無論のこと腹は立つ。ただそれは暴言に対してであって、恋人を悪く言われたがゆえの不快さではないことにエリンは気づいてしまう。ただじっと眼差しを床に落とした。ライソンもまた、どうしようもないとばかりの無言。二人の間を救ったのは、やはりと言おうか。 「エリィ? 用が済んだならちょっと来て」 居間から呼ぶフェリクスの声。はっとして立ち上がり、エリンはそれとなくライソンを見やる。困り顔で小さく微笑む彼がいた。 「……そんなに腹立ってねぇから」 「それはそれでどうなんだよ?」 「突っ込むんじゃねぇよ。てめぇでも意味わかんねぇと思ってんだからよ」 ぼそぼそと言いエリンは歩きだす。ライソンは笑みを深めて彼に従った。ほっそりとしたその背中を見ているのが好きだった。前へ前へと歩いて行くエリンなのだろうとライソンは思う。それほど長い付き合いでもないから本当のところは知らない。けれど間違ってもいないのだろうと思う。 「なんすか、師匠」 不機嫌そうなエリンにフェリクスは目を留めた。じっと見つめてくる眼差しからエリンは逃げない。逃げれば追われる。野良犬のようなものだ、とエリンは解している。己の師に対して酷い言い様ではあるが、間違っていないところがもっと酷い、と思わなくもない。 「エリィ?」 エリンに問うと言うよりは、何事かを己の内に問い、理解し、そして決心した顔。エリンはその師の表情に気を引き締める。フェリクスがこくりとうなずいた。 「ちょっと僕の私用なんだけど。よかったら付き合って」 エリンは目を丸くする。師の要請ならば一も二もなく従う。それが弟子だ。いくら独り立ちしたとはいえ、それだけの信頼がある。が、フェリクスは依頼した。信じがたいとの思いに室内を見回せば、タイラントが肩をすくめていた。 「タイラント師?」 「シェイティの私用でしょ? 俺も知らない。まぁ、だいたい見当はついてるけどね」 「それで――」 いいのだろうか。一心同体のような二人。彼らの間に秘密があるとはエリンは思ったこともない。それをちらりとタイラントが笑った。側にはようやく落ち着いたのだろう、キーリがいる。それでもまだおどおどと魔術師たちの会話を聞いていた。 「いいんじゃないかな? ちゃんと必要なら話してくれるし。シェイティが話してくれないってことは、それが俺のためになるから。わかる? 全部あからさまにするのが愛情ってわけでもないんだよ、エリナード」 「なにそれ。タイラントのくせに偉そう。もうちょっとおろおろすればいいのに。なんだったら泣いてみる?」 「って! だから! すぐに泣かそうとするなよ!?」 隣にきたライソンが笑いながら肩を落とした気配がして、エリンはついそちらを見てしまう。思ったより楽しそうな顔をしていた。 「この人たち、なんなんだろうな? すげぇ真面目に話してたかと思うとすぐこれだぜ?」 なぁエリン。そう言いつつちらりとキーリを見る。思わずエリンは彼の頭をむんずと掴み、自分のほうだけを見ろと言いたくなってしまった。危ういところで自制する。が、ほんのりと頬に上ってしまった血までは抑えられない。 「それで、エリィ? どうするの」 一瞬前まで喚くタイラント相手にさも楽しげに罵詈雑言を浴びせていたフェリクス。振り返ったときには生真面目な表情をしていた。エリンは溜息まじりにではあっても笑っていた。 「師匠の手伝いなら喜んでしますよ。なんすか?」 何ならこのまま星花宮に跳んでもかまわない。その意が通じたのだろう、こくりとうなずきフェリクスは立ち上がる。ついでとばかりタイラントも立ち上がる。つられてなぜかキーリまで立ってしまった。 「タイラント?」 「俺は帰るよ。いつ戻ってくる?」 「早くて三日。長くても五日かな」 「了解。だったら、君の好きなシチュウでも作っておこうかな。薬草園の香草、使ってもいいだろ?」 親密この上ない日常会話を聞いてしまったライソンが顔を赤らめる。エリンはかつての暮らしを思い出す。星花宮の食事も美味ではあるけれど、そう言いながらタイラントはよくフェリクスに何かを作っていた。 「そこの二人」 フェリクスの声にぎょっとしてキーリが飛びあがる。ライソンもまた背筋を伸ばす。それにフェリクスが嫌な顔をする。一々驚くな、と言いたいのだろうが無茶を言う、エリンは思って仄かに笑う。 「送ってあげる」 「はい?」 「なに、あなた。エリィが留守にするって言うのにこの店に居座るつもり? よもや僕の弟子とそんな仲だなんて言わ――」 「言いません言いません! 言わねぇから、その手をどけろ!」 いまにも掴みかからんばかりのフェリクスの手にライソンは笑いながら怒鳴っていた。一瞬、眼前の人物が氷帝だ、と思ったもののもう遅い。恐ろしい星花宮の四魔導師の一人、と言うより癇の強い少年にしか見えないのだから仕方ない。 「エリンが出かけんだったら俺らも帰りますよ。俺が聞きたいのは、送ってやるって、そっち」 「前に送ってあげたじゃない?」 言われてライソンは顔を顰める。あの経験は何物にも代えがたい。二度と試したくないという意味において。