夢を見ているな、と思う。 在りし日のフィンレイ。竜の宿営地だ、と思う。渋々認めてくれたラグナからもらった二人の部屋。傭兵の営舎にありがちの、狭い寝台。圧し掛かってくるフィンレイの重さが好きだった。確かにここにある自分のものだと思えた。顔の両脇からこぼれ落ちる艶やかな栗色の髪を見ているのが好きだった。 「フィン?」 長い髪を手櫛で梳けば快い。その感覚も好きだった。それなのに、伸ばした手に触れたもの。砂色の、短い髪。 「――悪夢だ」 飛び起き、体中に滲んだ嫌な汗を手でこそげ落とそうとして、果たせない。頭を振っても、思い浮かぶのはフィンレイではない。 確かに、ライソンの体を知ってはいる。物の弾みと誤解で偶然抱かれてしまった。その間違いがあるからなのだろうか、ライソンが自分に執着するのは。 エリンは広い寝台の上、膝を抱える。どう勘違いしたとしても、あの竜の宿営地の寝台とは思えないようなものとして選んだ広さ。隣にライソンがいたこともある寝台。ちらりと今はいない人間を横目で見やり、エリンは抱えた膝に顔を埋める。 年下の友人を連れてきたライソンは、何がしたかったのかわからない。夕方になって、そのまま帰った。 いつもどおりと言えばいつもどおり。他愛ないことを喋って、頃合を見て帰っていく。キーリさえいなければ、いつものとおり。 「なんで――」 他人を連れてきた。そのようなことは初めてで、どう解釈すればいいのか戸惑う。 「諦めたか?」 久しぶりに会うはずだった。会ってみれば、意外と楽しみにしていたのだと、否、待っていたのだと自分で嫌でも気づいてしまう。 「なのに」 待っていたはずの傭兵は、若い友人を連れてきた。含羞み屋ですぐ赤くなるまだ子供のようなキーリ。記憶の中に新しい、ライソンの優しげな眼差しから目をそむける。自分に向けられたものではなかったから。 「あー、もう嫌だ」 憤然と立ち上がり、エリンは店の中を封印して回る。本格的に留守にする決心をした。泥棒に入られて困るようなものはたいして置いてはいないが、さすがに工房に入られるのは困る。それほど危険なものはないけれど万が一、と言うことがある。万が一の機会、それは死で終わる。無論、泥棒側の。 するべきことをしてエリンはもう一度店の中を見回した。帰ってくることがあるのだろうか、ここに。ふとそんな気がして首を振る。 「帰ってくる」 気が向けば。いずれ、いつかは。明日ではなく、明後日でもないいつかは。そしてエリンの姿は店から消えた。 当然にして、彼が出現したのは星花宮。星花宮に籍を置く魔術師ならば、いついかなる時でも出入りは自由だ。もしも無謀にも星花宮に侵入を試みる魔術師がいたとしても四魔導師の結界に阻まれるだけ。だからこそ、星花宮を離れていた期間も師はエリンの籍を残してくれていたのだと気づいている。無論、いまも。 師に挨拶くらいはするかとも思った。だが結局やめてしまった。まだ夜明け前だから、というのでもない。魔術師は時間感覚が常人とは違うもの。フェリクスもあるいは起きているかもしれない。 ただ、顔を見せたくなかった。星花宮に張られている結界の存在を知る人は少ないけれど、魔術師ならば誰でも存在を感知できる。その結界を今、エリンは通った。四魔導師が発動させ維持しているそれだからこそフェリクスはすでに帰還を知っている。それでいいことにしようと思う。 エリンは黙って廊下を歩く。どのような時間でもあまり変わらない星花宮。強いて言えば昼間のほうが多少はうるさい。小さな弟子や、弟子候補の子供たちが訓練をしているせいだった。いまはさすがに夜明け前、とあって子供は起きてはいない。 懐かしい星花宮を歩く。それだけで心が静まっていく気がした。悪夢の残滓が体から拭われ、けれど心にはまだ淀んだまま。 廊下を曲がり、角にあった部屋の扉を覗く。具合のいいことに空室らしい。エリンの口許がほころぶ。 星花宮に数多あるもの、と言えば第一には魔術師たちの私室兼研究室。次に多いのが呪文室だった。エリンは空いている呪文室の前で小さく呟き、手を動かす。 扉の中央に、空白があった。まるで紋章をつけ忘れてしまった、とでも言いたげなそこに、何かが集まって形を成す。 「久しぶりだな」 それは、雪の結晶がそのまま形を損なわずに溶けたならばこうもあろうか、というような水の文様。エリン個人を表す印だった。繊細な水の結晶はエリンの身じろぎにすら揺らめき形を変え、そして元へと戻っていく。 一瞬、エリンの手が文様の上を斜めに横切るよう、赤い線を引こうとする。が、ためらった末、左の角にだけ、斜線を引いた。 呪文室の扉の文様。それは誰が使用中かを示す名札に過ぎない。文様の上を横切る斜線は一切立ち入り無用を、左の角の斜線は師だけは歓迎するという意味。つまるところ、これだけのことが魔法でできない未熟者は一人で呪文室を使ってはならない、という暗黙の了解。 おかげで、魔術師たちは印に意匠を凝らすことにもなる。エリンのものなど単純なほうだった。四魔導師ともなればその派手さは群を抜く。 フェリクスが一人で呪文室を使っているとき、扉の前には粉雪が降り散る。そのくせ床には一片たりとも触れず空に消える。