一度店まで戻り、エリンは旅装を整えた。二人が馬を貸し厩から引き出して戻ったときにはどこから連れてきたものか自分の馬を用意してもいる。そして三人揃って宿営地に向かう。まるで休暇の遠出の約束でもあって迎えに来たかのような手際の良さだとコグサは感嘆する。
「おい。エリン。どこ行くんだ」
 ライソンは意外と器用に馬に乗るエリンに驚いている。もっとも、元青き竜の傭兵だ。馬に乗れるのは当然なのかもしれないと思いなおす。そのエリンにコグサが不審そうな目を向け呼び止めていた。
「ちょっと待て。道外れんぞ」
「そりゃいいがな――」
 宿営地に向かう道すがら、人気がなくなったのを見定めて、エリンが道を外れた。なにをするつもりなのかライソンにはわからない。コグサにも精々がところ魔法を使うのだろうとしかわからない。ただ、ここで使う魔法が何かとなれば見当もつかないとしか言いようがなかったが。
「ちょっと待ってな」
 言い捨てて、エリンが軽く目を閉じる。ゆっくりとした呪文の詠唱。なにをするつもりだろうか。思うコグサは眉を顰めた。いつになく緊張しているエリンだった。
「よし、問題ねぇな」
 目を開けたエリンは明らかに疲労していた。頭を振って眩暈を払っている。思わずライソンは馬をよせていた。
「エリン――」
「もうちっと待ってな。まだ用事がある」
「そりゃ、いいけどよ……」
 魔法を使って眩暈のしているエリンなど、ライソンははじめて見た。さほど何度も彼が魔法を使っているところを見たことがない、それだけなのかもしれないけれど、彼はあのエリン。青き竜、最強の魔術師。黄金の悪魔の異名を取った大魔術師。いささかならず不安だった。
 そんなライソンの懸念などどこ吹く風とエリンは新たな魔法を紡ぎあげる。彼の詠唱とともに、手の中に現れたのは薄く上質な紙にしか見えないもの。
「お前な、書くもんがいるんだったらそれくらいで魔法使うなよ」
 コグサの苦情まじりの笑いにエリンは首を振る。そのまま現した紙に筆記具も使わず文をしたためる。それにはコグサも驚いた。
「うわ。すげ!」
 だがライソンはそのあとにこそ、驚愕した。おそらくは手紙なのだろうそれが、あっという間に鳩へと変化する。一度エリンの手の中で身震いしたかと思うと鳩は美しい軌跡を残して飛び立っていた。
「あー。もーやだ。疲れた。もうやだ」
「お前なぁ……何やらかした、え?」
「うっせ。俺だって気ぃ使うんだっての。下手打ったら首と胴が泣き別れだ。神経使うっての」
「……エリナードよ。お前、氷帝から何を言われてる?」
「お前が師匠から何聞かされたか教えてくれるんだったら白状するぜ?」
 互いににやりとした。ライソンは目を丸くする。二人の間では何事かの合意が成り立っているのだと思っていたものを。除け者にされた気分でわずかなりとも拗ねていたのが馬鹿らしいやら恥ずかしいやら。
「いまのはアランへの伝言だ。一応、お前らは俺を前から休暇の旅行に誘ってて、んでもってさっき迎えに来た、と言う体裁なわけだな、え?」
「おい――」
「誰もいねぇよ。さっき確かめた。おかげで俺ァくったくただぜ。――で、アランだ。あいつは用事があって迎えにゃ来なかったけど一緒に行く。……ってことにしておけって伝言だな、あの鳩は」
「なるほどな」
 ざっとコグサに魔法の概略を話せば納得はしたものの怪訝な顔をしていた。彼にはエリンがそこまで神経質になる理由がわからない。本当は喋りたくないくらい疲れていた。周囲一帯の生物を魔法で探知するなど、正気の沙汰ではない。できればもう少し範囲を狭めたかったけれど、王子の手の者がどこかにいるかと思えばそうもできない。コグサに告げたのは嘘ではない。万が一エリンの立つ位置を知られれば、本当に待っているのは死刑だ。
「おい、ライソン」
「え? あ、なんだよ?」
「疲れた。手伝え」
「はい!? ちょ、エリンさん!?」
 ひょい、と手が伸びてきたかと思えば、どういうわけかライソンはエリンを抱き上げていた。一頭の馬の上に相乗りした形、と言えばそれまでなのだけれど、横抱きに抱いているものだから何とも落ち着かない。
「エリンよ。ほんとに疲れてんのか、お前」
「からかうなっての。いまはまだ気ぃ張ってるからいいものの、ちょっとでも気を抜いてみろ。落馬だ落馬。怪しいにもほどがあらぁ」
 確かに休暇の旅行で疲労のあまりに落馬、と言うのはいかにも解せない。とは言うものの、抱いているライソンとしては自分のほうが挙動不審のあまり馬から落ちそうな気がしていた。
「まぁ、面倒見てやんな。エリンの馬は俺が面倒見るわ」
「隊長――」
「なんだよ?」
「代わって……くんなくっていいです、やっぱ」
 腕の中にエリンがいる。なにを考えて彼がそうしたのかは、わからない。少しでも気に入ってくれているから、と思いたいところではあるけれど、そうでなかったならばあまりにも寂しい。友人の腕に抱かれるのはばつが悪いから、コグサではなく自分に頼んだのだとすれば、あまりにも。
「頼むぜ」
