茶を飲みながら、いつ発つのか、と尋ねたエリンは冷たい目でライソンを見やる羽目になった。
「いや、だってさー」
「だってもクソもあるか。話し持ってきた今日の今日で出発? なに考えてんだ、お前は」
「だから、断られたくないだろ、やっぱ」
 にんまりとして言うから、この場で断ってやろうと思うのだ、とエリンは内心で思う。だが口にできない自分がいた。なぜか、わからないけれど。
「――ったくよ。俺に用事がなかったからいいようなものの。仕事抱えてたらどうするつもりだったんだかな」
「エリン、病み上がりだろ。病み上がりって言うか、星花宮から帰ってきたばっかだろ」
 だから仕事など持っているはずはない、とライソンは屈託なく言った。それはそれで腹が立つ言い分ではあるが事実でもある。
「ちょっと用意するから――」
 待っていろ。魔術師の旅支度など簡単なものだから。言いかけたエリンが店の入り口を見やった。つられるようライソンもそちらを見る。まるでその間を狙っていたかのよう、扉が開いた。
「よう! 帰ってきたって聞いて駆けつけてきた!」
「お前! お前こそ、いつ帰ってきたんだよ、え!? 今度はどこ行ってた。長旅だったな!」
 ぱっとエリンの表情が明るくなるのにライソンは驚く。新たな客は長い髪を一つに束ねた、身なりのいい細身の男だった。艶やかで丁寧に梳られているのが見るだけでもよくわかる。そしてその手にある楽器。
「吟遊詩人?」
 エリンに吟遊詩人の知人がいる、というのがどことなく不思議だった。音楽を聞いてうっとりとする彼、というものが想像しにくいせいかもしれない。輝くエリンの表情に、ライソンは目を当てたままだった。
「それにな、帰ってきたもなにも。俺はずっとこの店にいたぜ?」
 くすりと笑うエリンに吟遊詩人が肩をすくめる。それからつい、と手を伸ばしてはエリンの金の髪をひと房摘まむ。
「帰ってきた、俺の友達が。わかるだろ、意味は」
 ほんの少し前まで黒髪黒目だったエリン。ライソンが出会ったのはそんな彼。ならばこの吟遊詩人は以前からエリンの素顔を知っていた一人なのか。ふ、と胸が痛んだ。
「まぁな……。色々――」
「よせよ、エリナード。友達の間で礼も何もないだろ? どうしてもって言うなら、面白い話でも聞かせてくれ。歌にするから」
「生憎だったな。そっちはなんにもねぇよ。で、どこ行ってたんだ?」
「だいたいミルテシアをぐるっと。けっこう面白い歌も仕入れてきたよ。師匠の歌が変化して伝わってるのも聞いてきた」
「そりゃ面白そうだ、報告したのかよ?」
「してきたから俺はここにいるんだって。師匠がお前のところに行けってさ。楽しそうな顔してたから飛んできた」
 思い出し笑いをする吟遊詩人にライソンは黙ったままだった。ようやく先客がいる、と気づいたのだろう吟遊詩人が困ったように肩をすくめた。
「エリナード、悪い。お客さんだったか?」
「客ってのは買い物するやつのことを言うんだ。これは遊びに来てるだけ」
「……お前に遊び相手がいるのか。驚いたよ」
「真顔で驚くな!」
 笑うエリンがいた。自分の知らないエリンがいた。彼が素顔に戻った戦場で言った言葉が蘇る。どんな彼であってもエリンはエリン。そう言ったはずなのに。
「おい小僧。なに辛気臭い面さらしてんだよ?」
「いや、別に……」
「思うところがあるなら言っとけ。俺も師匠同様気は短ぇぞ」
 にやりとするエリンの横で吟遊詩人が、あれは短いなんて言う問題じゃない、とぼそりと呟く。それにライソンは驚いた。この吟遊詩人は氷帝を知っているのか。
「まぁいいや。一応、紹介してやる。これは俺のダチのイメル。イメル・アイフェイオン。タイラント師の弟子だよ」
「魔術師!?」
 突拍子もない声を上げたライソンにエリンのみならずイメルと呼ばれた吟遊詩人、否、魔術師まで顔を顰める。多分に笑みが含まれてはいたけれど。
「ほぼ同期だよな、お前とは」
「だな。一緒に師匠たちにしごかれた仲だよ」
「いやな仲だよなぁ」
 まったくだ、とうなずくイメルにエリンは笑っていた。ライソンにも、少しだけ気持ちがわかる。共に鍛錬に励む仲間はそれこそかけがえのないもの。まして同じ時期に訓練をはじめたならばよけいに。
「そうだ、イメル。お前、忙しいか?」
「いや、帰ってきたばっかりだし。別にこれと言って用事もないけど?」
「だよな。ほとんど帰って師匠に報告してすぐ俺んとこに飛んできたってなりしてるもんな」
「もう少し喜べよ?」
「誰が?」
 同期同士の軽口にライソンは目をそらす。いつになくエリンが生き生きとしていた。それをイメルもまた喜んでいた。それが言われなくともわかってしまう。
「で、だ。用事がないなら俺に付き合え。これからちょっと出かけるんだ」
 どこへだ、と訝しそうな顔をするイメルにエリンは旅の目的と場所を簡単に伝える。それでさらに訝しい顔をされた。
「あぁ、そうだった。これ、傭兵」
