冬。傭兵隊にとっては別の意味で忙しい季節だった。普通、この時期に戦闘はない。馬の飼葉一つとっても夏場は戦場周辺の草で多少は賄える。だが冬はそうはいかない。当たり前の傭兵隊指揮官ならば、そのあたりも加味した報酬を要求する。だから冬に戦闘はない。 その代わり、寒い季節は新兵の季節だった。戦闘で減ってしまった隊員を補充し、春までに半人前に育て上げ、夏の初陣で一人前まで磨き上げる。 「忙しいだろうな――」 エリンは店でぽつりと呟いた。暁の狼が、少しでも青き竜の流儀を受け継いでいるのならば、この季節、ライソン程度の兵はこの上なく忙しい。 熟練者たちは春まで休暇を取ったり、小遣い稼ぎに隊商の護衛を務めたりする。だがライソンたちは違う。 まだまだ半人前以下の新兵たちの兄貴分となって共に訓練に励んでいることだろう。そこで培った信頼が戦場での実績になる。 「……ラグナ隊長は、そう考えてたよな」 最後の竜の隊長。いまは引退して故郷の町に帰った、と聞く。ラグナは共に汗を流して同じ飯を食って、はじめて一緒に働ける。そう言った。 「コグサも」 当然そう考えているだろう。ラグナの片腕だった男だから。ふ、とエリンの唇が緩み、そして歪む。フィンレイならば、どうしただろう。そんなことを思った。 「だめだな」 後悔したければ好きなだけすればいい。偉そうに言って自ら無理に納得させたものの、ならばどっぷりと落ち込んでいられるのかと問われれば、そうもできない。 エリンは立ちあがり、店の戸締りをしていく。魔法の鑑定屋など開いていても開店休業も同然。閉まっていても文句を言う人間はさほどいない。 ライソンも忙しくしているから、しばらくは来ないだろう。もう、ずいぶんと顔を見ていない。あの降臨祭の宴を最後に、会っていない。 エリンの眼差しが、狼の宿営地と思しき方角を見やる。美味だったライソンの手料理。彼の父の思い出、フィンレイの思い出。楽しかった宴。翌朝の間違いがなければ、いい思い出になったかもしれない。 溜息を一つ。どうにもできなくて、詫びることもできなくて、たとえ謝罪したとしてもライソンが受け入れないとわかっていて。だからエリンは店から跳んだ。 「さむ――」 一面の雪原だった。これほどはっきりと雪景色だとは思ってもいなかったものを。少しは後悔する。が、いまの気分に相応しい、そんな気もした。 秋の終わり、イメルとライソンと三人で来たあの丘。眼下の川の対岸には、フィンレイを殺した砦。これ以上は近づけなくてエリンは眼差しを下げる。 フィンレイに詫びたつもりだった。自分が悪いのに、彼を殺したのは自分なのに。それなのに痛む心を抱え続けるのは間違っている。フィンレイはもう、痛むこともできないのだから。 それなのに足は一歩も進めない。ただ眼下の砦を見下ろすだけ。それでも、少しは進んだのだろうか。あの当時よりは。 「やっと、一人で来れたよ。フィン」 彼は何を言うだろう。馬鹿だと笑うだろう。あの笑い声が、日々思い出せなくなっていきそうで、それがなにより怖かった。 否。もう、思い出せない。本当は、もう覚えていない。笑うフィンレイも、楽しげな彼も、照れる彼も。記憶にはあるのに他人のそれのよう。遠く、思い出せなくなっている。 「ごめん――」 ライソンのせいではない。誰か他の人に会ったからではない。ただ、最期の瞬間のフィンレイがあまりにも強烈過ぎて。 「俺が殺したお前だから。俺がそっちに行ったら、ちょっとはいいか?」 死者に気が紛れるなどということがもしもあるのならば。エリンは一瞬、夢想する。もしもフィンレイが呼ぶのならば、死んでもいいような気がする。 ――馬鹿だな。なに言ってんだ。俺が死んだのは俺の責任。お前が気に病むことじゃねぇだろ、相変わらずの馬鹿だな。 エリンが身をすくめる。あまりにも鮮明に聞こえた声に。幻聴だとは思う。けれどしかし。 「フィン……」 両の拳を握りしめ、エリンは雪の丘に立ち尽くす。その背後から、音が聞こえた。はっとして振り返れば、あの日もたれていた木の根方に人影。至近距離にいて、気づかなかった。 「もう少し、聞く?」 雪のように煌めく銀髪の青年。左右色違いの目だけが雪原の中、鮮やかだった。世界の歌い手、タイラント・カルミナムンディ。木の根元に座り込んだまま、微笑んで見上げてくる彼の眼差し。 「どうして……タイラント師……」 そのまま、座り込みそうだった。愕然としたのかもしれない。たった一人でここに立っているのではないと言う安堵だったのかもしれない。エリンにはわからず、ただ茫然とタイランを見た。 「シェイティからのお願い。そろそろここに来るだろうから、聞かせてやってってね」 「……師匠が」 「うん。だから、もう少し聞く?」 手にした竪琴をわずかに掲げ、タイラントは微笑む。ぎょっとしてエリンは返事もできなかった。聞くとは何をだ。 「もう、わかってると思うけどさ。さっきのあれ、俺の声じゃないからね。君の幻聴でもない」 「フィンの……」 「最後の声、かな。好きな人の遺言だと思って、聞いてあげてもいいと思うよ」 エリンは無言で首を振る。