唐突に激しい眩暈と吐き気を感じた。まるでタイラントに癒してもらった体が突如として元に戻ってしまったかのよう。ぐらつくライソンはすぐ側にあったものに縋りつく。
「……おい」
 ぼそりとした声に顔を上げて驚く。その拍子に吐き気などどこかに飛んで行ってしまった。エリンが手を出して支えてくれていた。
「エリン?」
「……まぁ、普通そうなる。別に体調崩したとかじゃねぇから気にすんな」
「え、あ……うん」
 辺りを見回せば、盛大な吐き気の連鎖。傭兵隊のほとんどが地面に膝をついて吐き気をこらえている。あるいは吐いている。耐え切ったのは魔術師たちだけだった。
「これって、魔法?」
「魔法じゃねぇよ。吐かせる魔法なんて気色わりぃもん誰が作るか。転移魔法の副作用ってやつだな。魔法に耐性がないとそうなる」
 先に言ってほしかった、できれば。そうすればエリンに醜態をさらさずに済んだものを。否、確かに言ってはいた。少々吐き気がする、とは。だがこれほどとは思いもしなかったものを。唇を噛んだライソンにエリンはだが気づかなかった。
「師匠!」
 星花宮の四魔導師が何事もなかったかのように話し合っていた。そこからタイラント一人が別れ、竪琴を構える。流れだした音楽に、兵たちの吐き気が収まっていくようだった。
「とりあえず、これで終わりですよね、師匠」
 何はともあれ、暁の狼の潰滅は避けられた。それだけでまずは満足すべき結果、エリンは思う。もしもフェリクスたちが手を貸してくれなかったならば。もしも彼らの元に情報が入らなかったならば。友人を失っていたかもしれない。コグサを。強いてライソンのことは考えなかった。いまはまだ、考えたくない。
「そうだね」
 歩いてきたフェリクスがうなずく。エリンの隣に立ったまま、改めてライソンは星花宮の魔導師を見た。小柄な、華奢とすら言い得る体。傭兵の目から見ればどう間違っても戦闘向きではない、その彼が。
 目に、焼きついていた。エリンとフェリクスの戦闘の様が。人間業ではないとしか言いようのない圧倒的な魔法。凄まじいと言う言葉が無意味に感じられる。
 それでも、怖いとは思わなかった。まるで自分にその力が向けられるとは思いもしないように。じっとエリンの手を見る。恋人の死を選んだエリンの手を。それでもライソンは怖いとは決して思わなかった。
「だったら――」
 ライソンが自分を見ている視線を感じないはずもない。だからこそ、何も考えない。エリンの目はコグサを探す。
「師匠。一応、主力は負傷者だらけですし。俺、残りますよ」
「あー、隊長に聞いてみないとあれだけど。別に平気じゃね?」
「なに言ってんだ、あ? 自分の体の調子もわかんねぇのかよ、大雑把な傭兵だな。あぁ、傭兵ってのはそういうもんだったな、ライソン。あのな、タイラント師が傷を治してくれたってな、お前の心は傷を負ったことを覚えてる。精神的な疲労のほうがずっとでけぇんだよ、小僧。今すぐ戦闘ができるか、馬鹿」
 今ここに、安全な狼の宿営地とはいえ、それでも万が一にも攻撃を受けたら。狼は今度こそ壊滅する。エリンの言葉にライソンが青ざめる。
「馬鹿はあなただよ、エリィ」
「師匠?」
「あのね、コグサほどの男がね、宿営地を無防備にしていくと思うの。竜のラグナはどうだったの、エリィ」
「それは……」
「ここにはまだ戦える兵がいる。――そうだよね、コグサ」
 振り返ったフェリクスの眼差しの先、コグサがいた。まだ充分に青い顔。いまだ眩暈がつらいらしい。さっさと治ってしまったライソンはどことなく申し訳ないような気がした。
「いるに決まってるさ。だからエリン、俺たちは大丈夫だ。お前が心配? やめろ、槍が降るぜ」
「降らせんぞ、てめぇ」
「おう、やってみろ……ってやるなよ? できるのはわかってるからよ」
 からりと笑う隊長の姿にライソンははじめて若さを見た。昔、青き竜にいたころの二人はこのように言葉を叩きつけ合っていたのかもしれない。楽しげに、邪険に。
「お前なぁ……。だいたい、隊長本人が負傷中だろうが。治ってるって言ってもな」
 まだ不満げなエリンにフェリクスが目を向けた。ちらりとそちらを見てエリンは顔を顰める。嫌なことを言われそうだった。
「あなたは星花宮に戻るんだよ」
「はい!?」
「城にって言ったほうが正しいけどね。とにかく僕と一緒に戻るんだ、エリィ」
「そんな! 別に俺なんかいなくったって――」
 抗議するエリンの前、フェリクスの姿がライソンには大きく見えた。はっとするほど鋭い視線。だがライソンは退かない。エリンの隣にいた。いる意味も、ないけれど。
「エリナード・アイフェイオン。あなたは僕に従う義務がある。そうだね? ラクルーサ宮廷魔導師団の主導者の一人として、アイフェイオンの名を持つあなたに命じる。星花宮に帰還しな」
