いつの間にかに頬を濡らす涙。恥ずかしいとはライソンは思わなかった。歌が途切れたときにようやく少しだけ、ばつが悪くなる。 「なんかすげぇ懐かしくって。みっともねぇだろ?」 「自分で思ってねぇのに俺に言わせようとすんな」 ぴしりとエリンに言われてしまった。それでも励まされている気がする、ライソンは。じっと見つめれば、それだけで眩しいような気がした。 「ありがとな、エリン」 「なにがだよ?」 「ここまで付き合ってくれて」 「別に?」 どこでもないどこかを見ながら呟くよう言うエリン。普段ならば少しばかり照れているのかとでも思うところ。だが違和感があった。問おうとしたとき、エリンが息をつく。 「――今度は俺に付き合えよ」 うつむいたままそう言い、歩き出そうとするエリンの腕。咄嗟に掴んだのはライソンではなくイメル。睨むよう、友を見ていた。 「エリナード」 「――あのな、ここまで来たんだ。素通りってのも愛想がねぇだろうが」 「でも!」 「お前な、イメル。わかってたから、俺の誘いに乗ったんだろ。違うか?」 「否定は、しにくいね」 ならば黙って付き合ってくれ、とエリンは小さく笑った。それからライソンを見る。自分も同行していいのだろうか。わずかでも悩んだのが馬鹿らしくなるほどエリンは普通だった。それが異常。気づいたライソンは強いて何でもないふりをする。 無言のイメルと黙って歩くエリンの後ろから、ライソンは足を進めていた。同じ喋らないでもこれほど違いがあるものか、と思いつつ。 「そろそろ見えるな」 翌朝だった。静かな夜営で落ち着かないライソンを気遣ってくれたのだろう、イメルが竪琴を奏でてくれたけれど、それすらもよそよそしかった。だからこうしてエリンが着いたと言ってくれることがこんなにもありがたい。 「ん、どこ?」 というより、何、だ。とライソンは内心で思ってはいる。けれど語りたがらないエリン。ならばそっとしておきたい。 「来いよ」 つい、と腕を引かれた。思いもよらないその行為に体勢を崩しかける。口許だけでエリンが笑っていた。まるで素顔をあらわにする前だ、とライソンは思う。あの頃のようなエリンを見ていたくはなかった。けれどどうしたらいいのかまでは、わからない。 「見えるか」 坂を上り切ったそこは、小さな丘だった。眼下には川が見える。小川と言うほど小さくもないが雄大な流れ、というほどでもない。その両岸に、武骨な砦があった。 「せっかくきれいなのになぁ。もったいねぇと思わね?」 「お前な。傭兵がそれ言うか? 飯の種だろ」 「でもいい景色だろ。そう思うことまでは忘れたくねぇよ、俺」 「……だな」 まるでエリンを支えようとするかに、イメルが彼の背後に立っていた。それを仕種で拒み、エリンは傍らの木にもたれた。 「かれこれ六年か……」 「エリナード。よせ」 「今更だろ?」 イメルの剣幕。流れた歳月。ライソンにもわかった。あの砦が。いまはうらうらと陽の照る武骨だけどどこにでもある辺境の砦なのに。 「六年前、青き竜はこっちから見たら対岸のあの砦の前、布陣してた」 エリンは言う。川が領地の境だったのだ、と。よくあることだったからライソンも疑いはしない。実際、ここは自分が幼いころに住んでいた故郷だ。カタンから一日足らずの土地のこと、当時は来たことがなかったとしても知らないわけでもなかった。 「こっちの、つまりお前の土地の領主があんまり出来がよくなくてな。それにつけ込む方もどうかと思うが……。結局それで戦いになった」 「あれかー。近隣の悪徳領主を打ち滅ぼし領民を救う!ってやつ?」 「それだ、それ。よくあるだろ?」 「あり過ぎで笑えるな。一々大義名分が大袈裟なんだよ、領主どもは」 「大袈裟にすることで食ってるんだ、あいつらは。まぁ、お題目はなんでもいいんだ、とりあえず、俺たちの力もあって、ほとんど砦は落ちる寸前――」 そこに功を逸ったフィンレイが飛び込んだ。ライソンはエリンが口にする前にその腕を掴む。ちらりと見やってきた視線がほんのりと感謝を浮かべていた。 「……フィンが死んだのは、俺が殺したのは、あの砦だ」 墓参り、のつもりだろうか。あるいは自分がカタンを訪れたことでエリンはここまで来る気になったのだろうか。イメルが唇を噛んでいるのがライソンの目に映った。 「フィンが死んだ直後、俺は正気を失くしたからな、詳細は知らねぇよ。でも勝ったのは、知ってる。つか、聞いた」 「青き竜が負けたって言ったらすげぇ話題になるだろうしなぁ」 「そうでもないぜ? 俺たちだって負けることはあったさ」 肩をすくめ、けれどエリンの目は、木にもたれたまま対岸の砦を見つめていた。彼の目は、何を見ているのだろう。ライソンは思う。 かつてあった日々か。それとも失ってしまった時間か。できればその思い出が美しいことをライソンは願う。あるいは、早く消えてくれることを。 