三日後ならば時間が取れるから遊びに行く。ライソンはそう言った。エリンは来るな、とは言わなかった。誇りにかけて言えない。そうも思った。
「なんだってんだ――」
 自分たちは現状、ただの友人同士でどうもこうもない。キーリを選んだのならばそれはそれでいいことだ。自分はいまでもフィンレイを心に抱いている。
「フィン――」
 そのはずだ。だから、呼んでみた。エリンは店の薄暗がりでじっと己の体を抱く。一人であの砦を訪れたあの冬の日を境に、フィンレイの面影が遠くなっている。
「まるで」
 遺言がちゃんと届いたのだから、安心して逝く、とでも言うように。冬の日の風に、フィンレイの面影が吹き流されて行きでもしたかのような。
「違う」
 まだフィンレイはここにいる。そう思いたい。たとえ彼の気が済んだとしても、自分はまだ少しも済んでいない。
 ただの後悔だと、理性はすでに答えを得ている。それはもう愛情ではなく、後悔だと。フィンレイへの思いは厳然としてここにある。けれどかつてのような身を焦がすそれではなく、遠い日のぬくもりにも似た。
「フィン……」
 もう一度この手で彼を殺してしまった気がした。とどめを刺してしまった気がした。じくじくと、塞がってもいない傷からまた生暖かい血が流れる。
「それでも――」
 もうその血は熱くも冷たくもない。あの瞬間の、凍りつくような傷でも、死にたくなるほどの熱さでもない。それが、切なかった。
 懊悩するエリンなどどこ吹く風で、日々は穏やかだった。冬から春へと向かっていく毎日。少しずつでも気温は上がっていく。当たり前の世界の営み。エリン一人、溜息ばかりをついている。
 だから三日など、すぐだった。思い切る間もありはしない。覚悟など、決める暇もない。
「よう、エリン――ってあんた、また酷い顔してんぞ」
 店に入ってくるなりライソンが顔を顰めた。当然だろう。いくら時間感覚が常人とは違う魔術師とはいえ、眠りもすれば食べもする。この三日、ろくに眠っていないのだから顔色など悪くて当然。
「……おう」
 だが睡眠不足の元凶に、それが言えようか、否。エリンは黙って片手を上げる。ちらりと見れば含羞んだキーリがライソンの背に隠れるようにしてぺこりと頭を下げていた。
「茶ァ淹れるわ」
 ライソンがいつもの土産を出すのを待ちもせず、率先してエリンは茶を淹れに立つ。かすかに眉を顰めたライソンが目の端に映った。
「エリン――」
「なんでもねぇよ。ちょっと――」
「なんでもなく見えてんだったら言わねぇよ」
 言い訳など聞く気はないとばかり畳みかけてくるライソンに、ふと師の口調を思い出す。緩んだ口許に、エリンは自分の疲れを知る。また星花宮に戻ろうか。あるいは、店を閉めて本格的に帰ろうか。そんなことまで思ってしまう。
「エリン。何があった」
「なんにも――」
「ねぇと思ってたら言わねぇって言ってんの。聞いてるか? それとも。――俺には言いたくない?」
 卑怯だとエリンは思う。どうして最後だけ、そんなに心細そうな声を出すのだろう。これでは言いたくとも言えない。言いたくなど、なかったけれど。
「ちょっと寝不足なだけだ。気にすんな。魔術師なんかそんなもんだ」
 お前の同僚の魔術師だとて、研究に励んでいればそう言うものだろう、と暗に言えば致し方ないとばかりライソンがうなずく。無理やりにでも納得したのだろう、それが申し訳ない。目をそらしたエリンに、ライソンはけれど嘘を見ていた。
「で? 用があんだろうが、用が」
「あんた、わざわざ時間取るために……それで寝不足だったり――」
「そこまでお人好しじゃねぇよ、師匠じゃあるまいし」
「……氷帝が?」
 ライソンには信じがたいことだろう。世間の人が見るフェリクスはその二つ名の通りでしかない。星花宮の人間だけが、彼の優しさを知る。
「まぁ、いいや。ほら、キーリ。話があるんだろ」
 淹れてやった茶が彼の前で冷めつつある。緊張して、手も付けられないらしい。ぎゅっと膝の上で握った拳まで可愛らしい彼から、エリンは目をそらす。
「怖くねぇって。ただ柄が悪いだけだって。大丈夫だから、な?」
「柄が悪くて悪かったな、え? 傭兵のお前に言われたくねぇっての」
「なに言ってんだ、あんただって元傭兵だろうが。同類だ同類」
 ふふん、と鼻で笑うライソンにエリンは言葉もない。言われてみればその通り。確かに自分もまた傭兵だった。
 だがキーリは元傭兵、と聞いて驚いたのだろう、無言で目を丸くしている。それからことり、と首をかしげてライソンを見る。思わずエリンは叩きだしてやろうかと、と沸騰しかけた感情を自制した。
「いい、エリン?」
 ライソンが、尋ねていた。なにを言われたか一瞬エリンはわからない。彼の目を見ているうちに、わかった。過去を話してもいいのか、そう問われていたのかと。
 ライソンの目の中、後悔があった。軽々しく元傭兵などと言ってしまった自分を彼は悔いていた。ほんのりとどこかが温かい。エリンは黙ってうなずく。
