冬が満ちはじめていた。カタンへの旅から戻ってすぐはさすがにどう接したものかぎこちなかったものの、もうほとんど元に戻っている。相変わらず店に遊びに来て、他愛ないことを喋って、そして帰っていくライソン。友であるだけ。まるでそう言った自分の言葉を証立てるような律義さだ、とエリンは小さく笑う。もっとも、不満はない。
「よう、エリン」
 今日もまた、だからいつもの訪問だと思っていた。嫌な顔をして迎えるくせ、気にした様子もないライソン。そして嫌でもない自分。本当は、察しているのではないかとエリンは思っている。
「あんたさ、降臨祭。用事ある?」
「は? 用事?」
「だから、降臨祭。星花宮でなんかあったり、神殿の典礼があったりとか、する?」
 かつて遥かな昔、神人がこの世界にご降臨賜ったことを喜び感謝して行われる祭り。冬の陽の、最も短くなった日に行われる祭りが降臨祭だった。シャルマークに大穴が開いていた時代にはほとんど廃れていたらしいけれど、いつごろからかまた復活したのだと聞く。現代では三叉宮に祈る人はおらず、敬虔な信者だけが神殿の典礼に参加する。たいていの人々にとっては冬至の祭りだった。
「星花宮はなんかやるけどなぁ。俺、関係ねぇし」
「なんでだよ?」
 訝しげなライソンは、いつものように揚げ菓子を持ってきていた。普段通りに茶を淹れてやるものの、いい加減エリンとしては飽きがきている。さすがに子供ではないのだから甘い甘い揚げ菓子を頻繁に食べたくはない。
「ガキが喜ぶような食いもん作ったり、宴会やったり? 俺がガキだったころは面白かったけどなぁ」
「いまでも参加すりゃいいじゃん。楽しいんじゃね?」
「馬鹿言うんじゃねぇよ。いま行ったら、俺はガキの面倒見る側だ。冗談じゃねぇ」
 ぞっとして身を震わせるエリンをライソンは笑った。魔術師というものは独立すると弟子を取るものだ、とアランは言うけれど、星花宮では違うのだろうか。
「そんな師匠ばっかごろごろいてどうするよ。適性があるやつだけやりゃいいんだ。俺は向いてねぇ」
 ライソンの疑問にエリンはきっぱり答える。ライソンとしては意外と向いているのではないか、と思う。師というものは、傷がある方がいい。完全無欠の人間など、幼いものを導く役には立たない。かつて父が言っていた言葉を今になって思い出す。
「ふうん。まぁ、いいや。じゃあ、神殿は。行かねぇの?」
「行かねぇよ。別に信仰は持ってねぇし。お前は」
「俺? んー、一応、傭兵だし。マルサド神殿とかエイシャ神殿とか行くやつとかはいるけどなぁ。どうも肌が合わねぇっつーか」
 わからないでもない、とエリンは思った。何事もないから、神々を信仰できるのではないだろうか、人々は。何かがあった自分やライソンは、助けてくれもしなかった神々に純真な祈りを捧げることが難しい。そんな風にも思う。
「んじゃ、あんた。用事はねぇわけね?」
「ねぇよ」
「だったら飯食おうぜ」
「は?」
「飯。晩御飯。降臨祭のご馳走? まぁ、俺が作んだからご馳走になるかどうかはけっこう賭けだけどな」
「お前かよ!?」
 ライソンが、この体格に優れた傭兵が、若き傭兵が、剣を取るこの手が、降臨祭のご馳走ときたか。エリンは呆れ、かえって笑った。なぜかしら、無性に面白くてたまらない。
「笑うなっての。――親父の得意料理があってさ。ちょっと思い出した。あんた、食う?」
 カタンの村を訪れたから。故郷を訪れ、過去と現在を見たライソン。決別などできるはずもない。できない、ということを理解したライソン。
 エリンは笑い続ける目の奥から、若い傭兵を見ていた。目の惑いかもしれない。表情が変わった、そんなことを思う。精悍で、大人になった傭兵の目。一瞬フィンレイの面影がよぎり、強いて振り払う。
「なんだよ、俺は実験台か? しょうがねぇな、食ってやるよ。その代り――まずいもんだったら覚悟しろよな」
「へいへい、覚悟いたしますよ、覚悟ね。あー、怖い怖い」
「お前な!」
 からりと笑ってライソンが立ち上がる。まだ茶も冷めていない。どうしたのか、と思ううち、ライソンが困ったような顔をした。
「ちょっと今日は忙しいんだ。隊の用事でこっちにきただけだから、もう帰んねぇと」
「さっさと帰れよ。別にわざわざ来んなっての」
 顔の前でひらひらと手を振って見せれば、ライソンが笑う。自分でもエリンは思った。まるで顔を隠した仕種だ、と。かつて長く伸ばした前髪で他人の視線を遮っていたように。
 それをライソンは咎めなかった。なにも言わずに笑って帰った。ありがたい。心底からそう思う。あの旅で、イメルは言った。
 ライソンがいてよかったと。そしてエリンにだけ聞こえる心の声でこうも言った。ライソンがお前の救いになると。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
 鼻で笑って何度もエリンは否定する。確かに救いには、なっている。それまでは否定しない。けれどイメルの仄めかしたものは違う。
 フィンレイを忘れろと。忘れなくてもいい。別の恋をすればいいと。そこにライソンがいるだろうと。気に入っているのだから。興味は持っているのだから。
「そんなんじゃねぇっての」