「俺たちは、竜は――勝っちまったんだよな」 ぽつりと、エリンが呟いた。一瞬だけ、ライソンを見る。そして砦へと眼差しを戻した。なぜかぞくりとしてライソンはエリンの側に寄る。いまならば、嫌がらないかもしれない。それでも手を取ることはできなかった。寒そうな手をしていたのに。 「なぁ、ライソン。お前も傭兵だ。わかるだろ? 竜は向こうの領主に雇われてた。こっちの領主も別の傭兵隊を雇ってた」 「まぁ、普通?」 「だな。だったら、負けた側の傭兵隊がなにしでかすか、わかるだろ」 青き竜ほどの高名な傭兵隊でないのならば。評判を気にするほど名声がないのならば。あるいは傭兵ですらなく、砦の兵であったとしても。 「――周りの村を襲うんだよ、そう言う輩はな」 「エリナード、もうよせ。君は言わなくていいことを言ってる」 「言うべきこと、の間違いだろ、イメル。――ライソン。お前の故郷を襲ったのは、そういうやつらだったかもしれない。確証はない。それ以前から出没してた盗賊かもしれない。砦の兵かもしれない。傭兵かもしれない。竜だけは違う。俺にはそれしか言えねぇ」 前を向いたままだった、エリンは。じっと見つめるものが過去だと、過去でしかないとライソンは悟る。あの日、もしも完勝していたら。フィンレイが死ななかったら。竜が戦場を完全掌握していたら。――カタンの村は滅ばなかったかもしれない。ライソンの家族は殺されなかったかもしれない。 「エリン」 「なんだよ」 「そんなこと言うために、俺をここまで連れてきたのかよ?」 「そんなことってなぁ」 「昔の、もう済んだことだろ。俺の家族が殺されたのはエリンのせいか? 違うだろ。もし砦の兵だったとしたって、こっちの傭兵隊だったとしたって、エリンのせいじゃない」 「でも――」 「エリン。あんたは言った。俺の家族が死んだのは、俺のせいじゃないって、あんたは言った。それでも後悔するならしてたっていいって言ってくれた。――だから俺は、俺のせいじゃないってわかった上で、悔やんでられる」 失くしてしまったもの。もしもこうだったら、あのときこうしていたら。夢想できる。痛い行為だ、それは。心をかきむしられる思い出でもある。それでも、苦いばかりにしていなくてもいい。エリンはそう言った。 「俺の家族が死んだのは、あんたのせいじゃない。そうだったとしても、あんたのせいじゃない。あんたが手にかけたわけじゃない」 「フィンと違ってな」 イメルに睨まれた。言葉の選び方がまずかったのはライソンもわかっている。ならばどう言えばよかったのか教えてほしい。 「……隊長に、聞いたことがあるんだけど。カルミナムンディって、世界の声を聞くんだよな、イメル? だったら、死んだやつの声とかも聞けたり、する?」 「さぁね。師匠にそんなこと尋ねる気にはなれないな」 そっけなく言われた。ライソンはそれで答えをもらったようなものだと思う。タイラントは聞くことができるのだろうと。 「エリン――」 「タイラント師に聞いてもらえって? フィンの最後の声を? あいつがなに思って死んだか、聞いてもらえって? 俺のせいじゃないって言ってもらえって?」 「だって」 「あのな、ライソン。俺も馬鹿じゃねぇ。少なくとも、フィンほど馬鹿じゃねぇんだよ。あいつが最後になに考えたかわかんねぇわけねぇだろうが」 ちらりとライソンを見やり、そしてエリンは視線を砦に戻す。感情の零れない目だとライソンは思う。泣くこともできなかった、あの日の自分を思い出す。 「すまん、エリナード。馬鹿だった。お前のせいじゃない。俺が悪い。気にすんな。勝手に死んだ男のことなんかさっさと忘れて前に進めよ――てめぇの男だぞ。それくらい、わかってる」 それでも、忘れられるはずはない。この手で殺した愛した人。馬上でひるがえる艶やかな髪が見えた気がした。 「……わかってんなら、いいじゃん」 「ライソン?」 「あんた、言っただろうが。好きなだけ後悔しろって、俺に言っただろ。だったらそれでいいじゃん。いつか気が変わるかもしれない。変わんないかもしれない。それでもとりあえず生きてる。生きてく。それでいいんだろ? 傷口知ってるやつに、たまに喋りたくなったら俺がいる。あんたがいる。それが友達ってもんだろ?」 エリンは黙って答えなかった。答えないことこそが、返事だった。ライソンはほんのりと微笑む。それを目にエリンが振り返る。 「弾いてくれるか、イメル」 フィンレイに挽歌を。彼の死を悼む歌を。よもやエリンからそのような言葉を聞くとも思ってもいなかったイメルが目を瞬く。それから莞爾と微笑み竪琴を爪弾く。カタンの村でライソンに聞かせたのとは違う、景色も思い出もない歌だった。ひたすらに涼やかで透明な。フィンレイに寄せるエリンの思い。 気づいてライソンは苦くなる。砦を見つめ、内心に呟く。いい加減、エリンを解放してくれと。 |