とりあえず茶でも淹れろ、と言われてエリンは茶菓の支度をする。リィ・サイファの塔の居間は下手をすると星花宮より居心地がいいのではないかと思う。ゆったりとした趣味のいい調度一つとってもそうだ。人をくつろがせる、と言うことへの精緻な計算を感じる。感じるのに、それすらも溶けて行くほど心地よい。
「師匠」
 茶を差し出せばこくりとうなずく。フェリクス持参の菓子も皿に広げて出せば無言で食べた。これはいよいよ言いたくないことがあるのだ、とエリンは警戒する。そんな弟子の姿にフェリクスは小さく笑った。
「なに緊張してるの?」
 いい加減小さな弟子でもあるまいし、と彼が微笑む。それにエリンは顔を顰めるだけだった。
「ねぇ、エリィ。一つ聞きたいんだけど。いい?」
「いやだって言ったら聞かないでくれんですか?」
「ううん。聞く」
 あっさり言ってフェリクスがほんのりと微笑む。タイラントがいれば狂喜することだろうとエリンは思うが、幸か不幸か自分は彼ではない。ぞわぞわと背筋が騒ぐだけだった。
「あのね、エリィ。あなた、結局どうするの? あの傭兵のことだけど。僕が見る限り、迷ってるんだよね。ついでに言えば迷ってるってことは、ほとんど心は決まったようなものってことだよね?」
「師匠……」
 頭を抱えたくなった。迷っているとわかっているのならばどうぞできれば放っておいていただきたい。内心で思うものの、師が相手では無駄だと知ってもいる。
「そりゃ、まぁ。たぶん……。決まってるんだと、思わねぇでもねーですけど?」
 だいたい、本人にもまだ考えさせてくれと言っている段階で、なぜ師にそれを言わねばならないのか。それが顔に出たのだろう、詫びるようフェリクスが眼差しを下げた。
「あなたの覚悟が聞きたいんだよ。それによって、僕も話の道筋を決めるから」
 うつむいたまま、彼は言う。はっとエリンは背筋を伸ばし、ライソンに思いを馳せる。今ここでフェリクスに告げたことが仮にあったとしても、師はライソンには黙っていてくれることだろう。あるいは口にすることで決意を促しているのかもしれないとも思う。
「……たぶん、惚れてます。フィンのことは忘れられねぇ。忘れていいはずもねぇ。俺がこの手で殺したんだ」
 ゆっくりと顔の前、両手を掲げれば血に汚れている気がした。恋人の血が、いまだにこびりついている気がする。そうするエリンをフェリクスは咎めなかった。
「でも……なんつーかな。タイラント師が、フィンの最後の声を聞かせてくれたでしょう?」
「そっか。ほんとに聞けたんだ。――よかったよ」
「俺も、よかったんだと思いますよ。忘れられるわきゃねぇけど、前に踏み出してもいいのかな、とは思いましたから」
「そうだねってね、簡単に言えることじゃないのは僕もよくわかってる。――違うな、そうだろうなって想像するだけ。僕はあなたみたいに大事な人を失った経験がないからね」
「あったら困りますって」
 フェリクスがタイラントを失ったら。思うだけでぞっとした。それこそあってはならない事態だ。エリンに、完璧な一対があると信じさせてくれた二人。決して離れ離れになってはならないと思う。
「だからね、簡単にいい加減にしなよとは言えない」
 じわり、エリンの胸に染み込んできたもの。この六年にも及ぶ間、ずっと師は待っていてくれたのかと。不甲斐ない弟子が立ち直り、前に進むのを待っていてくれたのかと。知らず目が潤みそうになった。
「それでも、あなたが進む気になったなら、とても嬉しいよ」
 タイラントと似たようなことを言う。エリンはそっと微笑んだ。やはり完璧な一対だ、そう思う。自分にもそう言う相手がいたならば、どんなにいいだろう。が、こればかりはどうにもならない。運なのか縁なのか。出会わなければどうにもならない。そしてエリンは理解している。フィンレイはそうではなかったと。おそらくはライソンもまた。
「……それでも、あいつが欲しいんだと、思います」
 血に汚れた手を見たままエリンは言う。この手が血まみれだと、ライソンは知っている。フィンレイの影があることすら知っている。それでも好きだと笑ってくれた。明るいところに引きずり出してくれた。
「傭兵だよ?」
「言ったなァ、師匠じゃないですか。真っ当に自分のベッドで死ぬ傭兵なんざ少ねぇですよ。それでも――」
 その短い間であってもいい。同じ時間を過ごしたいと思う。いつの間にか、思うようになっていた。若いライソン。それでも彼のほうが確実に先に逝く。たとえ寝台の上で大往生を遂げたとしても。それこそ、そんなことは若いときから知っていた。魔道を歩むと決めたときからわかっていた。フィンレイと出逢うより先に。けれど。エリンは静かに目を閉じ、心の中に住むフィンレイに詫びていた。忘れるのではない。嫌いになるのでもない。ただ、ごめん、と。
「それでいいんじゃない?」
 驚愕と共に師を見上げた。間違いなくフェリクスの声、言葉。それなのに、一瞬とはいえフィンレイの言葉に聞こえた。あるいは本当に、そうだったのかもしれないと思うほどに。
「そっか。決めたか――」
 独語してフェリクスが天井を仰ぐ。その目が何を見ているのか、エリンにはわからない。ライソンのことを決して良くは言わない師ではあったけれど、嫌っていないのは知っている。弟子には妙なところで甘い師だったが、他人には極端に冷淡な男でもある。