カロルは炎の壁が、リオンは扉自体が消え、星花宮の壁そのものと同じ石積みが現れる。タイラントならば何も変わらず、ただわずかに聞こえる楽の音。聞いた瞬間、回れ右をする。 「あれで――」 魔法の腕を磨け、呪文の精度を上げろ、と発破をかけているのだとエリンは気づいている。星花宮の魔導師を名乗るのならば扉に名前を書くなどと言う無様なことをするな、と。 「懐かしい……」 そう思うほど、離れていたはずではないのに。店を開くまで、ここにいた。傭兵になるまで、師の元にいた。エリンは、自分はここで生まれ、ここで育った。そう思う。故郷へ帰ってきたのか、と思えば小さく笑みが浮かぶ。 黙って扉を抜ければ中は相変わらずの静謐だった。あらゆる呪文を外部に逃さない構造が、これだけの静けさをも生む。 「やるか」 店の工房でできず、ここならばできること。大きな呪文の行使。いまはやる気はないものの、星花宮の呪文室ならば、流星雨の召喚にすら耐える。もっとも、その場合は天井を抜く必要があるのだけれど。 体にへばりついた嫌な汗を新たに流す汗で洗い流してしまおうとでも言うようだった、エリンは。習得したありとあらゆる呪文を行使し、鍛錬をする。藁人形のような形を水で作り上げ、自ら動かし、こちらも作り上げた水の剣で切りかかる。その間にも別の魔法を撃つ。 昼過ぎには、さすがに足腰立たなくなっては呪文室の床に大の字になって寝ころんだ。 「体力削られてんなぁ」 身体的なものではなく、魔術師としての。魔術師として、魔力は体力。魔力そのものは、完全に戻っている。だがその使い方とでも言うべきものの勘所を失っていた。こればかりは使って思い出すよりない。 そう考えていたときだった。突然のことで咄嗟に対応ができない。それもまた、勘を失っているせいかとも思う。体の上に降りかかる大量の水。 「師匠……。せめて水にしてください。氷水は痛ぇ」 否、水ではなく氷混じりのそれがエリンの上に降り注いでいた。確かに疲れた体には快くはあるが、それにしても。 「荒れてるね。どうしたの」 何事もなかったような顔をして肩をすくめるフェリクス。いつの間に入ってきたのだろう。それすら気づかなかった自分に唇を噛む。覗き込んできた師が、たしなめるような光を目に浮かべていた。 「他に言うことねぇんですか」 「おかえり? 言ってもいいけど、練習にきただけでしょ。また店に帰っちゃうのに、おかえりって言うのもね」 「そりゃ、そうですけど……。つか、そっちじゃねぇでしょうが。俺、すげぇ冷たいんですけど?」 「でもおかえり、エリィ。たまには帰っておいでよ。実家に里帰りって言うのも、悪くないんじゃないの」 ちらりとフェリクスが笑う。エリンも力なく笑う。まったく意に介していないフェリクスだった。その場に膝を抱えて座り込む師の懐かしい姿。どうやら帰還の歓迎だった、らしい。悪戯を真顔でする師だったと思い出す。 「俺は嫁に行った娘ですかっての」 「独り立ちした息子だし。似たようなものじゃない?」 「全然違うでしょうが」 諦めて起き上がり、体力をかき集めて魔法を行使する。綺麗に乾いた体を確かめ、髪に指を通せばかすかな湿り気。いい具合に乾いていた。 「そういうところ、器用だよね。あなた」 「褒められたんですか、それ」 「褒めたんだよ」 どうだか、と疑いもあらわな視線を寄越すエリンにフェリクスは微笑んでいた。その笑みに師の心を見る。さあ言えとばかりに凄んでいる師の姿を。 「別に……なんにもねぇですよ」 「本当?」 「ただ、練習しに――」 「ふうん? 練習、ね。別にいいけど、それはそれで。悪いことじゃないし。でも荒れてたよね、エリィ? 僕に感情が隠せるなんて、思ってないよね、エリィ?」 思っていない、と苦笑して手を振った。こうして畳みかけるよう喋る時、師は苛立っているとエリンは知っている。 「……なんつーか。惚れたかどうかもわかりたくねぇのに、我儘言いそうなてめぇが嫌んなった、それだけですよ」 「あの傭兵? さっさと別れなよ」 「まだ付き合ってもねぇですって」 あっさりと切り捨てたフェリクスにエリンは笑う。話してみて気づく。ライソンがどうの、というより、ただ師と話したかっただけのような気がしてきた。 「――あのガキが、ダチだってガキ連れて店に来たんですよ。なんか、すげぇ苛々して。なんかすげぇ、嫌で」 「焼きもち? ふうん。本当にあれがよくなったのかもしれないね、あなた」 「ライソンは、いいやつですよ。師匠が評価しなくってもね。だから、なんか、よけい」 しどろもどろに呟くエリンの姿を、フェリクスは黙って見ていた。それから困ったよう視線を上げる。戻したとき、その目は真摯だった。 「僕はね、エリィ。あなたには幸せになってほしいから、傭兵を恋人に持っては欲しくない。わかる? もっとも、あなたは魔術師だ。いずれ先に逝くことになる人を、それでもいいからそれまで一緒にいたいって思えたなら、それはそう言うことなんだと思うよ。それが誰であれね」 愕然と眼差しを上げた。フェリクスの顔を見つめてしまう。今更気づいた。戦場で散らなくとも、ライソンは、遥かに年下のライソンは、自分より先に逝くと。 |