「エリンはさ、お前は知らないかもなぁ。青き竜って知ってるか?」
「……話には。すごい隊だったって」
 細い声。緊張に震える声。いかにも少年の可愛らしい声。エリンは少年の年を可愛いと思う年齢なのだ、と自覚しては内心で苦笑する。そうとでも思わなければ、苛立ってたまらなかった。
「エリンは、竜の魔術師だったんだぜ。最強の魔術師だ。本気ですげぇよ。俺が知る限り、人間だと最高かも」
「なに言ってやがる。誰が最高だ」
「だってよ。あんときのあんた、すごかったじゃん」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。忘れんな、あんときには四魔導師が勢揃いだ。俺なんかクソだクソ」
「だから、それ以外の人間だったらって意味だっての!」
「だから、馬鹿言ってんじゃねぇって言ってんの。リオン師もタイラント師も人間だっての。あ。そういやカロル師も人間か。あの人はなぁ……なんつーか、人間離れしてるからなぁ……」
「むしろ、純粋に人間じゃねぇのは氷帝だけだろうが」
「俺だったらそうは言わねぇけどな。四魔導師は全員、人外だっつーの。あれは化けもんだ。人間じゃねぇよ」
 常人が言ったならそれは罵倒だ。差別以外の何物でもない。が、エリンがそう言うとき、そこには憧れがある。そこに達することができないであろう自分の口惜しさと、達することができないがゆえの強烈なまでの憧憬。
「俺が隊長に憧れるようなもんだよな、それってさ」
「まぁな。相手がコグサだってのがどうかと思うけどよ」
「憎まれ口叩きやがって。まぁ、そんなんで、エリンは俺が知ってる人間じゃ最強魔術師ってわけだ」
「だからな、坊主。俺は――」
「あんたが言ったんだぜ、エリン? 四魔導師は人外なんだろ?」
 にやりと笑われてしまった。何はともあれ、ライソンがいたく買ってくれていることはわかってしまう。エリンはそっぽを向くことで返答を保留した。
「だからな、キーリ。ちょっと口は悪いけど、強くてすごい魔術師なんだぜ。大丈夫だから話してみろって」
 とんとん、と背を叩いて励ますライソンの姿に、エリンは目を閉じる。向き直ってライソンを見た。
「そんなに話があるんだったらお前が話せばいいだろうが。知ってんだろうがよ」
「いや、まぁ、知ってっけどさ」
「だったら――」
 話せばいい。キーリに言わせることなどないだろう。どうせ、話題は一つに決まっている。そもそもそれ以外、キーリとは接点がない。じっとキーリを見据えれば、怯えたよううつむいた。
「脅すなって、エリン」
 脅していない、とは言い返せなかった。むしろ、脅した自覚にエリンは驚いていた。ふいに、嫌でも納得した。ライソンを、盗られたくない。
 突如として顔をそむけたエリンにライソンは言葉がなかった。機嫌を損ねるようなことは言っていないはずなのだが。睡眠が足りないと言っていたから、些細なことで不機嫌にもなると言うことだろうか。
「あの――」
 細い声。震える少年の声。兵だとは、とても思えない。エリンは背を向けたままうなずくでも無視するでもなく聞いている。
「俺、その……」
 こんな可愛らしい声をしていて、一人称は一端に俺かと思ったら笑えた。肩の震えにライソンが不思議そうに目を留めている気配。いま彼らは隣り合って腰を下ろしているのだな、と妙なことが気になる。
 盗られたくない、とは思う。自覚してしまった以上、認めざるを得ない。魔道を志す者は嫌でも理解せざるを得ない時がある。どんなに嫌でもあり得ないことでも、そこにあるものが現実だと。得てして魔法とはそう言うものでもあると認めなくてはならないことが多々ある。
 だから、認めはしよう。納得もしよう。エリンは無理矢理にでも事実を心に染み込ませていく。ただ一点、一つだけは認めない。自分の心にはまだフィンレイがいる。
「あの、エリンさん。……その、俺、ミルテシアの出身なんです」
「へー」
「エリン、ちゃんと聞けって」
 聞いている、と言う代わりに片手を上げた。ライソンが睨んできたけれど、気にしないことにした。緊張が頂点に達しているらしいキーリはそれすらもう目に入っていないらしい。
「それで、その。ミカって名前、ご存じじゃ、ないですか」
「はい、ミカ。知らねーよ。誰だよ、それ」
「あの、俺の、曾祖父ちゃんなんですけど」
「俺はそこまで年食ってねぇし。知ってるわけねぇだろうがよ」
「でも、その。俺の祖父ちゃんから、カロリナ・フェリクスの話聞いてて――」
「はい?」
「曾祖父ちゃん、カロリナ・フェリクスとタイラント・カルミナムンディの友達だったみたいなんです――」
 それでキーリは星花宮の魔導師と話をしてみたかった、と言った気がした。あまりにも予想と違う話題に、エリンは呆然とキーリを見つめる。己の馬鹿さ加減に頭を叩き割りたくなってきていた。




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