ライソンには懸念があった。エリンの様子がおかしい。それほど長くも深くもない付き合いだ。それでもどことなく感じるものがある。 イメルとは笑って喋ってもいるし、自分の相手も厭わずにしてくれている。それでも何かが変だ、とライソンは思う。心ここにあらずと言うべきか、上の空と言うべきか。日を追って酷くなっていっている、そんな気がして仕方ない。それなのにイメルはまったく気づいていないらしい。 「――イメルさん」 「まだそう呼ぶわけ? イメルでいいって言ってるのになぁ」 「まぁ、なんつーか」 「エリナードのことは普通に呼んでるのに。なんか他人行儀だよな?」 そう思わないか、とにやりと笑われてしまった。毎日一度はこんな会話をしている。それすらエリンは気づいていない気がした。ライソンはちらりと辺りを窺う。また賭けに負けたのかエリンは水汲みに行っていた。そのうち追いついてくるだろう。 「エリンのことなんすけど――」 言った途端だった。イメルの気配が変化する。ライソンは自分の至らなさに頭を殴りつけたくなった。イメルが、エリンの親友とも言うべき男が、気づいていないはずなどあるわけがない。気づいていて、知らないふりをし続けている、イメルは。たぶんそれは、エリンのため。 「気がついてたんだ、君も」 「まぁ……」 「だったら、もうわかるよな?」 放っておいてやってくれ。いまはそっとしておいてくれ。いずれ、そのような言葉だろう。ライソンは黙ってうなずくよりない。とぼとぼと歩くうち、エリンが戻るだろう。 「ライソン」 小さいけれど厳しい声。イメルのそれにライソンは背筋を伸ばす。自分がそんな風にしていたらエリンの負担になる。 好きだから、友人になりたい。いまはそれで充分。フィンレイが思い出になったらその時に、改めて答えを聞かせてくれればそれでいい。 そう言っている自分がエリンの悩みの種になってしまっては意味がない。 「君は、いいやつだな」 「んなこたぁねーです。馬鹿なガキですよ、俺は」 「そうかな?」 ちらりと笑われた。そう思ってはいるよ、とでも言うように。けれどそれだけではないと認めるように。ほんのりとライソンの頬が赤らんだ。 「遅いよー、エリナード。喉からからなんですけどー」 「だったら自分で行けってーの」 「負けたの君じゃん」 ふふん、と鼻で笑って、戻ったエリンの手から水袋を奪い取り、イメルは実に旨そうに水を飲んだ。旅に出る以前のエリンならばそのことに対してまだ一くさり、何かを言っただろう。だいたい本人が言っていたではないか、自分は水系の使い手だ、と。わざわざ水汲みに行く素直さがまず異常だった。 けれど今は。肩をすくめて歩き出すばかり。生気がないわけではない。無口になっているわけでもない。 わけがわからなかった。ただ、イメルが言うのならば見守ろうと思う。それしかできないから、ではなく自分の意志としてそうしようと思う。それが友人としてあるべき姿だと思うから。エリンが手を必要とした時すぐに伸ばせるように。 頼りなくも見えるエリン、というものが不安だった。もう横に戻ったイメルがなにくれとなく彼と喋っている。応対する態度も自然なもの。それが不自然だとは、彼本人だけが気づいていない。 思えば旅のこともそうだった。今更ながらライソンは気づく。エリンは言った、貞操が危ないからイメルに同行してほしい、と。冗談であったとしても、不思議な言葉。 ライソンはエリンに信用されていないとは微塵も思っていなかった。最低限、そこだけは信じてくれていると思っている。まかり間違ってもエリンを押し倒したりはしない。 それなのに、あの時エリンはそう茶化した。まるでイメルにこそ、側にいてほしいと願うように。自分ではだめか、とはライソンもさすがに思えない。いまはまだ。 「おい、坊主。道どっちだ?」 「え。あぁ、ごめん。こっち」 「道知ってんのはお前なんだからよ。さっさと案内しろよな」 「だから悪いって!」 悲鳴を上げてライソンは先に立つ。すれ違いざま、イメルが片目をつぶってくれた気がした。励まされたのか、それとも慰められたのか。付き合いが浅すぎてわからない。 ライソンが選んだ道は次第に細くなっていった。分かれ道を逆に進めば太くなる。あちらはこの近隣では一番の町、アーレットに続く道。 「ライソン、なんてところに行くんだっけ?」 エリンの代わりに尋ねるよ、と言いたげなイメルの声。ライソンは気づかなかったふりをして小さく笑って振り返る。 「レノアの村っす。この辺で一番鍛冶が盛んな村って言ったらやっぱレノアだよなぁ」 「知らねーし」 「だから案内してるし?」 エリンの憎まれ口をあっさりいなしライソンは歩き続ける。もうすぐレノアの村が見えてくることだろう。 「おー、すげー久しぶり」 村は変わっていなかった。