 ぐっと唇を噛むエリン。破ることはできない、自分にとっての隊長命令のようなものなのだろうとライソンは思う。同時に、気づいた。いまもまだ彼は宮廷魔導師団に籍を置いているのだと。あるいはそれはフェリクスの温情なのかもしれない。
「――エリナード・アイフェイオン、か」
「なんだよ」
「それが、あんたの本名かと思って。はじめて聞いたけど、こんな形で勝手に聞かされたくなかったわ」
 氷帝を見やれば、睨まれた。ライソンは怯まずただ見つめ返す。いま悪かったのはどちらなのかと問うような気持ちで。
「――師匠、帰りますよ。ちゃんと。ただちょいと疲れたんで、送ってください。たまには一緒に跳んでくれてもいいでしょ」
 す、とエリンが前に出た。ライソンを置いて師の元に戻ろうとするかのように。否、フェリクスと睨みあうライソンをその背に庇った。フェリクスの表情がふと和らぐ。
「いいよ、一緒に跳んであげる。――タイラント、帰るよ」
 声をかければ氷帝の伴侶が飛ぶ足取りで駆けてくる。羨ましいな、ライソンは思いエリンの背を見ていた。
「――エリン」
「……おう。一応、お前の体が治ったころにゃ、店も再開してんだろ。用があったらそっち来いよ。――用があったら、だからな、用が!」
「あぁ、用があったら、な?」
 にやりと笑うライソンを凄まじい目でエリンは睨み、けれどその向こう、タイラントがにやにやとしているのでは威力も何もなかった。ライソンは笑顔で一歩を引いた。
「コグサ、連絡方法は覚えてるね? 僕の私用の方」
 フェリクスの言葉にコグサがうなずく。彼らの間には連絡があったのか、と思えば寂しくもなる。そんなことを思うからエリンに若造と笑われるのだとも思うのだけれど。
「じゃあな」
 エリンの声とともに、彼ら魔術師たちの姿がかき消える。ライソンはしばしその場に佇み、はじめて気づいた。エリンが声をかけてくれたことに。にんまりと歪む口許を見られなくてよかった、本気で思った。
 一方、その場で転移した魔術師たちは当然のよう星花宮に出現した。先に戻っていたらしきカロルとリオンの姿もある。カロルは一つフェリクスにうなずいて見せ、どこかに消えた。
「おいで、エリィ」
 タイラントすら置いてフェリクスはどこかに行こうとする。それを気にした風もなくタイラントは手を振っていた。
「どこです?」
 尋ねれば、いいから黙ってついておいで、とすげなく言われる。慣れているから冷たくは感じない。むしろ懐かしかった。
 星花宮には無数の部屋がある。使用中のもののほうが少ない、とは言いすぎであっても空いている部屋もまた数多い。フェリクスが選んだのはそんな部屋の一つ、しかも人の訪れさえ稀な場所にある部屋だった。
「人に見られて困るんだったら師匠の部屋でいいでしょうに」
 氷帝の私室に乱入しようと試みる愚か者は星花宮にはいない。それを指摘して笑うエリンにフェリクスは溜息をつく。
「それができるならそうしてるよ。僕が何かしたって思われたら困るんだって。察しなよ」
「……え?」
「あのね、エリィ。あの反逆軍がどうして狼を狙ったの。狼が強いから。そうだよね? それを陛下はどう思うんだろう。考えたこと、ある?」
「それは……」
「自分の近衛騎士団より強いって思われてるんだよ、傭兵が。陛下にしてみたら無法者の集団すれすれの傭兵隊がね」
 フェリクスが顔を顰めた。当代の国王と星花宮の魔導師に間隙がある、とはエリンは聞いていない。むしろあるのは世継ぎの王子のほう。だからこそ、不思議だった。第一フェリクスと当代の国王は友人と言っていい仲だ。エリンの思いを察したフェリクスがひょいと肩をすくめる。
「国王なんて因果な商売だからね。僕らに好意的だからってあなたと付き合いのある狼にまで好意的であることはない。わかるよね」
「だから、師匠は――」
「いまカロルは陛下の元に報告に行ってる。この場合はあの人が適任だから」
「つまり師匠はカロル師といま精神を接触させてる?」
「それから?」
「俺にも触れってことですか?」
 要するに情報の横流しだった。確かにこれではフェリクスの私室で行うわけにはいかないはずだ。エリンはそっと微笑んで頭を下げる。
「わかってると思うけどね、コグサのためでもライソンだとか言うお子様のためでもないよ、エリィ。あなたが心配だからすることだ」
 ふん、と鼻を鳴らすフェリクスにエリンは笑いそうになった。言いつつ狼の行く末を案じてくれる優しい師。
 エリンは黙って師の心にそっと触れる。もう五年も前になる。壊れかけの自分をこの心に抱え込んでくれたのは。食べも眠りもできない自分を、そうして生かしてくれた師。
「エリィ、あんまりためらわれるとタイラントに浮気の報告でもしなきゃいけないような気がするじゃない。さっさとしなよ」
「誰が浮気ですか! 師匠と寝る気はねぇ!」
 笑いながら怒鳴ってエリンは彼の心の奥に潜んでカロルの声を待っていた。




モドル   ススム   トップへ