悔しかった。言葉にならないくらい、悔しくてたまらなかった。まだ新兵のキーリに切られた。それも剣を持つ右手を切られた。戦場であったならばあそこで自分は死んだことになる。
「くそッ」
 不器用な手でなんとか包帯を巻こうとするも、利き手ではないだけにどうにもうまくできなかった。それもまた苛立ちを誘う。
 キーリが悪いわけではない。完全に自分のせいに他ならないだけに、怒りの持って行き場がなかった。
 訓練中に呆けるなど、自分はどうしてしまったのだろう。それも、わかっている。エリンが心配だった。
「嘘だな」
 心配なのではない。心配だと言うのならば、自分のこと。もしかしたら、彼に嫌われてしまったのかもしれない。それだけが気になっている。
「もう――」
 何日になるのだろう。エリンの顔を最後に見てから、どれほど時間が経ったのだろう。キーリと共に店に行ったあの日が最後。
「俺、なんかした?」
 気がつかないうちに気に障ることをしでかしていたのかもしれない。馴合いが過ぎたのかもしれない。友人だと口にしてはいても、エリンだとてわかっている。
「あんたが――」
 好きだと、エリンには言ってある。撤回したなど、思ってはいないだろう。毎晩のように夢を見ていることまで、もしかしたら感づかれているかもしれないとも思う。
 エリンの夢。ただ話すだけであったり、故郷の村への旅の夢であったり。あるいはとても口にはできないようなそれであったり。
「知ってるだけにきついよなぁ」
 彼の肌を知らないわけではない。勘違いで襲い掛かってしまった自分の無様さ。いま思い出しても顔から火を噴く思いだ。
「もしも」
 あの勘違いがなかったらならば、せめて本当の友人にはなれただろうか。こんな風に偽物、作り物の壊れそうな関係ではなくて。
「いてっ」
 拳を握りしめた拍子に、傷が痛んだ。まだ包帯を巻いている最中だと、うっかり忘れていた。ぎりぎりと傷を締め上げてしまった形になっていて、ライソンは苦笑する。
「ちょうどいい、かな」
 こんな気分のときには。エリンへの不安。キーリへの申し訳なさ。彼に子供扱いされる理由がよくわかる。そんな気がした。
「――ん?」
 ふとライソンは目を上げる。部屋の前、誰かが立っている気配。アランではない。魔術師の彼は気配を消すのがあまり上手ではなかったけれど、アランならばわかる。同時に、仲間の兵でもない。彼らは一様に気配を消すのが巧い。
 そっと立ち上がり、ライソンは扉の前で息を潜める。潜めているようで、平静の呼吸。細く緩やかな呼吸が常態を保たせる。
 扉の前の誰かは、気配を殺そうとしていた。それが伝わってくる分、ライソンには掴みやすい。そっと扉に手をかける。一気に引き開けた。
「って、エリン! なんでこんなとこにいるんだよ!? つか、なんで気配殺してんだよ!?」
 引き開けられた扉に目を丸くしたエリンがいた。咄嗟に顔をそむけ、彼が唇を噛むのがライソンには見えた。それでも顔色は悪くはなさそうで、病気かもしれないと思った懸念だけは飛んでいく。もっともそのぶん、ならばなぜ会ってくれなかったのかという疑問は募ってしまったけれど。
「……なんつーか、物の弾み?」
「物の弾みで気配殺すなっつーの。傭兵隊の営舎でそれやったらあんた、怪我すんぞ」
「知ってるよ」
「だよな」
 エリンは青き竜の魔術師だったのだから。大陸最強の傭兵隊に所属していた、悪魔と呼ばれた最強の魔術師。こんなにもほっそりとした美しい人だとは思いもしなかった。ライソンはそう思って小さく笑う。
「入れろよ」
「はい?」
「だから、部屋。入れろ」
 もごもごと返す言葉がないうちに、エリンはさっさとライソンをよけて部屋の中に入ってしまう。慌てて振り向けば、興味深そうに室内を見回していた。
「へぇ」
「って、見んな! あんまり綺麗にしてねぇんだから」
「そうか?」
 兵らしく、きちんと整った部屋だった。いつ出動がかかってもすぐさま戦いに行けるだけの準備ができている。傭兵の部屋だな、とエリンは思う。懐かしいような痛いような気がした。
「見せな」
 ぶっきらぼうに言うエリンにライソンは首をかしげる。その動きに、巻き方が悪かったのだろう包帯がほどけてきた。
「なにを?」
「だから、怪我。したんだろ。コグサが見てやれってさ」
「いや、別に……」
「つか、実験台だな。新しい薬、作ったんだがよ。兵で効果を見せろって言いやがった、あの野郎。俺が実験してるって言ってんのによ、聞いちゃいねぇ」
 ぶつぶつ言いつつエリンが寝台に腰を下ろす。ライソンはどぎまぎとして、どうしていいか迷ってしまう。エリンが、自分の寝台に座っている。それだけがぐるぐると脳裏を巡る。
