何度も消された文面をなぞっている指先。自分で何がしたいのかわかってしまう、そのためらい。エリンはじっと机の上の手紙を見つめていた。
「馬鹿か、俺は」
 そうして見ていれば、消えた文章が現れるのではないかとでも言うような自らのふるまい。苦笑するより他にしようがないではないか。
「どうする……?」
 呟いたときにはもう決めていたのかもしれない。口中でそっと詠唱する。指先に集まってくる魔法の産物、ただの水滴に見えてその実、違うもの。
 エリンの指先が、その魔法がライソンの手紙をなぞる。消された文章をそっと、まるで愛撫のようになぞっていく。
 ゆるゆると、透明な水滴が色づきはじめた、インクの色に。代わって表れるもの、書き損じかもしれない、手紙の文面。
「あ――」
 エリンの指が止まった。綺麗に現れた、消された手紙。ライソンが、いったんは書こうとして、そして消してしまった彼の心。
 ――もしかして、俺のこと嫌いになった?
 ただ一言、それだけ。書こうとしてやめたライソンの意地を思う。切なさを思う。書きたくて、書いてしまって、けれどやめた彼の心を思う。
「あの――」
 馬鹿か小僧か若造か。言おうとした罵り言葉は声にならず、その代償のようかっと頬に血が上る。凄まじい音がして何事かと思ったときには、自分が立ち上がっていたことにエリンは気づく。椅子が、背後に倒れていた。自分が勢いよく倒してしまったらしいその椅子に苦笑して、深呼吸。
「だめだ」
 居ても立ってもいられない。どうしていいか、わからない。ライソンの気持ちはまだ自分にある。消された文面にそれを見た。
 だからと言って、自分にどうできるのだろう。どうしたいのだろう。嫌いになったのは、彼のほうなのではないかという疑念。
「ライソン――」
 呟いた自分の声にエリンは首を振る。聞きたくなかった。それがどんな響きかは。心の中で呼んでみる。フィンレイ、と。それも違う気がした。
 エリンはそのまま自室を後にした。本当は、今すぐ帰るべきなのだと思う。店に帰って、ライソンを待つ。あるいは宿営地に会いに行ってもかまわない、そのはず。
「できるか、馬鹿」
 言ってみてもなぜできないのかは自分でもわからなかった。ただ思う。狼の宿営地には、キーリがいるではないかと。
 引っかかっているのは、それかもしれない。否、それだともうとっくにわかっている。認めているではないか、師に向かって。
「我儘言いそうな自分が嫌になった、か――」
 キーリは本当に友人なのか。もしかしたら自分ではなく、そちらを選んだのか。当然だとも思う。思ってしまう。
 間違いのあの一度だけ。ライソンがこの自分を好いていると言うのならば、ましてあの若さ、耐えがたいだろうと想像はできる。
「だからって」
 単純に身近で手を打ったのか、と言いたくなってしまう。そう思っても、キーリはエリンの目から見ても可愛らしかった。素直に育ったのだろうと充分に窺わせるキーリ。
「なんで傭兵隊になんか入ってんだかな」
 不思議と言えば、それが一番不思議だ。キーリに傭兵は似合わない。傭兵たちが持つ過去のすさみが彼にはない。誰にも話したくない、あるいは語っても無意味なほどの過去。傭兵たちは一様にそれを持つ。そうでなければ誰が金のために進んで戦場になど立つものか。すさみを持たないものがいるとしたら、それは戦闘にしか生を見いだせない、過去ではなく現在が狂っている人間だけ。
「どっちにしても――」
 キーリは違う。もしかしたら戦場に立つと人格が変貌したかのよう戦うのかもしれないが。あの若さでそれもまた考えにくかった。
 ならばよけい。ライソンは可愛いキーリを選んだ。あの日、本当は自分にそれを告げに来たのではないか。
「手紙……」
 それなのに、あの手紙。意味がわからなくなってしまった。俺のこと嫌いになった、と問う手紙。それを問いたいのは自分だ、ふと思う。思った瞬間首を振る、激しく、何度も。
「おや、エリナード。どうしたの」
 物思いに耽りながらも足は着実に迷路のような星花宮を進んでいた。たどり着いた先は倉庫番の元。正しい官職は他にあるらしいけれど、誰もが彼を倉庫番、と呼ぶ。無論、魔術師でもある。ただの官僚に、星花宮は勤まらない。
「ちょっと欲しいもんがあって。薬草を何種類か」
「いいよ、持って行って」
「いや、私用なんで。許可証、もらえるかな」
 倉庫番がにこりと微笑む。星花宮にある物品は、そのすべてが官物だ。魔術師が自分のために使用すれば横領になる。
「真面目だね、君は」
 さらさらと許可証を書きながら倉庫番が言うのに合わせて、エリンもまた金銭の用意をする。対価を払って購入した、という形にする必要があった。
「俺は兼業だからさ。こういうところはちゃんとしとかねぇと師匠に迷惑がかかる」
 宮廷魔導師団の一員でありながら、王都に店を持っているエリン。横領しようと思えばいくらでもできる環境だからこそ、規則は守ると言う彼に倉庫番が再び微笑んで許可証を寄越した。
「そこが偉いんだよ」
