タイラントの意図がわからなかった。それを言えばフェリクスの意図などわかったためしがない。だからお前は弟子なのだ、と師が笑っている気がした。 あの場でタイラントは笑って手を振って帰ってしまった。てっきり星花宮に連れて帰られると思っていたエリンは拍子抜けする。 そして、立ち止まる。連れて帰ってほしかったのかもしれない。無理矢理、自分が好きで帰ってきたわけではない。そんな言い訳がほしかったのかもしれない。 「馬鹿か、俺は」 ぎゅっと拳を握りしめ、エリンは転移する。自分の店へと。帰る。ただそれが難しかった。 「タイラントの師のせーだ」 子供の口調で呟いて、帰還した店の中を見回す。変わっているはずもない、自分の店。たいして長く開いているわけでもない店なのに、ほっとした。 「冬は、嫌いだ」 ただじっと待つことしかできなくなるから。待たなければならない、それが嫌だった。待っているのかもしれない、そう思う自分が嫌だった。 「タイラント師め」 あのようなことを言われれば、妙に意識してしまうではないか。このまま、この店で、これまでのようにライソンを迎えることができるのだろうか、自分は。ただ遊びに来る、と言ってくれている、自分を慕う若い傭兵を。 「あの馬鹿。あのガキ」 友達。そう言ってくれている。本人は普通にしているつもりだろう。年若い彼としては充分頑張っている、とエリンもそれは認めている。 けれどその若さが目に表れる。時折、胸をつかれるほど切ない目をしたライソン。本人はまるで気づいていない。 「どうしたもんかな……」 ライソンのせいではない。自分が悪い。茶を淹れかけていたエリンの手がはっと止まる。そのまま気づかず、椀から茶があふれた。 「こっちもかよ」 フィンレイが死んだのは、自分が悪い。ライソンをどうにもできないのも、自分が悪い。自分は、こんなにも自罰的な人間だっただろうか。 「師匠に似たか」 小さく笑い、ようやく零れた茶に気づいては舌打ちをする。きれいに片付け、フェリクスを思う。大事にとっておいた師の焼き菓子を口に運べばやはり焦げてかすかに苦い。 「師匠もだよな」 あれで意外とフェリクスは自分を責める。他人には傍若無人の化身のように見られているフェリクスだけれど、エリンは知っている。子供のころ、ほんの小さな事故でも弟子が怪我をすれば自分の目が届かなかった、と唇を噛んだフェリクス。 「フィンのことも」 傭兵になどするのではなかった。外に出て戦いたいと言う希望は知っていたけれど、断固として反対するのだった。彼のほうが体を壊してしまうのではないかと思うくらい、後悔していた師。エリンはそれを知っている。 「嘘なんか、つけねぇもんな」 心の壊れたエリンは、死すら望んで果たせず、フェリクスの精神の中に取り込まれた。健全で頑強な師の精神に包まれて、正気づいたエリンは一番に思ったものだった。 「馬鹿か、師匠は。死ぬぞ」 人間一人の精神体を丸ごと一つ抱えるなど、無茶無謀の誹りを免れ得ない、などというような生ぬるいものではなく、それは単なる自殺願望でしかない気がする。 だがフェリクスはその中で笑って言った。自分がぼろぼろだったとき、カロルが自分にしてくれたことを、いま自分が弟子にする。けっこう嬉しいものだね、と。 「師匠……」 いま思い出しても涙が出そうだった。本当は、自分のほうこそ死んでしまいたいくらい後悔していたフェリクス。それなのに、弟子だけは何があっても正気で生かすと決心していたフェリクス。氷帝などと渾名する人間は、彼の恐怖ばかりを語る。フェリクスの、本当の優しさを何一つ知らないまま。 「師匠も自分で助長してっからな」 あれで意外と照れ屋なのかもしれない。ふとそんなことに今更気づいてエリンはそっと笑った。 ちょうど、よかったのかもしれない。そんな風に気分が変わって数日。ためらったり、師の偉大さを再確認したり、そんな風に過ごしていたのがよかったのかもしれない。 「よ、エリン。久しぶり」 ライソンを待つ、などという奇妙な意識から目をそらすことができていた。エリンはいつもどおり嫌な顔をして店にいる。 「なんだ、本格的に機嫌悪いな?」 が、ライソンはそうは思わなかったらしい。普段とは違うエリン、を彼は見つけたのだろう。それがどうしてか、エリンは気づいている。否定するつもりもなかった。 「別に。寒いのが嫌いなだけだ」 さっさと閉めろ、と手振りで示せば困った顔のライソン。それからわずかばかり振り向いて、何事かを言った気配。 「友達、連れてきたんだけど。いいよな?」 「ここで入れるなって言ったら俺は極悪人だろうが。いいからさっさと入れって言ってんだろ」 「んじゃ、来いよ。キーリ」 ひょい、とライソンの後ろから顔を覗かせた人物に、エリンは怪訝な顔をする羽目になった。