が、氷帝が言うのならば抵抗は無駄だろう。ぽん、とキーリの肩に手を置いた。 「ライソンさん?」 「お前、いろいろ大変だよなぁ。ま、頑張れ」 「それって……」 どう言う意味だ、とキーリが問うより先に凄まじい目のフェリクスを見てしまったライソンは口を閉ざすよう注意する。 「行きますぜ、師匠」 なぜかまた不機嫌なエリンが師と向かい合わせに立つ。二人の魔術師の間に傭兵たちが挟まれた形だった。 「エリィ。戸締りは」 「師匠。わかってんだから聞かねぇでください。あんた今、俺が魔法使ったのわかってんでしょうが」 「僕はね? そこの坊やが気にしてたから、一応代わりに聞いてあげたってところ。僕っていい人だよね、エリィ?」 「へいへい、いい人いい人。行きますよ」 投げやりなエリンの態度にライソンは吹き出しそうになる。フェリクスまで目で笑っていた。一人くらくらとしているのはキーリ。慣れればいいのに、とライソンですら思った。 瞬時だった。それなのにこの一瞬でかつてない吐き気に襲われて傭兵たちは膝をつく。二度目だ、と頭の片隅でライソンは思う。 「はい、到着。キーリ? 時間が経てば収まるから、心配はしなくていいよ。あと、用がなくても遊びにおいで。僕らは待ってるからね」 フェリクスの言葉にキーリは青い顔をしてうなずいた。三人で話している間に何かがあったのだろう。ライソンは詮索するつもりはない。むしろ二人に気に入られたキーリに安堵してもいた。もっとも、キーリ本人としてはどうか知れたものではないが。 「――じゃあ、薬、頼むわ」 「ん……?」 「さっき渡しただろ。コグサによろしく言ってくれ」 ためらいがちなエリンの言葉。ライソンは黙ってうなずく。本当は他に色々と言いたいことがある。先ほどのタイラントのよう、帰りを待っていると言いたい。同じ場所に帰ってくるわけではないけれど、気持ちとしてそう言いたい。が、言葉が出ない。吐き気が半分。もう半分は、フィンレイへの暴言。 「ライソン。悪い、時間くれ」 だがしかし。逡巡するライソンの耳に飛び込んでくる彼の言葉。意味を確かめようと思ったときにはすでにエリンたち魔術師の影はかき消えていた。 「師匠?」 エリンとフェリクスは、それぞれ跳んでいた。師の後を追尾するなどエリンにとっては容易いこと。けれどさすがに行き先がこことは思いもしなかった。 リィ・サイファの塔。かつて大陸に実在した最強の魔術師。シャルマークの英雄にしてラクルーサ王の友。アレクサンダー王はリィ・サイファを親友と言ってはばからなかった。半エルフの彼を。 「なに?」 フェリクスは疲れをほぐそうとでも言うよう首を回す。星花宮の中でも優秀な魔術師しかこの塔に入ることは許されない。エリナードは若い時から許された一人だ。フェリクスと共に何度ここで研究に励んだことだろう。 「いや、その……ここだとは思わなくって。よかったんですか」 「何が? あぁ、あなたを連れてきたこと? 別にはじめてじゃないじゃない。問題ないでしょ」 確かにそのとおりだ。が、以前の訪問はすべてに明確な用事があった。フェリクスの私用、などと言う曖昧なものでここに来たことはない。 「エリィ、いい加減に自覚しな。あなたは水系の使い手では一流だよ」 「そんな――」 「馬鹿なって思ってる? 確かにね、一度はあなたはその魔力のほとんどを失った。失ったって言うより、無意識に封じたって言ったほうが正しいんだけど。わかってるよね? あのね、エリィ。そもそもだよ、考えてごらん。そんな無茶な封じ方ができるくらい、あなたの魔力は強いんだ」 「魔力がすべてってわけでもねぇでしょうが。魔術師の格は魔力じゃねぇ」 世の魔術師はそれを誤解している。フェリクスは弟子の衒いのない言葉に莞爾と微笑む。確かに魔法とは技術だ。根本的な魔力こそ大切なものではあるけれど、それ以上に必要なのは頭だ。己の能力をどのように活用するか、いつどんな場面でどのような魔法を行使するかの判断。それこそが最も大切なもの。教えが理解されていることにフェリクスは安堵する。 「そうだね。でも、だったら自分は下手くそって思ってるの、馬鹿だと思ってるの。違うでしょ。僕もそう思う。僕が認めてる。あなたも理解してる。足掻くの、やめたら?」 「別に足掻いてるわけじゃ――」 「まぁね。僕にも覚えがあることだからね。師匠に一人前って言われるの、嫌だよね。もっと教えてよ!って思う気持ち、わかるよ」 「師匠も……その、やっぱり?」 「いまそう言ったじゃない。幸い、僕はいまだカロルに勝てない部分がある。あなたもそれでいいと思うよ。僕はまだまだあなたに負けてあげるつもりはないしね」 にやりとするフェリクスにエリンは身を震わせながら、それでも晴れやかに笑っていた。強い師がいる。導いてくれる師がいる。それがこんなにも心強い。 ほっとして、再び不思議になった。このような話をするためだけならば星花宮でいいはず。そもそも三日も五日もかかるはずはない。エリンの眼差しに気づいたフェリクスがこくりとうなずいた。 |