満面の笑みを浮かべた氷帝がいた。愛弟子の憎まれ口が可愛くて仕方ない、そう思っているのならばこんなにも微笑ましいことはないのだが。とさすがのライソンもエリンが哀れになる。
「あー、エリン?」
 ぼそりと言えばこれでもかとばかり睨まれた。八つ当たりの対象になるのがいまのところはせいぜいか、とライソンは内心で小さく笑う。
「エリィ、出て行って」
「へいへい。でもここ、俺の部屋なんですけどね?」
「だから?」
 師弟の和やかな会話に頭痛を覚え、ライソンはそっと額を押さえる。コグサが同情するのだろうか、ぽん、と肩を叩いてくれた。
「来いよ」
 むつりとしたエリンに引き連れられ、ライソンは部屋を後にすることになった。エリンの部屋にはフェリクスとコグサが残る。つまるところ彼の部屋を密談に使うらしい、とようやく気づいた。
「エリン――」
 少し待て、と手真似で止められた。はっとしてライソンは辺りを見回す。ごく普通に人がいる。聞かれては、困る話なのだろうか。ここにいるのはおそらくエリンの同僚だろうに。
「ここ、星花宮なんだよなぁ」
 そう思った途端、ライソンはいま自分がどこにいるのかを自覚して、少し呆然とした。かつては離宮だった、と同僚のアランから聞いている。噂話かもしれないけれど、たぶん事実なのだろう。建物の内装は豪華でこそないものの優雅だった。
「魔術師の住処になって長いからな。あんまり離宮っぽくねぇだろ?」
「エリン?」
「アランあたりから、ここが元離宮だって聞いてんじゃねぇの?」
 いま思ったことを易々とあてられてライソンは驚く。同時にほんのりと嬉しさが込み上げる。弾んだ足取りをエリンがそっと笑った気がした。
「元々ここはシャルマークの四英雄の一人、アレクサンダー王が退位した後に住んでた離宮らしいぜ」
「退位?」
「おうよ。アレクサンダー王は兄王の跡を継いだわけで、そのとき兄王にはもう子供がいたらしいんだな。で、甥の王子が成長した暁に王位を譲って自分は悠々自適な生活を楽しんだらしい。――ここでな」
 何百年も前のことのはずだった。それがエリンの語りで鮮やかに蘇る。そんな気がした。アレクサンダー王がここにいたのか、不意に歴史がライソンの胸に迫ってくる。
「どんなお方だったんだろうな。すげぇ人だよな。だって英雄だもんなぁ!」
 かつてシャルマークには大穴、と呼ばれた魔所があったらしい。いまだに出没する魔族の元凶であった、と聞いている。何はともあれシャルマークに人が住めるようになったのは、その大穴が塞がったからだ、と。そして塞いだのがシャルマークの四英雄。傭兵として自ら剣を取るライソンにとっては憧れると言うもおこがましい雲の上の大英雄だ。
「まぁな」
 そんなライソンの反応がわかっていたかのよう、エリンはにんまりと唇を歪める。ちょうどいい風が吹いてきた。星花宮を出てすぐのところにある中庭には、具合のいい四阿がある。エリンの目的地はそこだった。
「へぇ、なんかあんまり似合わねぇな、ここ」
 四阿の屋根の下に入るなりライソンがからかうようそう言った。確かに魔術師の住処にあるとは思えない繊細なつくりの四阿だった。
「俺らはほとんど来ねぇからな」
「なんで? もったいねぇ」
「星花宮にいると時間の感覚が狂うんだよ。研究してたら三日三晩、食うのも寝るのも忘れた、とかザラだからよ。四阿でのんびりお茶、なんざする魔術師はほとんどいねぇわ」
「あんたらって……」
 呆れた顔をするライソンに珍しくエリンが晴れやかに笑う。ひょい、と手を閃かせ口の中で何かを呟いたかと思えば、そこに茶道具一式が出現していた。どうやら最前自分で口にした「のんびりお茶」をするつもりらしい。
「アレクサンダー王な」
 言いつつエリンの脳裏には同名の王子のことがよぎる。あれが王位に就いたら魔術師は終わりかもしれない。そんな予感がある。
 おそらくは、いまフェリクスが手を打っているのはそのあたりのことなのだろうと思わなくもない。コグサを呼んだ、と言うことは先日のイーサウ・アリルカ同盟の話だろう。国王よりイーサウに向けて出陣の要請がかかるより先に話を漏らすつもりなのだろう、師は。だからこそ、自分の部屋が使われているのをエリンは理解している。コグサを店に呼びつけ、そして星花宮へと運んだのも、そもそもライソンを同道させたのも、師の命。余人に見られることのないようにとの配慮だった。そして見られたとしてもライソンがエリンの側にいることで言い訳が立つように、との。単にエリンの用事、友人を星花宮に連れてきただけと言えるよう。コグサの影を消し去るために。
「すげぇ人だったらしいな」
 あの王子とは全く違う。アレクサンダー王ほどの器量を持ってくれとは言わないが、せめてその半分の半分でもいい、王位に相応しくあってほしい、エリンは望む。
「たとえばどんなよ? 伝説では、王は軽戦士だったんだってな?」
 大英雄の逸話を楽しみにしているとライソンの顔にありありと書いてあった。エリンはにやりと笑い話しはじめる。
「四英雄の一人、魔術師リィ・サイファの友達だった半エルフってのが師匠の師匠の師匠で――」
「って誰だよ!? そこまで遠いとわかんねぇって」