「ライソン。突っ立ってんな。こっち来いっての」
 もしかして誘われているのだろうか。思った瞬間にあの勘違いを思い出せたのは僥倖だった。ぶるりと首を振って正気を取り戻そうと努力する。
「隊長が、実験しろって?」
 ゆっくりと、エリンの隣に腰を下ろした。なんとなく、すぐ側には座りにくくて、少しだけ間を空ける。エリンがやりにくい、と文句を言って側に寄った。
「おうよ。俺の体で実証済みだって言ってんのによ」
「待て、エリン。いまなんつった?」
「実証済み」
「そっちじゃねぇよ! 自分の体で確かめたのかよ、あんた!?」
「そういうもんだろうが。他人で実験するわけに行くか。死にゃしなくったって効果がわかんねぇんだぞ。自分の体だったら他に迷惑かかんねぇだろうが」
「俺が迷惑だ」
 きっぱりと言ったライソンの目に、エリンは言葉をなくす。薄青い、酷薄そうにも見える強い眼差し。唇を引き結べば、誤魔化すなとばかり睨まれた。
「確かめたってことは、わざわざ怪我したんだよな、エリン? あんたな、ダチが怪我して平気だと思うか。俺は嫌だね。少なくとも、だから俺は迷惑だ」
 誰にも迷惑をかけていないなど言うな。するべきことであるのならば致し方ないけれど、それだけは言うな。ライソンの無言の言葉が染み通る。今度視線を落としたエリンの目を、ライソンは追わなかった。
「一端の口叩きやがって」
 エリンがぼそりとそう言ったのは、薬を塗り終え、綺麗に包帯を巻き終えた後のことだった。さすがに自分でするのとは段違いに綺麗なそれにライソンが満足そうにしていたときのこと。
「なんか言ったか?」
「コグサとおんなじこと言いやがってって言ったんだ」
「へぇ、隊長がね。当然だろ。俺だってあんたのダチだ」
 ふん、と鼻を鳴らして見せたライソン。わずかに声が震えていることにエリンは気づいてしまった。それなのに、見ないふりをした。
「――手紙」
「……あぁ」
「受け取った」
「うん」
 それで、用事は済んでしまったようなもの。本当は、ただ手紙の礼が言いたかっただけかもしれない。ふとエリンは思う。わざわざ薬を新しく調合してまで狼の宿営地を訪れたわけは、そんな単純なものだったのかもしれないと。
「字、書けたんだな」
 けれど、気づいてもいる。なぜ、あの一文を消したのかが聞きたい。嫌いになったとは、どういうことなのだろう。自分がライソンを嫌う理由は今のところない。あるのならば、彼のほうにこそ。キーリとは、どういう関係なのか。思った途端、とても聞けないとエリンは唇を噛みしめる。
「隊長がさ」
 寝台に隣り合って座ったまま、ぼそぼそと喋っていた。先ほどまでの言い合いが嘘のよう、お互いに言葉が巧く操れないでいる。
「命令の読み違いがあったりしたら、命にかかわるから覚えろって」
「なるほどな」
「うん」
 コグサの命令だけならば、口頭でも充分だ。だが狼は傭兵隊。コグサを飛び越えて雇い主が何事かを言ってくることも多々ある。そのとき命令書が読めるか読めないかでは話がずいぶんと違う。
 エリンにも覚えがあることだった。竜の若い兵に字を教えたこともある。エリンは魔術師。隊に入ったときには読み書きが当たり前にできていた。
「ちゃんと、読めた?」
 字が汚いから、とライソンは呟く。エリンは黙って首を振る。汚くなどなかった。優雅な魔術師の書体を見慣れた目には武骨だったけれど、読みやすい字だった。
「エリン――。その、どっか行ってたの」
「……星花宮に、ちょっと戻ってた。体がなまってたから、鍛錬しに。ついでに薬の開発に」
「だったら――」
 言いかけたライソンが黙る。ならばせめてしばらく留守にする、と伝えてくれてもよかったではないか。いつ帰ってくると言ってくれてもよかったではないか。責めたかった気持ちが、エリンへの好意に遮られ、そして彼を思うからこそ、そんなことを責められる自分ではないと気づいてしまう。自分はただの友人なのだから。
「じゃあ、もう店に戻ってる?」
 それだけをぽつりと言えば、エリンもこくりとうなずいた。どうにも場が持たない。彼といてこんなことははじめてだった。
「だったらさ、今度の休み、店まで行くから待っててよ。キーリが、あんたに用事があるってさ」
 エリンは黙ってうなずいた。決して言葉にはしなかった。
 キーリがこの自分になんの用だとは。言えなかった。ライソンを奪い取ったとでも言うつもりか。ならば。はじめからそんな関係ではないと言い放とうか。そう思ったのに、胸の中に虚空を見つけてしまった気分だった。




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