塔に現れた半エルフは、とてつもなく美しかった。目も眩むと言う表現が現実のものだとはじめてエリンは知った。思い知った、と思う。
「あれは、反則だぜ――」
 五日間の会談を終え、各々別れた。エリンは当然、店に戻っている。それでもなお、瞼からあの美貌が去らない。アリルカ、と呼ばれているらしい彼らの集落は、いったいどのようなものなのだろう。
「目の保養じゃ済まねぇぞ、ありゃ」
 保養ではなく毒だ、と苦笑する。それほど半エルフは美しかった。フェリクスはと言えばどうやらそこまでは思っていなかったらしい。あとで聞いてはたとエリンは理解した。フェリクスには、サリム・メロールと言う半エルフの知り人がいたのだった、と。彼にとってはもう一人の師、と言っていいような半エルフ。この世界から旅立ってしまってもう長い。
「今度はタイラントの演奏が聞きたいものです」
 アリルカの使者である半エルフ――確か名をエラルダと言った、とエリンは思いだす――は、にっこりと微笑んで去って行った。
「つまり……?」
 塔では驚くことがあり過ぎて、どうにも思考の回転が悪かった自覚があるエリンだった。いまこうして自分の店に戻って、ようやく正常な頭の巡りを覚える。
「知ってるって、ことだよな。タイラント師を?」
 なぜだ。フェリクスは言っていた。このことはタイラントも知らない、と。アリルカとイーサウの密約にフェリクスが噛んでいるとは、彼一人の秘密。そこまで考えてエリンは肩を落とす。
「当たり前か。それだけだよなぁ」
 天井を思わず仰いでしまった。どこかで、彼らは会っている。リィ・サイファの塔は一応は旧シャルマーク国内にあるものの、星花宮の管理下にある。と言うことはつまり、何らかの監視がつけやすい、と言うことでもある。
「あの馬鹿王子なら、やりかねねぇ」
 どうやら魔術師を殊の外に嫌っているらしい王子。エリンは好きが高じて嫌いになったのではないかと思っている。幼いころには星花宮によく入り込んできたのを覚えていた。が、長じて王子は気づいてしまった。自分に魔法がないことに。覚える気も努力する気も習う気もなく、ただないと気づいてしまった。
「ありゃ、だめだな」
 多少の魔法ならば、さほど魔力がなくとも使えるものはないわけではない。学問として学ぶことならば誰にであっても可能。それをしないで王子は魔術師たちを羨み、そして憎んだらしい。エリンは実害を受けたことすらあった。
 そんな王子のことだ。リィ・サイファの塔に監視がついていても不思議ではない。自分たち魔術師は転移して塔に入ったとしても客はそうはいかない。たびたびでは暗躍を知らせるようなもの。フェリクスはそれを恐れているのではないだろうか。今回は長期の会談だったせいでやむを得ず、まだしも人目につきにくい塔を使った。
 が、普段はもしかしたら違うのかもしれない、エリンは思う。ならば、と推測する。タイラントが鍵だった。
「演奏旅行、か――」
 星花宮の四魔導師でありながら、彼は世界の歌い手の称号を有する吟遊詩人でもある。旅に出たい、歌いに行きたいと言って止めるものも不審に思うものもいない。ついでに伴侶のフェリクスが同行するのも不自然ではない。
「そんで、話だけ、師匠が聞いてるってわけか。タイラント師はどっかで演奏……はねぇな。聞こえないとこで待機ってとこか」
 二人の間にあるものをエリンは思う。よくエリンは過保護に扱われている、と仲間から笑われたものだった。だがそんなときいつもエリンは言い返した。タイラントを見ろ、と。自分など過保護でもなんでもないと。フェリクスがタイラントに示す行動こそを過保護と言うのだとエリンはいまだに信じて疑わない。
「ちょっと……羨ましいよな……」
 ちらりとフィンレイの面影が脳裏によぎった。過ごした時間を思う。過保護でもなければ対等と言うわけでもなかった。ならばなんだろう。
「気があった、としか言いようがねぇよなぁ」
 戯れの行きずりだけでは、決してなかった。あるいは時が流れ過ぎれば、穏やかな対等の絆が生まれたのかもしれない。そうなる前に、フィンレイは逝ってしまったけれど。
 きゅっとエリンが拳を握る。フィンレイの面影が去るとともに浮かび上がってくるライソンの影。確かにフェリクスには認めた。否応なしに認めさせられた。それでも認めたことだけは、事実。
 それなのに、いまだに迷ってもいる。握りしめた拳を開き、再び握る。己でその動作に気づいて苦笑する。
「あいつは――」
 比べることだけはしたくない。彼らは別人で、違うのが当たり前。ただ一つだけ。ライソンは、自分を対等に扱う。それだけは嫌でも感じてしまう。年下だからと言って引け目に感じるわけでもなく、若すぎる傲慢があるわけでもない。ごく自然にこの自分をただのエリンとして扱う、そう思ってしまう。
「見たはずなのになぁ」
 自分が暴走まがいの魔法を行使するところを。危うく敵を殲滅するほどに魔法を吹き荒れさせたところを。ライソンは見た。それでも変わらなかった。すごいと笑うだけだった。
「……フィンですら」
 戦闘の後は笑顔が引きつっていたのに、と思い出す。青き竜最強の魔術師と呼ばれても、フィンレイのあの顔を見るたびに面白くない思いをしていたのまで、思い出してしまった。
「なんか――」
