炎の隼は大きな傭兵隊の中では珍しく後援者を持たない隊だった。地位は不安定だが身は軽い。いまの狼にはちょうどいい同盟相手になるだろう。それをすぐさま思いつくコグサにエリンはほっとする。彼は彼なりにきちんと隊の行く末を考えていた、そのことになにより安堵していた。自分が出しゃばる必要もなかったか、苦笑が浮かび、だが自分のもたらした情報がコグサの背を押したと思えば早くに伝えてよかったとも思う。 「ったく、手間のかかる野郎だぜ」 呟いてみて、けれど口許が緩んでいるのを感じてしまう。共に戦場を駆けたあの頃。楽しいばかりでは当然なかった。戦友を失ってもいる。けれどあの日々はいまにして輝いていると思う。 そう思えた自分の変わりようにエリンは苦笑する。別にライソンのせいではない。たぶん、狼の危機に駆けつけてくれた師のおかげ。とりあえずそう言うことにしておこう、エリンは思い込む。その首がかしげられた。 エリンはすでに店に戻っている。宿営地から何も星花宮に戻ることもない。一応は宮廷魔導師団に籍を置いているとはいえ、ほとんど名ばかりだ。いずれは星花宮に戻るつもりではあるけれど、いまはまだ市井に暮らしたい。もっとも、戻る気になっただけ立ち直ったのだろうとも感じる。このまま市井で朽ちて行くのだと思っていたものが。そうと知りつつ星花宮に籍を残してくれた師の心。知らず口許に笑みを刻む。 「なんだ?」 狼半壊から、店は当然開けていなかった。星花宮でしごかれていたのだから当たり前だ。フェリクスがつけてくれる稽古と店を両方こなすのはどう考えても無理だ。その店の外、人の気配がある。 エリンの唇がふっと緩む。魔力が完全に戻ってきている。不安定だった魔力は安定を取り戻し、こんな些細な変化であっても気づくことができる。それを思えばどれほどあやふやで綱渡りのような毎日だったかぞっとするほど。これでは師が常に精神の指先を伸ばして気を使っていてくれたわけだ、と今更ながら納得した。 「誰だよ……ってお前か」 扉を開ければ、ライソンがいた。そんな気はしたんだ、と呟いてエリンは顎をしゃくる。どうせ入れてくれと言うに決まっている。ならばさっさと入れた方が面倒が少ないというもの。 「おぉ。どうよ、あんた? 元気んなった?」 「それは俺の台詞だ。怪我人は俺じゃねぇよ」 「俺だったら完璧。カルミナムンディ、すげーわ。今回はやべぇかもって思ってたのに、あの場で一瞬だもんな」 肩をすくめてライソンは言った。前を歩くエリンの肩がわずかに震えた気がして彼に気づかれないよう唇を噛む。まずいことを言ってしまった自分を殴りたいくらいだった。 「タイラント師は癒し手としても一流だからな。怒らせると怖ぇけどよ」 「そうなの?」 「おうよ。薄皮一枚だけ、切り刻まれた馬鹿とかいるぜ? 血だるまで後始末が大変だっつーの」 あのタイラントをそこまで怒らせた相手とはいったい何をやらかしたのか、とライソンはぞっとする。明るく朗らかな、人生を謳歌している男に見えたものを。 「で、なんの用だよ? もちろん、用事があったから来たんだよな、ライソン?」 にやりとしてわざわざ店の一角にエリンは腰を下ろした。魔術師の店の客だとは間違っても思ってはいなかったけれど。だがやはり、自分の居住区に入れる気にはなれない。 「まぁ、顔見にきたってとこかな。用事っていやぁ、それが用事か」 「おっ前なぁ……!」 あっけらかんと言われてしまっては体中の力がなくなるというもの。エリンは机の上に体ごと顔を伏せる。もうなにを言う気力もない。 「あぁ、あと。これ、土産な。あんた、焼き菓子が好きって言ってただろ」 以前ライソンが買ってきた揚げ菓子に応じるよう、自分が好む菓子、として出した覚えはある。だが別に焼き菓子が好きなわけではない。それにまつわる思い出が懐かしいだけ。――とはエリンは言わなかった。諦めて溜息をついてうなずく。 「茶でも淹れてよ。一緒に食おうぜ」 「傭兵なら酒飲め。甘いもんばっか食ってんじゃねぇよ、ガキが」 「無茶苦茶いうなよ。こんな昼間っから飲めるか。いや、飲むこともあるけどな」 文句を言ってはいるがエリンはおとなしく茶を淹れていた。喉が渇いている、自分がだ。ちらりと背後を窺えば、ライソンが楽しげな顔をして待っていた。これだったら素直に居間に通してしまえばよかった。店先でこれでは客が入ってきたときに示しがつかない。とはいえ、魔術師の店に用事がある人間などそうはいないのだけれど。 「エリン、なんかしてたの。俺、邪魔した?」 「いつも常に普遍的に邪魔だ」 「さすが氷帝の弟子。よくそう言うのぽんぽん出てくるよな」 「師匠だったらこの三倍は罵る。俺なんざ可愛いもんだ。用っつーか、お前んとこ行っていま帰ってきたとこだ」 「なに、宿営地?」 「おうよ」 言いつつライソンの前に茶を置いてやる。我ながらエリンは不思議だった。どことなく居心地が悪いものの、ごく普通にライソンと会話をしている自分が。