たった五年かそこらだ、変わるわけもない辺境の村。どことなく懐かしくなって伸びをすれば、すぐさま旅人だと見つけられてしまったのだろう、子供たちに遠巻きに眺められていた。 「よう、ポーカのおっさん、元気かい?」 子供たちに声をかければ逃げられた。背中でイメルがくすくすと笑う。 「君の顔が怖いかな?」 「うっせーですよ。俺が怖いんじゃなくて客が珍しいんですよ、こんな村じゃ」 「――こんな村で悪かったな」 振り返りざまライソンは身を縮めている。すぐそこに村人が立っていた。どうやら声を聞かれてしまったようだ。 「いや、すんません。あの、俺のこと覚えてませんかね。カタンに住んでたんですけど。グンドの息子です」 「グンドの……?」 訝しげな顔をしていた男がまじまじとライソンを見る。それからはっとしたよう彼の肩を掴んだ。傭兵のライソンが顔を顰めるほどの強さで。 「お前、ライソンか!? 生きてたのか、え!?」 「とりあえず生きてたんで、こうやってここにいるわけで。っつーか、痛ぇよ、おっさん!」 華やかで楽しげな悲鳴だった。エリンはじっとそれを見ていた。イメルにそんな自分を見られているのも自覚はしている。 「いいね、生きてるって感じで」 「知った風な口きくんじゃねぇよ」 「ごめん」 「詫びんな。俺がいじめてるみてぇだろ」 再びごめん、と呟いてイメルは笑う。まるで自分の分まで笑って楽しく生きる、と決めているようなイメル。そうしてくれることがどれほど救いになっているか、この友はたぶん気づいている。エリンは黙って目を閉じた。 「エリン、イメル。行くよ、ポーカのおっさんとこ、すぐそこだわ」 「あのな、坊主。そのポーカさんって人が何もんなんだか俺は知らねぇんだがよ?」 「エリーン。俺がここに何しに来たと思ってんのー。武器買いにきたのよー?」 からからと笑ってライソンは先に進んでしまった。これではついて行くよりないね、そんなことをイメルが呟く。 「俺は――」 何をやっているのだろう。呟こうとした言葉はイメルの笑い声に遮られた。 「エリナード」 「なんだよ?」 「お前が素顔に戻るまで、五年かかったんだろ。急ぐこと、ないんじゃないか」 「……なに言ってんだかわかんねぇよ」 「そりゃ失礼」 くすりと笑ってイメルがライソンの背を追った。つられるようにしてエリンもまた彼らの後を追う。遠くて近い背中が、昔見ていたものに重なるようで重ならない。溜息まじり、エリンは空を仰ぐ。何事もなく晴れていた。嘘のように。 「んじゃさ、おっさん。頼むよ。もう少し取引の量を増やせるようだったらうちの隊長連れてくるからさ」 どうやら商売のほうはつつがなく済んだらしい。魔術師であるエリンとイメルは金属の武器には縁がない。見てもさほど面白いとは思わない。 「それにしてもなぁ。あのライソンか……」 「おうよ」 「グンドの倅がなぁ」 ポーカは村一番の、つまりおそらくラクルーサで今一番の鍛冶屋だった。名工ではない。芸術品を作るわけでもない。貴族とは縁のない武器を彼は作る。だからこそ、傭兵には相応しい。ライソンが旧知であったおかげでとんとん拍子に話がついた。 「……ライソン。達者にしていたのか」 聞き耳を立てていたわけではないが、このポーカはライソンの亡き父、グンドと腕を競い合った仲らしい。だからライソンがその腕のほどを知っていたわけだ、とエリンは思う。 「おうさ、元気に決まってんだろー」 からからと笑うライソンの声にイメルがそっと顔を顰めた。彼の吟遊詩人の耳はそこに嘘を聞いたのだろう。エリンは思うけれど、そんなことをしなくとも彼の嘘には気づいている。イメルに教えてもらうまでもなかった。 「よかったなぁ。本当にな……。お前ひとりでも助かって、グンドは喜んでるはずさ」 「まぁ、たぶんね」 「あの日、村を離れてたお前は運がよかったんだ、ライソン。だからこうやって生きてる。グンドの導きだと思えよ、忘れないであいつの分まで生きろよ」 「わかってるって!」 楽しく答えるライソンの代わり、エリンは拳を握る。ポーカは善意だ。言葉に嘘もない。そんなことはエリンにもわかる。 けれどしかし。善意ならば何を言ってもいいのだろうか。嘘でないなら何を言ってもいいのだろうか。たった一人、生き残ってしまったライソン。ポーカとの問わず語りで彼は言ったではないか。あの日、父に叱られ一人、森の中で癇癪を爆発させていたのだと。だから、生き残ってしまったライソン。父に謝ることもできずに。 「終わったなら、行こうぜ。用事が立て込んでやがる」 「あいよ、エリン」 立ち上がったエリンにポーカは不審そうな顔を隠さなかった。その彼に向かってライソンは愛想よく手を振っている。つらそうな笑顔だ。ライソンの横顔にエリンは思う。 |