 ライソンとならば、当たり前に普通の喧嘩ができる、そんな気がした。フェリクスとタイラントのように。彼は傭兵で魔術師ではないから、二人のように魔法が飛び交うと言うわけにはいかないけれど。そこまで思って星花宮の魔導師たちの喧嘩の派手さを思いエリンの口許が緩む。
「まぁ、腕も上がるし、いいのかな」
 攻撃魔法に回避魔法。補助魔法をかけて、魔剣の生成、維持。体術を使っての戦闘までこなす星花宮の魔導師。無論、争いが済んだあとの室内はぼろぼろだ。それを修復するのもまた魔法。さまざまな魔法の習熟になる、と言えばなる。少々無理がある言ではあるけれど。
「ライソンとは――」
 そう言う遊びはできないのだな、と思う。フィンレイはそもそもしてくれなかった。決して剣の立ち合いですら付き合ってはくれなかった。むしろ練習相手になってくれたのはコグサのほう。
「意地ってやつかね」
 エリンは懐かしそうに苦笑した。恋人に負けるのはみっともなくていやだ。そんなフィンレイの心が透けて見えていたことを思い出す。そしてふと気づいた。現在の自分に。
「いま、俺……」
 懐かしそうに、笑った。フィンレイを思っているのに、痛みではなく、懐旧だけがあった。楽しかった、輝かしかった日々の思い出だけがいまここにある。
 つ、と不意にエリンの頬に一筋、涙が伝った。拭いもせず、ただ目を伏せる。もしも魂というものがあるのだとしたら、この瞬間、フィンレイの魂が去って行ったのだと感じた。もう大丈夫だな、彼が笑って言っただろう言葉まで、聞こえた気がした。
「お前な……。俺をなんだと思ってんだ。馬鹿野郎が」
 心配など、要らなかった。自分が殺したのだから。詫びたくて、それもできなくて。そんなことはもうどうでもいいと笑われたのだと理解した。喉の奥が鳴る。嗚咽が小さく漏れる。後悔でも、寂寥でもない。過去が過去になった。その思いに流れる涙なのかもしれない。
「よう、エリン――って、あんた、どうした!?」
 間がいいのか悪いのか。そう言えば五日後には店に戻っているだろうとライソンは知っていたと思い出す。
「エリン――。いや、ちょっと待てって。乱暴にすんなっての。あんた、肌が薄いんだから真っ赤になっちまうだろうが」
 強引に拭いかけた手を慌てて止められ、ライソンが自分の袖口でそっと涙の跡を押さえて行くのをエリンは感じる。つい、笑ってしまった。
「なにがおかしいんだよー? つか、泣くか笑うかどっちかにしろっての」
「いや……。そこで袖で拭くのはどうなんだよって思っただけだ」
「しょうがねぇだろ。手巾なんて言うお上品なもんは持ってねぇんだよ」
「持ってたら気持ちわりぃよ」
 だろう、と偉そうにライソンが胸を張る。それにほっとする自分がいる。同時に、戸惑う自分もいる。フェリクスに認めたことが事実なのだと改めて思い、エリンは視線を伏せた。
「で、なんかあったのか? 俺に言えねぇんだったら、別に聞かねぇけど」
 ひょい、とすぐ目の前にライソンが腰かける。いつもの椅子ではなく、机の端に腰を下ろしていた。いまは手の届くところにいる、というところだろう。
「……なんつーの。別に、聞かせらんねぇ話ってわけでもねぇんだけど。なんか、そうだな……フィンが、逝っちまったんだなって、そんな感じかもな」
 ふ、とライソンの気配が硬くなる。正直だな、とエリンは思う。フィンレイを嫌いだ、とライソンは言った。どう言う意味なのかは聞いていない。だが撤回はしないとも彼は言った。
「今更だけどよ。お前、フィンのどこが嫌いなわけ?」
 会ったこともないエリンの昔の男。ライソンは肩をすくめて答えをはぐらかそうとした。が、無駄だった。エリンの、まだ涙に濡れた目が自分を見ている。それだけで無駄だった。
「……あんたをとっ捕まえて離さない。死んでまであんたを束縛してる。そう言うとこ、すげー嫌い」
 言わせたのはあんただからな。ライソンは言い捨てて立とうとした。そして止まる。止まってから、エリンが気づく。いつの間に自分の手がライソンの腕を取ったのだろうと訝しげに首をかしげた。
「茶、淹れるよ。それ飲んで少し落ち着けよ、な?」
 そんなエリンにライソンは小さく笑った。乱暴で世故長けているかと思えば突如として無垢にもなる。この意味のわからなさが魔術師だな、と思う。あるいは、そこがエリンだなと思う。
「いや、俺が――」
「たまには俺がやってやるって。どこに何があるか知らねぇわけでもねぇし」
「じゃあ、菓子――」
「いいから座ってろっての。なんか変だぜ、エリン?」
 自覚はあった。言われるまでもなく、エリンは自分がどうしていいのか、今更ながらわからなくなっている自分に気づいていた。ゆっくりと振りほどかれていくライソンの腕。もう少し掴んでいたくて、自分でも不自然だとわかってしまうから、できなかった。
「エリン。なぁ、あんた、俺に時間くれって言ったよな? それって多少は俺に興味を持ったってことだろ。だから待つから、気にしないでいいからな」
 ひょいと出てきた茶器を掴まされた。温かい、いい香りのする茶。そうして猶予をくれるから、迷うのだと言いたくなってしまう。
「あぁ――」
 返答とも言えないそれにライソンは満足したらしい。だからこそ、思う。決意する。決して、死なせないと。たとえ露見しようともイーサウ側につく。そう決めたのはこの瞬間だった。




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