 顎先でライソンを示した途端、イメルの顔が厳しいものになった。その眼差しを受け、ライソンは怯まなかった。その場で目をそらしたりすれば、自分は決してこのエリンの友人に認められることはない。本能とも言える鋭さでそれを感じた。イメルもまた、その眼差しに対して真摯だった。
「暁の狼のライソン。竜のコグサが作った隊、あるだろ。あそこの騎兵だ」
 思わずライソンはエリンを見てしまった。きちんと騎兵、と呼んでくれたのは決して認めてくれているからではない。それはわかっていてもただ嬉しくなってしまう。そのあたりが子供なのだと苦笑すれば何か文句があるのか、とばかりの目で見つめ返され、ライソンは慌てて笑って誤魔化した。
「お前……エリナード」
「――ようやくな、少し。だから、付き合えよ」
「あぁ、わかった」
 イメルが同意するに至って、ライソンは落胆を顔に出さないよう必死だった。せっかくの、と言ってはなんだけれど、エリンとの二人旅。もし一緒に行ってくれたらどんな話をしよう。こんなことを言おうかあんなことを言おうか。楽しみにしていたものを。
「残念だったな、坊主?」
「おい、エリナード?」
「なぁ、イメル。俺は色々心配事もあるけどな。目下最大の懸念は貞操だ」
 言った本人だけが真面目な顔をしていた。イメルが頭を抱え、ライソンが真っ赤になる。あわあわと口を開け閉めする若い傭兵にイメルは目を留め、同情にあふれた眼差しを投げた。
「言っちゃなんだけど、君も趣味が悪い」
「いや、俺は!」
「イメル。やめろ。それだと褒めてるようにしか聞こえねぇ!」
 意味がわからずライソンはきょとんとエリンを見た。小さな溜息まじり、エリンがライソンに肩をすくめる。それを見てはイメルがにやりとしている。話す気はない、ということだと思った、ライソンは。だが。
「うちの師匠は、自分の師匠に男の趣味が悪いって言い続けててな」
「エリナード。説明してやるつもりだったらちゃんとしなよ」
「だからー。うちの師匠――」
「氷帝?」
 最低限、ライソンにもそれはわかっている。口を挟んで首をかしげればエリンがうなずく。
「氷帝フェリクスの師匠が、黒衣の魔導師、メロール・カロリナ、通称カロル。で、カロル師の男ってのはリオン師な?」
「それは理解した。で?」
「だから!」
 焦れたエリンが声を荒らげる。その向こうでイメルがくすくすと笑う。それからちらりとライソンを見やって微笑んで言葉を加えた。
「フェリクス師はカロル師に男の趣味が悪いって言い続けてる。カロル師もフェリクス師の男は最低だって言い続けてる。要は二人して自分の伴侶のほうが素晴らしいって言ってるんだよ、わかる?」
「あ――」
 言葉面だけで取っていては永遠に理解などできないもの。惚気と言うよりなお甘く、信頼と言うより太い絆がそこにある。信じがたい思いでライソンは二人の魔術師を見ていた。
「だから俺が君の趣味が悪いね、なんて言うとエリナードには妙な風に聞こえるってわけ。わかった?」
 星花宮の身内の冗談なんだ、とイメルは笑う。それからわかりにくいことを二人で話してしまってごめんね、とも言う。目を瞬いてライソンはただ首を振っていた。
「ったく。で、俺はこいつに惚れられてて、長旅になると若い坊やの血が騒ぎゃしねぇかと心配なわけ。だからイメル。付き合えよ」
「あいよ。君の邪魔はしないようにするけど、最悪の場合は介入するからね、よろしく。ライソン」
「いや、だから! 俺はエリンの友達になりたいんであって! とりあえずそんな気起こすつもりは当面なくって!」
「当面ってところが怖いよねぇ」
「だろ。俺としてもそこんとこが心配でなぁ」
 にやにやとする二人の魔術師に気力が根こそぎ奪われ、けれど気がついたらライソンは大きく笑っていた。なぜとなく、仲間に加えてもらえたような、そんな気がした。
「じゃあちょっと待ってろよ。用意してくっからな」
 ひらりと手を振ってエリンが裏に下がろうとする。ついでにその間に何か弾いてやれば、などとも言う。イメルは笑ってうなずき、少しだけ意地悪そうに口を開く。
「なに、まだ用意もしてないわけ? そんなとろとろした弟子を持ったつもりはないんだけど。さっさとしなよ、馬鹿。――ってフェリクス師だったら言うよな?」
 声色まで使った素晴らしい模写だった。それなのにライソンはぞっとした。あまりにも真に迫っていたせい。それだからこそ、だったのだけれど。
「なに馬鹿なこと言ってんだよ? うちの師匠がそんな生ぬるい罵言を吐くわけないだろうが」
「お前も結構だと思うけど?」
「俺なんか師匠に比べたらまだまだだ。あの域には到底至れねぇ。つか、至りたくねぇ。こればっかりはな」
 至らないでほしい。ライソンは思う。が、口には出せなかった。楽しそうに笑っているエリンがいるせい。もう一人の魔術師も他愛ない冗談だとばかりに声を上げて笑っていた。




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