「痛ぇ――!」
 油断した、と切られたときにはライソンもわかっていた。自分が悪い。目の前で青い顔をしているキーリに酷く申し訳ない気がした。
「悪い、ちょっとぼうっと……」
 言い訳するライソンが、がくりと前にのめる。あっとキーリが声を上げた。一瞬は怪我のせいで失神でもしたかと思ったらしい。だがたかが訓練中の切り傷で失神するほどやわではない。
「なにぼっとしてんだ、え? 腑抜けてんだったら出てきな。ぼけた兵隊なんざ要らねぇんだよ」
 地に膝をついたまま、ライソンは声の主を振り仰ぐ。コグサがそこで仁王立ちしていた。思わず頭を抱えてしまう。
「すんません……」
 なぜ呆けていたか、どうしてこうなってしまったか自分で理解しているライソンだった。詫びるより他にない。理由は言いたくないから。
 その若い兵の心情を悟ったのだろう、がりがりとコグサは頭をかく。どうしたものか、と考えているのだろう。訓練中に意識が散漫になったものを放置しては隊長の沽券にかかわる。それ以前にライソン自身が危険だったし、真似をするわけではなくともこの程度だったら叱責されない、と他のものが思っては隊の規律が乱れる元だ。
「部屋もどんな。今日の訓練はしないでいい。つまり、わかるよな。ライソン? お前は謹慎。おとなしく部屋で反省してろ」
 思い切り頭を叩いた。すこん、といい音がする。キーリが慌てて何かを言っていたけれど、ライソンにはもう聞こえていなかった。
 容赦されたのを嫌でも感じてしまう。傭兵にとって、部屋に押し込められるのはある意味罰だ。体を動かすことが平素の生活になっているのだから、動くな、と言われればそれだけで苛々とする。
 それでも、ライソンは思う。見逃されたのだ、と。何に悩んでいるかまではコグサにもわからないはずだと信じたい。けれど何かに悩んでいる。ライソンがどうにかしようと努力はしている。それをコグサは悟っている。だからこそ、努力だけは買ってやる、というところだろう。ライソンはそう思う。
 すごすごと部屋に戻るライソンの足取りに、コグサは内心で微笑む。こちらが気づいているだろうことを、ライソンもまた気づいた。あの焼け跡の村で拾ってきた少年が、少しは成長したかと思えば微笑ましい。
「キーリ。よかったな。俺が相手してやろう」
 ぎょっとして含羞み屋のキーリが頬を赤らめる。さすがに照れたのではなく、驚きと緊張のそれだろう。あるいはそれらが混然となってわけもわからず頬を染めたか。コグサはくすりと笑い、キーリに向かって剣を取る。
 再び剣戟の音が響きはじめた。周囲の兵も訓練を再開している。傭兵隊の殺伐としてからりと明るい日常の光景。
 まだライソンよりも若く訓練の足りないキーリはすぐに息が上がってしまう。肩で息をすればする分、剣の動きが読みやすい。指摘しても、すぐには直らない。それでも何度でも指摘するよりない。
 ――変な癖をつけるな。若い兵のそれはすぐ直せ。鉄は熱いうちに打てってもんだ。
 かつての竜の隊長、ラグナの教えがコグサの脳裏に響く。まだまだ至らない隊長だと自覚はある。だからこそラグナに倣いたい。
「あ……!」
 疲労のせいで握力の落ちたキーリの手の中から剣が飛ぶ。それもコグサ目がけて一直線に。青ざめたキーリはすぐさま赤くなる。素晴らしかった、コグサは。にやりと渋く笑ってみせたかと思うと、軽々と剣を掴みとっていた。
 申し訳ありませんでした。キーリが詫びようと思ったときには何事もないかのよう手を振られていた。
「なんだ、赤くなって? 俺に惚れるなよ?」
 その上そんな言葉でからかわれた。ふふん、と鼻を鳴らして笑うコグサの精悍さ。いつか彼のような男になりたいものだとキーリは思う。
「……惚れませんから」
 ぼそりと小声で言えば自分の言葉に頬の赤味を増していくキーリ。聞こえたコグサが高らかと笑い、もう耳まで真っ赤だった。
「よう、コグサ」
 そこに現れた人物に、キーリははっとする。思わずまじまじと見てしまった。向こうには目をそらされてしまったけれど。
「なんだ、エリン? 何しに来たんだ」
「強いて言えば営業」
「営業?」
「おうよ。傷薬、打ち身の軟膏、ついでに火傷の治療薬なんぞも作ったんだがよ。要るか。安くはしねぇが効くぜ」
「そこは安くしときますぜ、お客さんって言うところだろうがよ」
「お前相手におべんちゃらが言えるかよ」
「客商売に向かねぇ野郎だな、おい」
 からからと隊長が笑っていた。心から楽しげに笑っていた。キーリは驚きとともにそれを見る。驚くあまり、また赤くなっていることにも気づかずに。
「まぁ、いいや。とりあえず俺の部屋こい。商談と行こうぜ」
 あいよ、と言って魔術師が行ってしまう。キーリはそう思った。引き留めなければ行ってしまう。話したいことがある、話さなければならないことがあるのに。けれどそう思って伸ばしたはずの手は、とっくに去ってしまった彼らの背後の空気を掴むだけ。ちらりとライソンの部屋の方角をキーリは見ていた。
「なんか留守にしてたらしいな?」
