元に戻れば王都アントラル、右手に折れれば狼の宿営地、と言う三叉路でアランは待っていた。のんびりとした顔をして、本当に休暇の旅行のようだ。手まで振っている。
「おう」
 コグサが片手を上げてそれに応えた。ライソンも倣おうとしたものの、腕にはいまだエリンがいる。それに気づいたのかアランがぎょっとした。
「隊長――」
 いったいこれはなんなのだ、とアランが目顔で問うている。コグサは黙って首を振る。それでアランは納得した。
 そもそもエリンからあのような形で伝言が来たのだ。隊の密命だとしか思えない。そしていまコグサが問うなと言うのならばアランは黙って従う。隊長だから、ではなくコグサだから。それだけアランはこの男を信頼していた。
「あー、その、な。別に、その……」
「何おたついてんだよ? 見ればわかるから、妙な気ぃ回すなって」
「見ればわかる?」
 先導するコグサから二人は一歩馬を下がらせて話していた。同僚だけに気安いものだ。いくら幼いころに拾ってもらって育ててくれたコグサとはいえ、尊敬する相手なだけに気楽にいくと言うわけにもいかなかったライソンは、アランの合流を喜んでもいた。
「凄まじい集中の跡って言ったらいいのか? どんな魔法使ったらこうなんのか、見当もつかねぇわ」
 肩をすくめたアランを久しぶりに魔術師なのだと思った。アランこそ、一般的な魔術師であるというのに。
 アランは、一般的な魔術師としては腕のいい方らしい。コグサが重用しているのだから本当だろう。が、ライソンは言わば規格外とでも言うべき星花宮の魔導師たちを知ってしまった。
「なんて言ってたかな? 周りに誰もいねぇのを確かめて、んでもってお前に手紙運ばせたとか言ってたけど?」
「げ。マジか」
「んなに驚くようなことなのか?」
 コグサに説明されて納得はしたものの、物が魔法であるだけに芯からの納得とは行きがたいライソンだった。だがいま同じ魔術師のアランが顔色を悪くしている。
「周辺探知っつか、生体探知か? そんなの一人でやるような魔法じゃねぇぞ、おい」
「はい?」
「普通はな、腕のいい魔術師が三人から五人がかりで、少なく見積もっても十日はかけて儀式を仕込む、そんでようやく発動させるようなもんだぜ。さすが星花宮の魔導師、黄金の悪魔の面目躍如ってもんだなぁ。すげぇ」
 首を振るアランに、ライソンはぽかんとした。そんな凄まじいことを短時間で一人でやっていたとは思いもしなかった。道理で崩れるように眠ったわけだ、とうなずく。
「――うちじゃ、卒業試験にぜってぇ組み込まれる呪文だからな」
 のろりとエリンが目を開けた。どうやら話は聞いていたらしい。頭を振って眠気を払おうとしているのだけれど、どうにもまだ難しいようだった。
「エリン。あんたが気になんねぇんだったら、気にすんな。重たいのは俺じゃなくて馬だしよ」
 ぼそりと耳元で言ってやれば、見上げてきた目がちらりと笑う。深い藍色のエリンの目。吸い込まれそうだ、と言うのはこう言うことかとライソンは思う。
「卒業試験、ですか?」
「おうよ。弟子が一人前だって認められんのによ、試験があんだ。星花宮中の呪文室を転移呪文で繋いでな、迷宮仕立てにして突破してみろってやつ。弟子それぞれで試験内容が違うからよ、対策もへったくれもねぇんだけど、必ず入れられる呪文ってのもあってな。その一つだ」
「……迷宮仕立て」
「俺んときにゃ師匠が師匠だからよ。そりゃもう意地も性格もとびっきりに最悪だったぜ? 試験終了後は修行中の弟子に解放されんのが常なんだがな、挑戦した他のやつらが途中で泣いたからな、マジで」
「はじめて、星花宮の魔導師の弟子じゃなくってよかったと思いましたよ、俺は」
 多少は憧れがあったのだ、アランにも。ラクルーサの宮廷魔導師と言うことは、すなわちこの大陸で最強の魔術師集団。その一員になれたならば、この手にどんな魔法が宿るのか。夢想しない見習いはいない。
「氷帝、あんたにゃ甘いだろうに。俺にはそう見えるんだけど、勘違いか?」
 馬鹿なことを言うな、とばかりエリンが無言でライソンの胸を拳で叩く。甘いと言うならばその仕種こそが甘い。ライソンはそっぽを向いてコグサを探す。ずいぶん前に行っていた。慌てて馬の足を速めれば、胸元から小さな笑い声。
「そりゃな、どろっどろに甘いぜ? あんたは砂糖か蜂蜜か。むしろ蜂蜜漬けの果物の砂糖掛けかって言いたくなるくらい甘いけどよ、それとこれとは話が別だろ。いや、別でもねぇか。甘いから、俺になんかあったら困る。だから試験が厳しくなる。あの人の中じゃ一貫して甘いんだ、結局な」
「過保護だよなぁ」
「それ、さんざん言われた。俺は悪くねぇってのに、贔屓だなんだのうるせえっての。可愛がられたかったら腕磨けって言い返したけどな。だいたい一番ひでぇのになると浮気疑われたからな、俺」
 ぷ、とアランが吹き出した。魔術師同士、それで通じたものがあったのか、とライソンは思ったものの己もまたすぐさま気づく。タイラントか、と。
「あれが浮気できるタマかっての。こっちだって誘われたってごめんだぜ。顔合わせりゃ喧嘩してるような仲なのによ、あれで実は師匠、タイラント師にベタ惚れなんだぜ」