「エリィ」
 す、とフェリクスの眼差しが戻ってきた。それだけでエリンは背が震える。まるで修業時代のようだ、と内心に笑って自らを一喝すればそれで良しと言わんばかりに師がうなずく。
「僕には秘密がある。いまのところ、誰も知らない秘密ってやつがね」
「誰もって……」
「もちろんタイラントも、だよ。あいつを巻き込むわけにはいかないからね。知らなかったならどうとでもなる」
 だから本当はエリンにも言いたくはないのだ、とフェリクスは続けた。それほど重大な話などとは思いもよらず、エリンは戸惑う。
「本来、あなたにも話すべきじゃない。タイラント同様にね。でも――ライソンを選ぶなら、知っておいた方がいい。ついでに言えば。僕に万が一のことがあったら、あなたに引き継いでもらえるとありがたいしね」
「待ってください、師匠! 万が一って!」
「万が一は万が一。別に今すぐどうこうってことじゃないけど、不慮の事故ってのはどこにでもある。僕に何かがあったときに、話が止まるのは、困るんだよ、色々とね」
 星花宮の秘密なのだろうか。否、それならば他の四魔導師が知らないはずもない。エリンにはまるで見当もつかなかった。困惑どおりに指先がさまよい、危ういところで茶器をひっくり返しそうになる。
「ねぇ、エリィ。僕は見ての通り、闇エルフの子だ」
「それがなんすか。ほんとに今更だ」
「あなたはね、見慣れてるから。星花宮の面子もそうだね。強いて言えば、まぁ、王宮まで入れてもいいかな。でも――?」
「他は、違う? まぁ、そりゃ……なんつーか。ぶっちゃけ異種族ですし。半エルフなんか込みで。常人は怖ぇもんかな、と思わなくもねぇですけどね」
 知らないから怖い。無知は恐怖を呼ぶ。少しでも魔術を、否、学問をすればその程度のことはわかる。あるいは世の中を広く知ればそう言うものだと理解できる。だが普通の人間はそうではない。学問はおろか、己が生まれた村から出ない人間も数多い。
「だからね、最近ってわけでもないんだけど、自衛のために集落を作ってるんだよ」
「はい?」
「だから、人間から見た異種族たちが、ね。半エルフ、闇エルフ、その子供たち。全部異種族でしょ? その人たちが作ってる集落がある」
 聞いたこともなかったエリンは愕然とする。そのようなものがこの世にあるとは、考えたこともない。昔話で聞いたことはもちろんある。かつて神人の子らと呼ばれた半エルフたちは自分たちの集落を作って静かに暮らしていたのだ、とは。けれど今現在に。まさかと思う。
「信じられないって顔してるけどね。昔できたなら今だってできるでしょ。まして相手は半エルフと闇エルフ。昔話の当時に生きていたような人たちだからね。ついでに自分たちの子供、と言うか同族の子、かな?を、連れて来て一緒に暮らしてたって不思議じゃないでしょ?」
 言われてみればそのとおりではあるのだが、依然として不思議ではある。美しいだろうな、とは思うが。エリンにはそれが限界だった。
「それが、秘密、ですか?」
「違うよ。こんなのは別に情報を集めようと思えば自ずから聞こえてくる話」
 いったいどんな筋に何を聞けば聞こえる話なのかエリンには見当もつかない。もっとも、自分は一介の魔術師で、籍だけ星花宮にあるものの、現状は町の鑑定屋なのだから当たり前かもしれないと思いなおす。
「問題は、イーサウだ」
 フェリクスの視線が塔の外へと流れる。その眼差しの先にはイーサウがあるのだろう。かつてシャルマークの四英雄がその発展に力を貸したと言う小さな町。当時は辺鄙な村に過ぎなかったそれが、現在では裕福極まりない都市になっている。エリンは唐突に現れたイーサウの名に怪訝な顔をした。
「イーサウが、なんかしましたかね? ヤバいことやらかしたんだってんなら、それこそ俺の耳に聞こえてきますよ?」
 町で魔法を扱うのだ、エリンは。それなりに情報は入ってくる。ましてライソンがいる。むしろこの場合はコグサ、と言うべきか。傭兵隊と付き合いがあるのだから、些細な戦闘行為であれ、それに関係したことならばエリンに聞こえないはずはない。そう告げるエリンにフェリクスは肩をすくめた。
「まだだよ。でも、そのうち……そう、遠くない未来にそうなる」
「やけにきっぱり言いますね?」
「後ろで糸引いてるのは僕だからね。そういう言い方をしてよければ、だけど」
「はい!?」
 気づけば立ち上がっていた。いったい師がいま何を言ったのか、わからなくなる。師は戦乱を望む、と言うのか。なんの理由で、何を意図して。そんなエリンにフェリクスは顔を顰めて、座りなよ、などと平然と言う。
「別に戦争がしたいわけでも血が欲しいわけでもないから安心して」
「だったら説明してください! なんなんすか、もう!」
「説明する前にあなたが顔色変えたんじゃない。ちゃんと言うから聞きなよ、もう」
 激高に戯言で返され、かえってエリンは落ち着いた。ゆっくり深い呼吸をすればそれでいいとばかり師がうなずいた。




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