いくらなんでも店舗で倒れた人間を放置するわけにもいかない。致し方なくエリンは彼らを住居部分に案内する羽目になる。 「ライソン」 「んー、何?」 「なに、じゃねぇよ。それ、担いでこいって」 それ、と評されたのは当然にしてキーリ。椅子の上で伸びている。本日二度目だ。まだまだ目覚めそうにない。 「なんで俺が」 「文句垂れてんじゃねぇよ。お前以外は全員魔術師だっての。肉体労働させんじゃねぇ」 「ごもっとも」 ふふん、と笑ってライソンは軽々とキーリを抱き上げた。自分で言ったくせに癇に障って仕方ない。そらした眼差しの先にフェリクスがいて、うっかり目があってしまった。 「エリィ?」 好物の、それもまだ生きてぴちぴちとした獲物を見つけた猫の目だ、とエリンは内心で肩を落とす。できれば放っておいてほしかった。 「なんでもねぇっすよ。師匠たち、茶の一杯くらい飲んでくんでしょう。つか、キーリと話すんでしょうが」 「そうだね。どうしたんだろう、この子。体調でも悪かったのかな。急に倒れるなんて、大丈夫かな、エリナード」 「タイラント師。もうちっと常識ってもんを身に着けた方がいいと思いますよ」 「同感」 フェリクスにだけは言われたくないだろう、とエリンは思う。が、口を出せば面倒なことになる。だいたいライソンに悪い。担いだままのキーリが、いくらなんでも重たいだろう。 「行くぜ」 「あいよ。どっち?」 「どっちもへったくれもあるか。なんでこんなガキをベッドに寝かしてやんなきゃなんねぇんだよ。居間で充分だ居間で!」 さも嫌そうに言うエリンの言葉にライソンの胸のうちが温まったなど、彼は知らない。そうか、と思う。簡単には入れたくない寝室に、自分は泊めてもらったのかと。 ぞろぞろと移動する間にも、当然キーリは目覚めなかった。ライソンの肩の上に担がれて、顔面蒼白。見ている方が眩暈を起こしそうな顔色のままだった。 「師匠」 とりあえず二人の師に茶を出しておいてエリンはソファに横たえられたキーリの様子を窺う。真っ青になっているところを見れば、疲れもあったのかもしれないと思わなくもない。 「こいつ、疲れてたか?」 念のためにライソンに確認すれば、曖昧にうなずいた。自分ではそうは思わないけれど、新兵なだけに疲労はあったかもしれない、というところだろう。 エリンにも覚えがある。熟練するにしたがって、自分の新兵時代のことなど忘れるものだ。何をどれくらいすれば足腰立たなくなるほど疲れるのか、少しずつわからなくなっていく。 「普通の訓練だけどな。でも、新兵にはきつかったかもしれねぇ」 「ぬるい訓練してもしょうがねぇしな」 「まぁね」 ライソンは学習したらしい。会話の背景で突如として二人の師の間でまた華やかな喧嘩がはじまっていた。どうせフェリクスとタイラントのそれはすぐに収まるのだ。何が切っ掛けで爆発し、何を契機に収まるのか、フェリクスの弟子であるエリンにもさっぱりわからない。ライソンは早々に諦めて無視する方向で行くらしい。 「学習能力が高いな。いい兵ってのはそんなもんだがな」 「俺のこと? へぇ、エリンに褒められた」 「別に褒めてねぇよ」 嬉しそうなライソンの表情を見られなかった、エリンは。だからじっとキーリを見ている。まだまだ青い顔に血の気は戻らない。そしてはたと気づいた。 「タイラント師!」 ぱたりと言い合いをやめてタイラントが首をかしげる。やはりただ遊んでいただけか、とエリンは思う。 「いま気がついたんすけどね。歌ってもらえませんかね。こいつ、すぐ起きるんじゃねぇんですか、そうしたら?」 「うん。いつ気がつくかなぁと思って見てた」 「……タイラント師」 地を這うエリンの声にライソンが吹き出す。普段若造扱いされているだけに、彼が子供扱いされるのを見るのは大変に気分がいい。 むしろ、そうして穏やかに、いわば甘えてでもいるようなエリンを見るのが楽しいのかもしれない。ライソンは思う。多大な羨望と共に。 「んじゃ、歌うよ?」 ライソンは世界の歌い手の称号を有する偉大な吟遊詩人の演奏が聞けるのだ、と内心でわくわくとする。が、裏切られた。タイラントは竪琴の一つも用意しない。 「……うわ」 小さく上げた声すらも、タイラントの歌声に飲まれていった。ただ、己の喉だけで奏でる歌声。それなのに、世界中が歌ってでもいるかのような。 「すげぇ――」 ライソンの感嘆の響きも彼の歌声に滑り込む。はじめからそこにあったかのように。否、あったのだとライソンは気づいてしまう。はじめから、この世界にあるべきものとして、自分も他者もすべてがここにある。ふとフェリクスに視線が向く。異種族だ、と思う。闇エルフの子である彼。それなのに、その異種族すら含めて世界だった。わかり合えることはないだろう、数多の他者。