同意でも拒絶でもなかった。ただ、わからない。遺言など、聞ける自分ではないと思う。この手で殺したのだから。反面、恋人の遺言、他に誰が聞くと言うのかとも思う。 ――エリナード。愛してるよ、エリナード。ごめん、すまん。悪いのは俺だ。お前は悪くない。気に病むって、わかってる。 「タイラント師!」 無言のエリンを了承と解釈し、タイラントはそっと歌っていた。世界の歌い手の音色。歌っているのは彼なのに、フィンレイの声が聞こえる。 ――エリナード。 「……なんだよ」 疾うに死んだ男と会話をする愚かしさを笑いはしなかった。笑えなかった。フィンレイの心と、師の愛が嫌というほどこの身を包む。 ――エリナード。 エリンの目から、涙がこぼれて冷たく冷える。会話ですらなかった。会話になるかと思ってしまった一瞬の望み。 ただフィンレイの最後の心。死を前にした最後の瞬間、彼が思ったこと。世界の歌い手が聞かせてくれる、フィンレイの遺言。 ――馬鹿は俺だ。お前のせいじゃない。お前は悪くない。お前のせいじゃない。 何度も繰り返すフィンレイの声。エリンの魔法の直撃を受けたその瞬間ですら、フィンレイはそれだけを考えていたのだと。 ――愛してるよ、エリナード。気に病むお前だってわかってるから。 「わかってんなら、なんであんな馬鹿なことしたんだよ」 ――だから、エリナード。前に進めよ。俺のことなんかお前、忘れらんねぇんだから。 ほんの少し、笑い声を思い出した、そんな気がした。フィンレイの明るい太陽のような声。 ――進めよ、エリナード。 「フィン――!」 本当に、いまのが最後だとわかってしまった。この思念の後、フィンレイは死んだ。魔法に肉体を壊されながら、最後の瞬間までフィンレイは自分に詫びていた。進んでくれと願っていた。ただエリンは立ち尽くす。気づかぬうちに伸ばした腕は、何を掴もうとしたのかも、もうわからない。 「恋人の、最後のお願いだろ。聞いてあげるのも愛情じゃないの、エリナード」 声がして、タイラントの存在を思い出す。拳でぐい、と涙をぬぐい、振り返れば彼はうつむいたまま竪琴を手遊びに爪弾いていた。 「そんなの……」 「俺はね、エリナード。こんな真冬の雪の中に来るのなんて、嫌だよ」 寒いじゃないかとタイラントは不満そうに唇を尖らせる。気温に左右されにくい魔術師がなにを言う。そうは思ったけれど事実、エリンもまた寒かった。 「でもね、シェイティのお願いだから、ここに来た。わかる?」 「連れ合いの頼みだから聞いたってことですか」 「違うよ」 仕方ない子だね、とでも言いたげにタイラントが首を振り、立ち上がる。目は眼下の砦を収め、そして世界を見ていた。 「好きな人のお願いなら、叶えてあげたいじゃないか。わかる? ただ、それだけだよ。俺個人としては、死者の声を聞かせるのはあんまり賛成できない」 「だったら」 「でも君は、シェイティの弟子だろ。君のことをよりよく知ってるのは、俺じゃなくてシェイティだ。シェイティがした選択なら、俺はただ従うよ」 追従ではなく、自分の意志として。間違ったときには引き戻すことのできる腕として。隣に並んだタイラントの仄かな体温を感じるほど、寒かった。タイラントには、フェリクスがいる。フェリクスには、タイラントがいる。完璧な一対というものがこの世にはあるのだと思わせてくれる二人。 「フィンは……」 「うん」 「フィンは、師匠たちみたいに、俺の魂の伴侶ってわけじゃなかったと思いますけどね」 「でも好きだったんでしょ」 負け惜しみのような言いがかりのようなエリンの言葉。タイラントは微笑んでいなすだけ。エリンは黙ってうなずいた。 「君がね、エリナード。もしも前に進む決心をしたんだったら、俺はとても嬉しく思う」 なぜかわかるか、と問うような気配。そのくせ一向にこちらを見ようとはしないタイラント。ありがたくてまた泣けそうだった。 「とても不幸な壊れ方をしてしまったから。だから次こそは幸せになってほしい。そう思うから、進んでほしいと思う」 「……はい」 「でもね、進めとは言わない。なんでかわかる? 君はもう精一杯頑張ってる。ここに一人で来たこと一つとってもそうだ。一生懸命必死に頑張ってる」 温かい手が、背中に触れた。タイラントの手なのに、フェリクスの手のよう。身長も体格も違う二人。それなのにこうまでも似ている気配。 「だから、頑張れとは言わない。君はもう頑張ってる。一つだけ、覚えておくんだよ、エリナード。君の周りにはたくさんの人がいる。シェイティも、俺もいる。カロル様やリオン様もそう。イメルやコグサもいる。いまは、ライソンもいるね?」 支えられているのなど、とっくに知っている。応えられない自分を不甲斐なく思ってもいる。煩わしくも感じている自分を消してしまいたいほどに。タイラントは笑って続けた。 「君の周囲にはたくさんの人がいて、だから君が望んでも中々ね、人間一人きりになんてなれないもんなんだよ」 実体験だ、とタイラントは笑っていた。その笑い声に、なぜかわからない。すとんと、奇妙なほど何かを納得した。 |