あの衝撃――でもなかったが――の告白の後、どんな顔をしたものかと思っていたが、こうして見ればまるでなかったかのよう。 「ちょいとコグサに用があってな」 「へぇ。そっか。なんだ、待ってりゃよかった。そしたら向こうで会えたのになぁ」 「俺は別に会いたくねぇよ」 「だったら来てよかったか。追い返すあんたじゃねぇしな」 ふふん、とライソンが笑う。この小僧をどうしてくれようかと思う。人の好さにつけ込まれでもしているかのよう。フェリクスの弟子に人の好さ、などというものがあるとすれば、だが。もっとも、他人がどう見ようが彼の弟子はみな知っている。あれで師はお人好しなのだと。エリンは小さく溜息をつく。 「すげぇよな。魔法で一瞬ってことだろ。どんな感じよ?」 「この前跳んだだろ」 「あれと同じなわけ? あのあと一日中、吐き気がしたんだけど」 「普通はそうなる。さすが坊主、若いね。一日で済んだか」 からかうエリンにライソンが目を細めた。その表情にエリンはぎょっとする。若いと言ったはず。実際に若い。だが、いまこの瞬間、そうは見えなかった。 「エリン」 「なんだよ?」 「もう、顔隠さないんだな、あんた」 ふ、と零れたかのような言葉。エリンは顔をそむける。隠したいのではなく、見られたくない。同じようでいて違う。どこが違うのかは、わからなかったけれど。 「――ここにいる『鑑定士のエリン』が『竜のエリナード』って知れた以上、隠しても意味ねぇしな」 そう言うことなのだろうか。自分でもよくわからなかった。最低限、ご近所は知らないのだから、隠して以前の暮らしに戻ればいい。そうも思うのだけれど。 「前髪も、切ったんだ?」 「邪魔だろうが、それこそよ」 「自分で切んの、あんた? 器用だな」 切られたばかりの前髪をかきあげれば、どことなく落ち着かない。五年もあの視界だったのだから当たり前だとエリンは思う。いい加減に伸びた髪は全体的に綺麗に整えられていた。 「たいていは自分でするけどな。今回はタイラント師だよ。あの人、こういうことすんの好きだし、器用だし」 「へぇ……魔術師がなぁ。魔法で?」 「半分魔法。半分鋏」 笑いながら喋りながら鋏で整えて、切り落とした髪は魔法の風で吹き飛ばしてまとめてしまう。確かに器用なものだった。 「じゃあさ、カルミナムンディが氷帝の髪切ったりするわけか?」 「そりゃそうだ。タイラント師は師匠の彼氏だからな。つか、旦那?」 ただの恋人などではなく、それ以上だと告げるエリンの言葉にライソンは微笑んだ。笑みの意味がわからず混乱するエリンにライソンは言う。 「だったらさ、次は俺に切らせてよ、エリン」 「はぁ?」 「だから、髪。自分でするより綺麗にできるぜ。まぁ、たぶん」 「話の脈絡がわかんねぇよ! なんでそうなるんだ!」 脈絡も何もない。ようやく気づいた。これは、もしかしなくとも口説かれているのか。顔を顰めるエリンの前、まだライソンが笑っていた。 「あんたな、なに勘違いしたかわかんねぇけどっつか、わかっちゃいるけどな、エリン。別に口説いてねぇよ。なぁ、エリン」 「……なんだよ」 「あからさまに警戒すんなって。俺さ、あんたのことやっぱ好きだわ」 「それのどこが口説いてねぇんだよ」 「いまのは俺の感想。んで本題な?」 にやりとする若造に気力を根こそぎ奪われた気がした。先ほどもそう思ったのだからずいぶんと自分は元気になったのかもしれない。まだ奪われる気力があるのだから。そう思っても少しも嬉しくなかった。 「俺さ、あんたのことすげぇ好き。だからさ、ダチになろうぜ、エリン」 「はい?」 「お友達。意味わかる?」 「別に言葉の定義は聞いてねぇよ!」 「そりゃそうだ」 からからと笑う小僧をエリンは力なく睨む。溜息も出なかった。 「あんたのこと好きだから、昔の彼氏が思い出になるまで待とうかなってだけなんだけどな。それまで友達。それでどうよ?」 「どうよも何もあるかよ。――ったく、強引な若造だな、おい」 「目下、第一目標は若造呼ばわりされねぇことかな。精進すっかね」 「お前な――」 「これはダチとして、だからな? ガキのダチなんかいらねぇだろ。俺もあんたを頼るけど、あんたも俺を頼れる。そういうのがダチだろ」 「おい小僧」 「なんだよ?」 「――コグサの入れ知恵だな、それ。お前みたいなガキがなにわかったようなこと言ってんだ」 「いやいや、隊長関係ねぇって。なに、それっぽく聞こえた? まぁ、あんたにしてみりゃ隊長がダチだよなぁ。つーことは、俺は隊長並みの男にならなきゃならねぇわけか。けっこう遠いな」 「シャルマークの北壁並みに遠いだろうが」 「なに、そんな近いの。うし、頑張りがいがあるぜ。ってことで帰るわ。茶、旨かったよ」 軽く片手を上げてライソンが帰っていく。なにをしにきたのか、本当に。奪われた気力が戻らないままエリンはじっとライソンの背を目で追っていた。気づきもせずに。 |