはどこ吹く風だ。エリンは表情に出さないよう、戸惑っている。なぜタイラントを呼んだのだろう、フェリクスは。そしてタイラントは何をどこまで知っているのだろう。 「それで、俺は何を手伝えばいいの、シェイティ?」 にこりとタイラントが笑う。それだけで、フェリクスが事情を何一つ話していないのがエリンにはわかった。タイラントも、無言で手を貸せと求められているにもかかわらず、それでいいとばかり微笑んでいる。やはり、羨ましかった。 「この子がさ、どうしてもライソンが心配だって言うの」 「ちょっと、師匠! 俺は――」 「そんなこと言ってないとかいっても無駄だから。だから行きたいんでしょ。素直になりなよ。まぁ、僕が言ってもすごく嘘くさいけどね」 「だよな、君から素直なんて言葉を聞くとは……痛い痛い痛いってば!」 黙れとも言わずに魔法を放つ師の姿にエリンは溜息をつく。せめて事情が事情なのだからもう少し真面目になってほしい。思うだけ無駄ではあるのだが。 「でもね、タイラント。僕ら星花宮は出陣を禁じられてるじゃない? エリィも星花宮の魔導師の一員だし、いくら心配で跳んでいきたいからって行くわけにも、ね? だから、可愛いちっちゃな僕のタイラント。手伝って」 戯言以外の何物でもない。案外間違ってもいないところが腹立ちを誘うのだが、フェリクスの言葉は冗談以外の何物にも聞こえない。エリンは長い溜息をつく。何度目だろうと思いつつ。 「はいはい。手伝いますよ――ってわかったから! そうだよな!? 返事は一回、うん、わかってるから!?」 「わかってるなら馬鹿なこと言わないで。うっかり氷の彫像にしてくれようかと思っちゃったじゃない。とっても可愛い彫像になると思わない?」 「思わない。俺を可愛いとか言うの、君くらいだからな?」 にやりとするタイラントに、失言だったのだろうフェリクスが顔をそむける。馬鹿らしくてエリンはこのまま帰ってしまおうかと思う。店から跳んでもいいような気がしてきた。 「ちょっと、エリィが飽きてるじゃない。僕の弟子なんだからね。僕に似て、気が短いんだ。手っ取り早くやるよ、タイラント」 「って、やるのは俺ですが」 「だから?」 「……師匠ども。あんたら、何をするつもりで俺に何をさせたいんだっての!」 いい加減、緊迫していると言うのにエリンは頭痛がしてきた。いまにもライソンが出陣しようかと言うのに、この二人は何をいちゃついているのかと苛々する。 「あー、わかったから。すぐ済むから、ちょっとじっとしてなよ、エリナード」 「だから!」 「うるさいな。タイラントに任せなよ。いい子にしてな、エリィ」 放り投げた。もう全身全霊で放り投げた。好きにしろとばかり呪文室の床に胡坐をかく。タイラントがからりと笑い竪琴を構える。おや、と思う間もない。彼の歌声。世界の歌い手の歌ではなく、タイラントの呪歌。はっとした拍子に漏れそうになった声をエリンは抑え、そこに現れはじめたものをまじまじと見る。 「すげぇ……」 鏡でも見ているようだった。不機嫌そうな顔つきも、苛立った様子も自分そのものだ。今ここに鏡があれば、そこにあるものと同じ顔をしている自信がエリンにはある。 「うん、似てる似てる。エリィ、行っていいよ」 「はい?」 「だからね、この幻覚はこっちで維持する。わかってるの、エリィ。あなたは出陣禁止の令を破ってあっちに行くんだ。万が一ってこともある。ここで幻覚を維持してれば、よく似た他人で済むじゃない?」 「つまり済ませろってことですかい」 「まぁね。大丈夫だとは思うけど。一応、かなり精度の高い幻覚だしね」 「作ったのも維持するのも俺ですが」 「なにか言った、僕のちっちゃな可愛いタイラント?」 「……言ってないです、はい」 しゅんとするタイラントにエリンはそっと頭を下げる。おおよそのところを察している気がした。エリンがフェリクスの命を受けてイーサウに発つことまで、悟られている気がした。 実際、エリンはライソンを守りたくて狼の元に行くのではない。狼と共に戦うため、顔を隠して行け、とフェリクスが言ったのでもない。 エリンはイーサウに発つ。イーサウ側に立ち、アリルカと共に戦う。敵は、ラクルーサ王国軍、そして暁の狼。 それをタイラントが知れば悲しむだろう。エリンはそう思う。おそらくはフェリクスも。だからこそ、明かさなかった。 そして明かさなくとも、タイラントは察している。その上で、協力してくれた。黙って、何一つ問わずに。フェリクスとエリンの嘘さえ受け入れて。 「タイラント師――」 「ん、何?」 「ありがとうございます」 諸々の思いを込めた礼だった。タイラントは困り顔で、何かしたっけ、などと呟いている。そんな彼に向け、フェリクスがそっと微笑んでいた。 「じゃあ、師匠」 出立の挨拶だった、それは。それなのにフェリクスが嫌な顔をする。立ち上がったエリンの目の前まで来たかと思えば、凄まじく不機嫌な顔で素早い抱擁をくれた。 「気をつけてって言うのも変だけどね」 「こういう時は武運を祈るって言うんじゃねぇですかい?」 「祈ってどうするの? 祈ろうが願おうがどうにもならない時はどうにもならないよ。だからね、エリィ」 「なんすか」 「最悪の時には、体面も何も関係ない。後のことはどうとでもする。だから、その時には僕を呼びなよ。いいね?」 「師匠……」 「シェイティー。そこはさー。最悪のことがないようにこっちでも最善を尽くすって言ってあげるべきなんじゃないのかなぁ」 「うるさいなぁ。この子は僕の弟子なんだから、放っておいてよ!」 「それはそうなんだけどさ。でもな、エリナード。俺も君のことは大事に思ってるよ。だから、シェイティで用が足りない時には、俺も力になる。遠慮なんかするなよ、いいな?」 タイラントの言葉に拗ねたような顔で唇を尖らせるフェリクス。そんな彼に困り顔のタイラント。とても当代有数の魔術師たちとは思えない。エリンはからりと笑って気が楽になる。 「行ってきます」 片手を上げて転移した。いつまでも消えて行く自分の姿を二人の師が見ている、そんな気がした。 |