いったいどこで知り合ったのだろうかと首をかしげたくなるほど幼い少年だった。 「うちの新兵なんだ。なんか気があってさ。最近よくつるんでる」 無造作に入り込み、ライソンはいつもの場所にあるいつもの椅子に腰を下ろす。ついでにもう一つ椅子を見つけて勝手に客に勧めている。 「新兵?」 そう聞こえてはいたものの、何を言っているのか全く理解ができなかった、エリンは。キーリと呼ばれた少年をまじまじと見やれば、少年はさっと頬を赤らめて含羞んだ。 「おいコラ、坊や。誰が新兵だ。コグサはあれか、春でもねぇのに頭に花でも咲いたか。なに考えてんだ、あの馬鹿は。こんな子供を戦場に連れてくほど人が足んねぇんだったらさっさと隊なんざ解散しちまえ」 「エリンさーん。隊長に文句があるんだったら本人に言って。俺に言うなっての」 「だったら――」 「ちょい待てって」 いまにも魔法で跳んでいきかねないエリンをライソンは和やかな目で見ていた。口の悪いこの魔術師が、意外と言ってはなんだけれどずいぶんと人道的なのをライソンは知っている。 「こいつ、俺とそんなに変わんねぇんですけど? いま十五だっけ、お前?」 キーリに言えば、まだ赤くなったままこくりとうなずく。ひくりと、我知らず額の辺りが痙攣したのをエリンは感じた。この不快感は、いったい何にきざすものだろうかと思いつつ。 「お前が二十歳前だっけか、ライソン」 「うん、十九。な、四つしか違わねぇし」 「馬鹿か、お前ら。俺から見たらどっちもガキだっての。十九も十五もあるか。こっちは五十超えてんだぞ。ガキだ、ガキ」 慣れているライソンとは違い、キーリはさすがに驚いたのだろう、目を白黒とさせている。そんなキーリをライソンが微笑ましげに見ている。 「だいたい、隊長だって今度の夏にすぐ戦場に連れてく気は、ないんじゃないかな。俺の初陣も十六ん時だし」 「それだって早ぇよ」 「嘆願に次ぐ嘆願の成果と言ってほしいね」 ふふん、鼻を鳴らして自慢げなライソン。彼は思わないのだろうか。傭兵たちのその人生で、最も死の危険が高いのは、初陣の時だと。はじめての戦闘さえ乗り越えてしまえば、ある程度は生き残る。エリンは、青き竜という大陸屈指の傭兵隊でそれを実見している。 「で、エリン」 「なんだよ」 「まだ隊長に文句言う?」 「……言わねぇよ」 だったら茶が飲みたい、と屈託なく笑ったライソン。エリンの淹れる茶は旨い、など傍らのキーリに言っていた。 「うちは茶店かっての。商売の邪魔だろうが」 「俺、ここで客に会ったことねぇけど?」 「なに言ってやがる。この前、炎の隼んとこの若いのが短剣のエンチャントにきたぜ」 「へぇ。誰? つか、聞いても知らねぇと思うけど」 「なんだっけな。一緒にいたやつにえらく可愛い名前で呼ばれてて、本人すげぇ嫌な顔してたんだけどよ。――って、客の話だぞ。知り合いだったらともかく、ぺらぺら喋るかっての」 「だよな」 うんうんと一人うなずき、そんなライソンが楽しかったのか、それとも彼の態度にくつろぎはじめているのかキーリが顔をほころばせる。 「ほれ、茶。飲んだら帰れよ」 「ありがと。でも帰んねぇから」 「お前なぁ」 ふと違和感を覚えた、エリンは。いままでも、毎日顔を見ていたわけではない。エリンの店は王都に。狼の宿営地は郊外にある。毎日通うには相当な距離がある。それ以前に、ライソンにも隊の訓練がある。隊の用事がある。遊び歩いているわけにはいかない。だから毎日など、来てはいない。 だが冬になってから、めっきり店には訪れなくなっていた。忙しいのだと思う。それはわかっている。だからこそ、久しぶり、とライソンは笑っていた。それなのに、なぜだろう。これほどまでに当たり前にここにいる。まるで昨日別れたかのように。 「エリン?」 不思議そうにライソンの目が笑う。それから怖い顔してるけど気にするなよ、などとキーリに言う。ちらりと苛立ち、エリンは目をそらす。 なぜだろう。なぜ、当たり前の顔をしていられるのだろう。降臨祭の翌朝、自分が何をしてしまったのか、ライソンは忘れているのだろうか。 「キーリ、ちょっとこっち来い」 戸惑うエリンの前、ライソンが少年の頭を抱え込む。気づかないうちにライソンを睨んでいたエリンの眼前で、彼が微笑んでいた。 「あんたが気にしてることが、俺にはわかる。気にすんなって言っても、気にすんだろ。だから言っとく。俺は、気にしてない。それだけ言っとくからな」 ぎゅっと抱え込んだキーリの頭。ライソンの手は少年の耳を思い切り塞いでいた。 「――離してやれよ、痛そうだぜ」 突然のことに慌てたのか、真っ赤になっているキーリにやはりどことなく苛立ち、エリンは目をそむけた。 茶の替えを淹れに立つ。気にしていないわけがない。それでもそう言ってくれたライソンの心。一拍置いて今、胸に迫った。 |