 無論、コグサもエリンもそんなキーリの態度に気づいている。歴戦の傭兵であるコグサは気配そのものを掴んだ。魔術師のエリンはそもそも常人より感覚が鋭い。だが二人とも気づかなかったふりをして言葉を交わす。
「あぁ、ちょっと星花宮に戻ってた」
「へぇ? で、やってたのが薬作りかよ。まめな野郎だな」
「ほっとけ」
 ただ薬を作りに帰っていたとはコグサは微塵も思っていない。それだけならば店の工房で充分できる。魔術師ではないコグサではあっても、かつての同僚。ある程度のことはわかる。
「で。どれがどれだよ」
 隊長の執務室に戻るなり、商談に入った。茶の一杯も出てこない。この辺がある意味では元同僚の気安さだった。
 エリンは淡々と薬剤の説明をする。足首の捻挫はもう治っていたが、腕には切り傷と火傷の跡がまだ残っている。いずれも痛みはしない。
「つーわけで、実証済み。効能は保証する。どうよ、買うか?」
「お前なぁ。自分の体で実験すんな。大事にしろよな」
「他人の体でやったら問題だっての。これなら誰にも迷惑かかんねぇだろ」
 肩をすくめるエリンにコグサは渋い顔。そう言う問題ではない、とこの友人に言ってわかるものだろうか。
「あのな、エリナードよ。こんなこと言いたかねぇんだがな。ダチが傷だらけんなって平気でいられるか、え?」
 ぎょっとした。久しぶりに彼から本名を呼ばれたせいだけではない。いまこの瞬間、心底コグサが自分を案じ、支えていてくれたことを理解した、その驚き。わかっているつもりだった。理解していると嘯いていた。なにもわかっていなかった自分を知った。
「おい、黙んな。なんか妙なこと言った気になるだろうが」
「……口説かれたかと思ったわ」
「誰がてめぇを口説くか! 俺ァ趣味がいいんだ。お前みたいなのはこっちから願い下げだ」
 からからと笑う友人のありがたさ。フィンレイを死なせた自分。フィンレイを止められなかったコグサ。二人ともに傷があったのだと今更ながらによくわかる。
「……まぁ、星花宮に戻ってたってのは、その辺が理由でもある。あっちにいりゃ、薬の研究で傷つくって、万が一効果がなくっても神官がごろごろいるからな」
 言い訳以外の何物でもない。それはコグサも感じるだろう。だが友人とはこんなにもありがたいものだった。何も言わずにその言い訳を受け入れてくれるとは。
「それでも気分のいいもんじゃねぇんだってことだけは覚えとけっての。それが常人の感覚なんだからな、わかったか」
「魔術師とそうじゃない人間の違いってやつだな」
「おうよ」
 胸をそらして偉そうに言うコグサ。ちらりとエリンは笑う。自分は魔術師で、コグサは傭兵。それでも友人。たとえ年齢がかけ離れていても、共に戦ってきた戦友。自分が戦場を離れた今でもまだ友と呼べる相手。
「なんかさー、最近。すげぇガキんなった気がしてさ」
 だからこそ言える愚痴。コグサは笑ってこの期に及んで茶を淹れてくれた。あるいは商談は終わり、ここからは友人の会話だとでも言うように。
「薬作りのついでに、師匠に愚痴り倒してきたんだけどよ。あの人もあの人だからな。巧いこと丸め込まれたような気がして仕方ねぇわ」
「あれじゃねぇの? お師匠さんに会ったからよけいにガキ気分なんじゃないのか」
「ん? あぁ……そりゃそうか。確かに言われてみりゃそうかもなぁ」
 子供時代に返って師匠に思う存分甘えてきた気分でもある。さすがに照れくさすぎてそんなことは口には出せない。そのエリンの表情に何を読み取ったのかコグサがにやりと笑った。
「ついでに、ガキ気分なのは、ガキの相手してっからだったりしてな、エリン?」
「相手なんざしてねぇよ」
「ほほう。即答しやがったか、こいつ」
「コグサ! てめぇ、嵌めたな!?」
「嵌めてない。俺は誰のことだとも言ってねぇ。星花宮に戻って、ちっちゃい弟子の相手してきたんじゃねーのって思っただけだ」
「コグサよ。お前、白々しいって単語、知ってるか」
 真顔で言えばにやりとするコグサ。エリンはがくりと肩を落とす。友人のありがたさ、など青臭いことを考えた自分が恥ずかしくなる。それでも否定する気はなかったけれど。
「俺は生憎と色々忘れもんをしてきててなぁ」
「あぁ、母親の胎内にってやつか。なるほどな、そりゃあ色んなもん忘れてきてるぜ、お前」
「うるせえっての。おい、エリン。それ、効果が見たい。うちの若いので実演してくれ」
「って話、まだ済んでなかったのかよ。お買い上げいただいたもんだと思ってたんだがな」
「効能をこの目で見て納得したら、継続的に購入する。――から、安くしろ。うちは財政が苦しいんだ」
 笑って言われてしまってエリンもむつりとうなずく。それは元々わかっていることだった。が、それよりもまず実演とは何事だ。自分の言葉では足らないか。言いかけた時コグサが笑う。
「ちょうど怪我してんのがいてよ。そいつに使ってみてくれ。――ライソンって言うんだがな」
 エリンは物も言わずにコグサを殴りつけ、そして見事にその拳を受け止めたコグサがこれでもかとばかりに大笑いをした。




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