 言うなりエリンが頭を胸元に預けてきた。ぎょっとして手綱を過ちそうになる。横目で見たコグサが笑っていた。
「ゆっくり行くぜ」
「隊長ー。いいすけど。これはこれで不審じゃねぇんですかい。休暇の旅行すか? それなのになんすか、この魔術師は」
「誰も魔法で疲れ切ってるなんざ思わねぇよ。どう見ても相乗りしていちゃついてるうちに彼氏の腕ん中で寝ちまったってやつだ。安心しろ」
「できねぇです、それはそれで」
 苦々しく言うライソンにコグサが高らかと笑う。エリンは、と見れば驚くべきことに眠っていた。
「疲れてんだろ。本気で」
 思えば、三人同時の転移を往復で二回、いまの生体探知と手紙の物質化、および転送とエリンは魔法を使い詰めだ。疲れるのも当然だった。
「エリン、大丈夫なんですか。いまのって……」
「お前にゃ派手な魔法じゃなかったわけだな? だからなんで疲れたのかわからん、と。まぁ、正直言えば俺もしがない傭兵だ。魔法のことはよくはわからん」
 ただ、付き合いの長さがある。魔法というものは派手なだけではなかったし、一見地味な魔法のほうが案外疲れるとも聞いている。
「例えばな、ライソン。どこでもいいからぶった切って殺しちまえってんなら、楽なもんだよな?」
「まぁ、剣を取るのが仕事すからね」
「だろ。だったら、これはどうだ? 傷はつけるな、殺すのは論外。捕えられたとすら気づかせず無力化しろ」
「んな無茶な!」
「な? おんなじ傭兵の仕事かもしれねぇけどよ。これはけっこう難儀だろ。そういうもんらしいな、エリンの魔法も」
 腕の中ですやすやと眠るエリンをライソンは見下ろしていた。安全な場所で惰眠を貪っているかのような不安のない顔をしている。頼られている、不意に胸に迫った。
「……隊長。聞いていいすか」
「フィンレイか?」
 勘の良さが嫌になる。ライソンは黙ってうなずいた。コグサにはそれでわかってもらえるだろう。聞いてしまった自分の醜さも何もかも。
「正直に言やな、驚いてるぜ? そいつがそんな風に体預けてんの見るのははじめてだ」
 返事もせず、ライソンはエリンの体をそっと抱いた。フィンレイにも頼らなかったのに、自分には頼ってくれたのかと。その意味はいまは問わない。ただ、充分だ、そんな風に思う。
「フィンレイの野郎はな、そいつと張り合ってたからな。どっちが敵を削り切ったか、よく競り合ってたぜ。――だからかもな。あいつはそいつに頼らなかったし、逆も同じだ」
「でも、一緒に戦ってたって」
「そういう日もあったさ、そりゃな。――そいつにとって、フィンレイは、彼氏で戦友。いや、逆だな。戦友で、彼氏だった」
 背中を預けることはできた。それでも張り合う気持ちはあった。ライソンにも、それはわかる気はする。
 アランがそうかもしれない、ふとライソンは思う。共に戦う同僚の魔術師。信頼しているし素晴らしい男だと思ってもいる。だからこそ、負けたくはない。隊の中でアランこそがライソンにとってはためらいもなく戦友、と呼べる相手だ。
 エリンにとって、フィンレイはそう言う相手であったのかもしれない。フィンレイにとっても。そこに愛情があったことだけが、差異で。
「なんか、羨ましいな……」
 戦場にはもう立たないだろうエリン。もしも自分がフィンレイの位置にいたならば、共に戦うことはできただろうか。せめて戦友と呼んでもらえることはできただろうか。
「馬鹿言うんじゃねぇよ、ライソン」
「え――」
「お前はお前、あいつはあいつだ。エリンにも、んなこたぁわかってるぜ?」
「でも、俺は……」
「おいおい若いの。せめてもうエリナードを戦わせないでいいよう盾になる、くらいの気概を見せろ。お前がなりたいのは戦友じゃねぇだろうが」
「あ……」
「なぁ、ライソンよ」
 引いているエリンの馬の手綱が絡まってしまった、とでも言うようコグサが視線を外す。そんなはずはなかったというのに。
「そいつはな、見かけ以上に傷ついてぼろぼろだ。だからな、ライソン。お前は何があっても死ぬな。まずいと思ったら、エリンを思え。お前が死んだらそいつがどんな思いをするか考えろ。どんな卑怯をしてでも生き残れ。所詮俺らは傭兵だ。騎士さんたちとは違うんだ。卑怯を謗られようがな、生き残るのが正義だぞ。――お前は、エリンのために生き残れ」
 そっぽを向いたまま呟くよう言うコグサに、ライソンは無言だった。言葉を発すれば、自らの響きでコグサの言葉が汚される。そんな気がした。一点の曇りもなく、いまの言葉をこの体に染み込ませたかった。
「いいもんだぜ、そう言うのも。誰かのために死ねねぇってのは、傭兵にとっちゃこの上ない贅沢だ」
「隊長だって」
「うん?」
「隊長、エリンのダチじゃねぇですか。隊長になんかあったら、エリン。なんか、泣く気がする」
「おいおい、俺はそいつの泣き顔なんざ想像もつかねぇぞ、おい」
 言われては見たことがある、とはライソンは言えなくなった。胸が掴まれるような儚い泣き顔のエリン。できれば二度と見たくないくらい、美しかった。そして妬ましかった、あのような顔で泣いてもらえるフィンレイが。




モドル   ススム   トップへ