 意外と可愛いところもあるんだ、とエリンはそっと微笑む。ふと死にかけていたときのことが脳裏に浮かんだ。
 フェリクスの、その精神の中に抱え込まれて否が応でも生かされた時。それこそ否応なしに見てしまったフェリクスの過去と現在。タイラントで埋まっていた。傷も喜びも、そのすべてがタイラントに繋がっていた。
 羨ましくも妬ましくもない自分をそのときすでにエリンは見つけていた。どう感じようとも決して手の届かない何かがそこにある、そう知ってしまった。自分とフィンレイの繋がりは、このようなものではなかったと知っていた。違ってもいいだろう、と呟くようなフェリクスの囁きに、彼の心の中で目を閉じた、そんな気がした。それからだった、ゆっくりと回復していったのは。
「魔術師仲間じゃ、けっこう有名な話ですけどね、それ。意外と懐疑的な一派もあって」
「ん、なんだそりゃ?」
「タイラント・カルミナムンディが氷帝に惚れているのは確かだとしても、氷帝は違うんじゃないかってやつですよ」
 なるほど、と呟いてエリンは心底から不愉快そうな顔をした。見下ろしているライソンがぎょっとするほど。
「タイラント師の歌と腕に用があるんであって、別に好きでもなんでもねぇってやつだろ? 俺も聞いたことあるけどな。――俺もってか、タイラント師の耳にも入っててな。あんときゃ、マジで星花宮が壊れるかと思ったぜ」
 怒り狂ったのだと言う、あのタイラントが。顔を合わせたことがある程度の付き合いでしかないライソンではあったけれど、温厚な、おっとりとした男に見えた。身なりから言ってもどう見ても優男だ。
「星花宮が、壊れそうになった?」
「――まぁ、あんまり言いたかねぇけどよ。魔術師が暴走するとけっこうな大事故でな」
 かつてフィンレイを失ったときにエリンも暴走したと言う。ライソンは黙ってうなずき、彼を抱く腕にほんの少し力を入れた。それ以上語らなくてもいい、話の内容はわかるから自分のことは語らなくていい、そう安心してほしくてした仕種にエリンが微笑みを返してくれた。逆にライソンはそちらにこそ、動揺する結果になったのだけれど。
「タイラント師はあれだろ、アランならわかるか。鍵語魔法と呪歌の両方で暴走してな。俺はまだ当時、弟子の身分だったからよ。ちっこいガキども連れて避難だ避難」
 暴走をなだめる手伝いも、捕縛の手伝いもさせてもらえなかった、とエリンは笑う。ライソンとアランはぎょっとしていた。ライソンは捕縛、と言ったエリンに。アランは避難までしなければならなかったタイラントの暴走に。
「結局は師匠がとっ捕まえてな。そっから先は何したのか、ぜってぇ口割りゃしねぇ」
 にやりとエリンが笑う。ライソンは見当がついた。ほんのりと頬を赤らめそっぽを向く。そのような慰め方、立ち直らせ方をしてくれる恋人がいるタイラントがなんとも贅沢に思えた。
「あれで、お互いベタ惚れなんだよ、師匠たちはな」
 羨ましいような、羨望など無駄なような、だからこそよけいに羨ましいような、どうにもならない憧れとしか言いようのないものがある。エリンはそれが、嬉しかった。たぶん、嬉しいのだと思う。
 自分には手の届かないもの。それでも確実にこの世にはあるのだと知ることができた。完璧な一対。涙が出そうに美しい一対。
 本当は、ほしいと思う。なにを言わなくとも、あるいは言い過ぎても、わかり合えるような相手。なにをしても確実に自分が帰る場所であってくれる相手。そして自分が帰る場所であれる相手。対等で、そのくせ頼り合って。言葉にすればいずれも違う。一対としか言いようがないとエリンは思う。
 欲しいけれど、この手には入らないだろうと思ってもいる。フィンレイは、違った。ライソンも違う。そっとライソンの胸に頭を預けた。まだ眠いのだと言わんばかりに。
 黙って支えてくれる若い傭兵のぬくもり。ぽくぽくとした蹄の音。本当に眠たくなってきたエリンの口許、笑みが浮かぶ。
 違うけど、欲しい。違うとわかっていても、それでも、そんなことは関係なしに、ライソンが欲しい。これを、失いたくない。ぬくもりの中、エリンは思う。手に入れたかったものとは違うけれど、欲しいものが違ったのだからもう致し方ないではないかと内心に自らを笑う。
「エリン、寝る前にちょっと説明しろって」
「なにをだよ?」
「根本的なことを聞かせろっての。どこ行くんだよ、え?」
「コグサに聞け。俺は眠い。すげー眠い。もう眠い。寝た!」
「寝たって宣言する馬鹿がどこにいんだよ!」
 からからと笑うライソンの声が、彼の胸に響いてはエリンに伝わる。ひどく心地よい気分だった。コグサに追いつこうと馬を少しばかり駆けさせるライソン。落ちないように、と案じるのだろう、片腕で包まれる感触にエリンは安らぎを覚え、本当に再び眠った。
「うわ、マジでまた寝やがった」
「お前なぁ」
「いや、疲れてんだろうな、とは思うけどよ」
 アランに文句を言いつつライソンは逆のことを思っている。本当は、この上なく嬉しかった。エリンがどう言うつもりなのかは問わない。この腕の中で安らいでくれている、そういう場所にだけはなれている。それが、嬉しかった。




モドル   ススム   トップへ