 年長者の風格ある笑みにエリンは肩をすくめる。そのままひらりと手を振ってその場を後にした。行く先は薬草園。手早く何種類もの薬草を摘み取り、準備をする。
 そして自室に戻った。独り立ちした魔術師の自室に許されているもの。小さな工房。店の工房よりまだ小さいそれは、ほとんど薬草師の調合室と大差ない。
「やってるこたぁ一緒だしな」
 摘んだばかりの薬草を思案しつつ調合していく。エリンは薬を作ろうとしていた。傷薬、打撲用の軟膏、ついでに火傷用のものも。
 ある種の魔術師にとっては触媒は欠かせない。だが星花宮の魔導師は、決して触媒に頼るな、と教育される。国王直属の機関でもある宮廷魔導師団。国王の盾ともなるべき魔術師が、万が一の場合に触媒がないから魔法が発動しませんでは話にならない、そう言うことだった。
 だがはじめから触媒なしの魔法を習うわけでもない。子供のうちからここで育っても、星花宮の魔導師として独り立ちできるものはほんの一握り、否、一つまみ。だからこそ、外でも有能な魔術師になれるよう、触媒を使った魔法も習う。
「久しぶりだな」
 触媒とは各種の植物であり鉱物でもある。発動させる魔法によりけりだ。どのような場合にどの触媒を選択するか。それを知るためには植物そのもの、鉱物そのものを学ばなくてはならない。
「ガキのころ以来だ」
 摘まんだ薬草にエリンは目を和ませる。否が応でも叩きこまれる薬草学、鉱物学。星花宮の魔導師になれば必要ないもの。だが薬草の知識だけはいまでも役立つ。
「ちょっと工夫するか……」
 星花宮の魔導師たちは魔術世界の異端。剣を取り、物理攻撃をする魔術師など他にはいない。いてもそれは魔術師としての腕が劣るがゆえに剣に頼っているにすぎない。だが星花宮では違う。そもそも剣からして魔法の産物。
 エリンは身をもってそれを知っている。傭兵向きだ、とかつては思っていた。魔術師が魔法を発動させるための時間が要らない。その時間、一瞬の間を作ってもらうための戦士が要らない。自らの剣で自衛ができる魔術師。
 そうして傭兵になったエリン。いまは王都で店を持つ。そしてまた傭兵と知り合ってしまった自分のことは強いて考えず。
 薬草をすり潰しては時折、舌で確認する。匂いや色も大切。かつて習った傷薬。剣をも取る星花宮の魔導師には必須の薬品。
「改めて考えるとかなり笑えんな」
 あまりにも異常だ。魔術師が傷薬を多用するなど。呆れる人間には言ってやるのだ、打撲の軟膏もたくさんいるぞ、と。
 修行時代のあれこれを思い出す。剣で叩きのめされ、魔法でぐずぐずにされた。それでも必死だった思い出。楽しかったからだと思う。ただ魔法が楽しかった。
 思いはキーリに戻っていく。彼は楽しいだろうか、剣が。戦うことが、その訓練が。楽しいだろうと思う。あの純真な目。ライソンに対する真っ直ぐな憧れの眼差し。
 思わず舌打ちをした。こう言うことを考えないためにこそ、薬づくりに精を出そうと決めたのではないのか、自分は。
「それでも――」
 キーリはどうなのだろう。キーリはどうするのだろう。キーリは。
 巡り巡ってそして結局帰ってくる場所。
「――ライソン」
 呟いた自分の声にぎょっとして、エリンは潰した薬草の入っていた鉢をひっくり返した。再び舌打ち。このようなところを師に見られたら心行くまで罵られるだろう。
 ゆっくりと、正確な手つきが薬草の鉢の上、掲げられていた。一言か二言。呟けば鉢の中に水が滴り落ちる。
「こんなもんか」
 さすがにここしばらく作っていなかった傷薬だ。勘が戻っていない。しかも今、別のことをしようとしている。
「これで、いけるか?」
 普段は滅多に使わない薬草が一種類、エリンの手の中にある。損傷の回復を早める効能のあるもの。だがしかし、あまりにも効果が強すぎる。
「ちょうどいいところで止まりゃいいんだがな」
 傷が治っても、薬のせいで新たな損害が出ては意味がない。きつく引き結ばれるエリンの唇。慎重に、慎重に薬草を加えて行く。そっと練り合わせ、その上で魔法をかける。熟成が速まり、練っただけの薬草が、薬へと変化を遂げる。
「よし」
 発酵の過程でほんのりと熱を持ったそれにエリンは唇をようやくほころばせた。順調にここまでは来ている。あとは試すだけ。
「やるか、しょうがねぇ」
 言葉で自分を後押しし、エリンは自らの手の中から短剣を生む。あの水の剣を小ぶりにしたようなそれ。思い切りよく左の腕に切りつければ流れる血。
「いってぇ。だから嫌なんだよ、もう」
 作ったばかりの新しい薬、効果も定かではないものを他人に使えるはずもない。作ったからには自分の体で試すのが当然というもの。
「危ねぇしな」
 薬で被害を出すわけにはいかない。自分の薬で、ライソンに――。思った瞬間、エリンは思考を止める。できたばかりの薬を傷になすりつければ、後悔すらも飛んでいくほど染みて痛んだ。




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