「別に遠くねぇよ。カロル師、いるだろ。カロル師の師匠のサリム・メロール師だ。メロール師がリィ・サイファのダチだったわけだ」
「いや、最初からそう言えよ。……なんか意外なところで意外なのが繋がってるっつーか、世間は狭いな」
「そうか? それこそ意外とこんなもんだぞ。で、師匠が、メロール師に聞いた話って聞かせてくれたんだけどな。聞いて驚け。アレクサンダー王は女装の名手だったそうだぜ」
「……聞かなかったことにする」
 暗鬱な顔をして肩を落としたライソンに、エリンは盛大な笑い声を上げた。外の世界ではあまり広まっていないらしいが、ここ、王城では有名な話だった。なにせ女装姿のまま描かせた、と言う肖像画が残っている。描かせた王も王なら描いた画家も画家だ、とエリンは呆れている。もっとも、それと聞かなければ実に美しい姫の肖像なのだが。
「ついでにな、ここ。出るんだわ」
「なにが?」
「出るって言ったらあれだろ。亡霊?」
 にんまりとするエリンにライソンはぞっとして震えて見せる。本当は恐ろしいとは思えない。いまだかつて亡霊の類に出会ったことがない。
「お前な、疑ってんだろ。ほんとにいるんだぜ。魔術師はけっこう出くわすからな」
「へ。マジ?」
「マジマジ。まぁ、むしろ神官のほうが多いか。あいつら亡霊退治はお手のものだろ」
 軽やかな口調で話すエリンにライソンは目を細める。久しぶりに彼がくつろいでいるところを見ている、そんな気がした。このところ、顔を合わせるたびに緊張したり戸惑ったりしているエリンばかりを見ていた。それはライソンの本意ではないのだが、かと言ってやめてくれとも言い難い。だからこうしているエリンを見ているのが、理由は問わずに嬉しい。
「俺、会ったことねぇしなぁ。戦場に出るとかって言うけどな」
「戦場は逆に出ねぇだろ。そんな気の早い亡霊なんかいるかよ。廃墟と古城につきもんだぜ、亡霊はよ」
「だったらここはどうなんだよ? 現役の離宮だろ」
 一応は、離宮なのだろう、いまだに。ちらりとライソンは星花宮を見上げる。外から見れば紛れもなく魔術師たちの住処だった。王族や貴族が住む離宮や邸宅には見られない形の尖塔が何本も屹立している。あれはいわゆる魔術師の塔、というものなのだろうか、ライソンは思う。
「現役だけど、出るんだな。――アレクサンダー王の亡霊がな」
「はい?」
「しかも女装で」
「おい」
「いや、冗談のようなほんとの話。年に一度程度だから、見たことねぇってやつも結構いるぜ? 絶世の美女の姿で出てきちゃ、居合わせたやつと喋って帰るってほんとにお前は死んでるのかって言いたくなるような亡霊だけどよ」
「……さすが星花宮ってところか?」
「おうよ。しかも彼氏のお迎え付」
「彼氏?」
「なに、知らねぇの? アレクサンダー王は異母弟のサイリル王子と恋仲だったんだぜ。マルサド神の神官だった王子は、王が喋りに出てくると頃合見計らって迎えに来るんだぜ」
「それ、ほんとに死んでんのかよ?」
「だよなぁ。俺もそう思う。いっぺん喋ったことあるけどよ、あれ、知らなかったらぜってぇ生身の人間だわ。目の保養もんの美女だからな」
「会ったことあんのかよ!?」
 あると言っただろう、とエリンが笑うのをライソンは唖然として見ていた。星花宮の不思議がたまらなかった。違う世界のようで、ひどく心躍る。嫌な感覚ではなかった。
「なぁ、他は? 他にもなんかあんだろ、聞かせてくれよ」
 わくわくとするライソンに、エリンはそっと微笑んだ。うつむいて、顔を見せはしなかったけれど。思えばフィンレイとはこのような会話をした覚えがないな、と思う。それはそれでよかったし、これもこれで楽しい。そう、思えるようになってきた自分がここにいる。
「まぁ、あるけどよ。話すのはいいけど、案内はしてやれねぇぞ。一応、ここは王城だってのを忘れんなよ?」
 言った途端にライソンが顔色を変える。離宮だ、と言うことは理解していても、すぐそこに王宮がある、王城の敷地内だ、と言うのは忘れていたらしい。
「今更だけどさ、エリン。俺、ここにいていいのかよ?」
 城の門を通っていない人間がいていいはずはないだろう。言ってみればライソンはいま、身元不明の侵入者、だ。
「俺が一緒にいるぶんは問題ねぇよ。ま、この辺だったらな」
「いや、やっぱまずいだろ。あんたの客だとしてもさ、エリンだって鑑定屋だし」
「お前な。忘れてんのかとぼけてんのか知らねぇけどよ。俺は星花宮に籍があるっつーの。これでも宮廷魔導師なんだって」
 言えばライソンが手の中で弄んでいた茶器を落としそうになった。咳き込んでエリンを見上げる。どうやら本気で忘れていたらしい。むしろ認識していなかった、が正しいか。
「あんたが宮廷魔導師って……なんか間違ってんだろ、おい」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。師匠に勤まるんだ、俺にだってできるっての」
 その言い分は何かと問題があるだろう、とは後になって思ったこと。その時はうっかり納得したライソンだった。




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