 友人としてある、そう言ってくれたことがどれほどありがたかったか。イメルにはそのあたりがどうにも飲み込めないらしい。
 こればかりは性分か、とエリンは苦笑する。ひとつの恋を失ったからと言って、すぐさま別の誰かに興味を持てるものでもない、少なくとも自分は。そしていまだフィンレイに心を残してもいる。
「フィン――」
 残している、と思う。寄せる思いは変わってはいない、と思う。ただそれが、フィンレイの生前と同じものかどうかは、エリンにはわからなかった。
 後悔と、どうしようもない苦痛がないまぜになった愛情。フィンレイを思うとき、一番に思い出すのはあの日、あの瞬間の彼の目。砦と自分の魔法に挟まれて、死ぬ瞬間に確かに振り返ったように思う彼の目。
「あの、馬鹿――」
 詫びていたのだと思う。馬鹿な男を忘れろと言っていたのだと思う。いまでもまだ彼を思うからこそ、理解はできる。
「そんな簡単に、忘れられるか。馬鹿」
 ライソンに、フィンレイの面影を見ていないかと言えば嘘になる。ライソンに、フィンレイを重ねているのかと問われれば、否定はする。どちらでもあり、どちらでもない。
 そしてライソンは、イメルには理解できないことだろうけれど、それを含めて、そのままでいい、自分は友人としてここにいる。そう言った男だった。
「ガキが生意気、言いやがって」
 いつまで子供でいるのだろう、ライソンは。自分と出逢ってしまったために、背伸びをするのだろうか。友人の力になりたい、そう言って。微笑ましいような、惜しいような気がする。
「よう、エリン」
 降臨祭の朝。予告通りライソンは店にきた。大荷物で、満面の笑み。大人になりたくて背伸びをするのかもしれないとの想像が木端微塵になるほど子供のような顔をしていた。
「お前なぁ」
「なに?」
「早ぇんだよ! こんな時間に来るなら来るって先に言っとけ! 俺はまだ寝てたんだ!」
「え。悪ぃ。全っ然、考えてなかったわ。寝なおす?」
「……いいから入れよ、近所迷惑だっての」
 長い溜息をついてエリンは体を開く。扉の隙間から申し訳なさそうな顔をしてライソンが滑り込んできた。
「台所、借りるぜ。んで、俺がやるから、あんた寝てていいよ」
「人が働いてる隣でぐうすか寝られるか」
「……意外」
 くすりとライソンが笑った。あまり入ったためしのないエリンの居住部分に足を踏み入れたゆえの言葉かとエリンは思う。
「結構、繊細だよな。あんた」
「どう言う意味だコラ」
「そのまんま。変に気ぃ使うなって。勝手に来たんだから、勝手にほっとけって言ってんの」
 冷たい言葉を笑いながら言ったライソンにエリンは瞬く。言葉使いこそ違うものの、師の言葉に似ていた、そんな気がした。
「……まぁいいよ。目は覚めた。別に寝不足ってわけでもねぇし。手伝う。なにすりゃいい?」
 ぼそりと言えば、それ以上は言い募らずライソンが微笑む。それから包丁はどこだだの、鍋を貸せだの忙しい。これでは寝ている暇などないではないか。思ったときにはライソンの気遣いだと悟ってしまう。
「煮るのか?」
 一羽丸々の鶏肉だった。ずいぶん立派な鶏で、中々食べでがありそうだ。その上ライソンはそれを煮る、という。煮ると言うよりはスープ、なのだろうか。たくさん水が入る鍋がいい、と言って幾つか出した鍋から一つを選ぶ。
「結果的に具だくさんのスープになるんだな、これが」
「それ、すげぇ怖いんだけどよ?」
 結果的に、というあたりに非常な不信頼を覚えた。じろりと見やればライソンが片目をつぶって笑う。
「俺より俺の親父を信じろって。旨かったんだぜ」
 言いながら、手早くライソンは鶏に仕事をしていった。裂いた腹の中にこれでもかとばかり具を入れている。
「豆と木の実?」
「干し果物もな。これがないとどういうわけか旨くないんだな」
「なんか甘そうだけどよ?」
 不思議そうなエリンに、それほどでもないと答えるライソン。隣り合って台所に立つ奇妙な感覚。ふと昔を思い出す。
 竜の宿営地で自炊をする人間は多くはなかった。エリンも滅多にやりはしない。たまにするときはフィンレイと一緒だった。手伝っているのか邪魔しているのかわからない彼と。
「――親父がさ、鍛冶場の、もう使ってない方の炉でさ、機嫌がいいと作ってくれたんだ。仕事しながらさ、のんびり煮るんだ」
 詰め物をした鶏の腹を縫い合わせ、ライソンは懐かしそうに微笑む。それからちらりとエリンを見やった。
「降臨祭だからってわけじゃねぇけど。でも、一年に一回くらいは、どっぷり思い出に浸るのもいいと思わねぇ?」
「四六時中してる気がすっけどな」
「どっぷりでもないだろ。それじゃさすがに身が持たねぇよ、お互いにな」
 からりと笑う。友人で充分。そう言ってくれている若い傭兵。それでも思いを寄せられていることは理解している。だからこそ、ライソンはいまのエリンの心を正確に察した。察して微笑んだ。申し訳ないより、嬉しかった。ありがたかった。ライソンの心が。フィンレイのような炎の熱さではなく、ひたひたと肌に寄せる波のぬくもり。エリンは黙って手伝った。




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