それでもすぐ側を歩いて進むことはできる。タイラントの歌にライソンが聞いたのはそんなことだった。 「お前が泣くなっての」 「え――」 ひょい、とエリンの指が伸びてきた。何事かと思う間もない。目尻から頬へと彼の指がたどっていく。小さく微笑んだエリンの口許。いつになく柔和だった。 「エリィ」 師の呼び声に、彼が思い切り頭を振った。それから舌打ちをして猛然とタイラントを振り返る。 「タイラント師。俺になに歌いました?」 「えー。別になんにもしてないけどなぁ。何かされたって思うんだったら、それはもう君の中にあったことだと思うけど。俺はないものは生めないよ? 何かを感じたんだったら、今までそれは君の中で君自身が眠らせていたもの――」 「御託はいいです。やめてください、二度と、絶対に!」 師匠筋の人間にそこまで言うのはどうなのだろう、とライソンはひやりとする。だがタイラントは気にした風もない。そもそも歌に囚われているよ、と注意を喚起したフェリクス自身、気に留めていないらしい。 「気にしすぎだよ、エリィ。タイラントは大したことしてないし。ちょっとくつろいだ程度のことでしょ。まぁ、あなたの不快も理解はできるからね。あとで僕が締めとくから、許してやって」 タイラントの吟遊詩人らしく見事に調整された悲鳴に顔を顰め、エリンはうなずく。過敏になっているのは自覚している。指先に、まだライソンの涙の名残が残っている気がした。 「あー、魔術師さん方。よろしいですかい? キーリ。起きたんだけど。あんたらがごちゃごちゃやってると、また気ぃ失うぜ?」 「まったくだね。キーリ、あんまり驚かないでくれると僕らも話がしやすいんだけど?」 フェリクスの言にタイラントが微笑んでいる。エリンは肩をすくめている。根本的にそれで納得できるのならば失神などしない、とライソンは思う。思うぶん、この非常識な魔術師たちに慣らされている自分を思う。 「来いよ」 また目を回してもタイラントがどうにかするだろう、と見極めてエリンはライソンを誘う。師二人の話を聞いていてもよかったけれど、なんとなく、いまは居心地が悪い。 「あ、いや。キーリの話、興味あるか、お前も?」 一瞬、ライソンがためらった気配にエリンは慌てて付け足した。そんな自分を持て余しているのを感じる。どうしたものか、迷って迷ってどうしようもない。 「いや。別に? あんたと話す方が楽しいけどな、俺は」 「うっせぇ。用があんだよ、用が」 師たちに背を向け、エリンは居間から出て行く。扉は開けたままだった。声だけ聞こえれば問題ない。そのまま工房に入っていくのをライソンは興味深そうに見ている。傭兵らしい、しっかりとした足音が背後にある。 「これと、これな。それと――こっちもか」 「エリン?」 「お使いだ、お使い。コグサの注文だな。改良しろって言われてた傷薬は注文通りになってるはずだ。切傷特化型だから、他には効果が薄いってきちんと言っといてくれ」 「エリンさーん」 「なんだよ?」 「ガキの使いは酷くねぇ?」 小さく笑ってみせるライソンから、咄嗟にエリンは目をそらした。どうにもできない自分がそこにいる、その背中を見た気がした。 「……ガキなんだからガキの使いで当然だろ」 呟いた声に言葉が返ってこなかった。ちらりと見上げたライソンは困った顔をしてこちらを見ている。再び目をそらすエリンの頬、指が伸びてきた。 「やめろ」 びくりとしたライソンの気配。それほど厳しく言ったつもりはなかったものを。ライソンを見やれば、青くなっていた。 「ライソン?」 「いや……ごめん。なんか、わかんねぇ。あんたに触るつもりなんか、なかったんだ。ほんとだ。なんか、急に――ごめん」 タイラントのせいだ、とエリンは断じる。仮に間違っていたとしても、タイラントのせいだ。ライソンの素直な感情の表出は、間違いなくタイラントの歌の影響に違いない。自分だとて、そうだったのだから。触れるつもりなどなかったのに、拭ってしまったライソンの涙。 「……別に」 気にしていない、と首を振る。嘘だった。目一杯気になっている。触れられそうになっただけの頬。触れてもいないライソンの指。それなのに、こんなにもはっきりと感触を覚える。 「俺――。フィンレイさんのこと、嫌いだわ」 唐突とも言えるライソンの言葉。言った本人がはっとして蒼白になった。ライソンの手指が震えている。それを隠したいのか握り込んだ拳。目だけはじっとエリンを見ていた。 「撤回は、しない。謝るけど、撤回はしない。ごめんな、エリン」 いまだ心に抱き続けている人に対して酷いことを言った。それだけは詫びる。けれど自分の心情は偽らない。ライソンは震える唇でそれを言う。ふいにすとん、とエリンの中で何かが落ち着く。 |