暁の狼のみを攻撃目標とする。そう決定した時点でオーラン伯爵の陣にいた二人は動いた。 「おかげで後手に回りましたか」 秘密裏に伯爵を拘束したのはいい。だが攻撃が開始されてしまっていた。一次攻撃が終わったのか、いまは少し静かだ。星花宮の魔導師、リオン・アル=イリオは戦場を見やる。 「でも、狼もすぐ壊滅するわけじゃないでしょうし」 同じくタイラント・カルミナムンディが気遣わしげにそちらを向く。二人とも座視していたわけではもちろんない。それとなく狼を援護していたのだが、いまはまだ目立ちたくなかった。将の中にも伯爵の計画を知っていたものが必ずいる。 「でもねぇ……」 リオンがぼやき、その言葉を途中で止め、そして顔を覆った。長々とついた溜息に、タイラントは慌てる。 「リ、リオン様?」 おろおろとする同僚にリオンは力ない笑みを向けた。そして珍しく顎先で前方を示す、などという無頼めいた仕種。 「大洪水です」 「はい?」 きょとんとしてしまった。リオンが示した先は戦場で、洪水が起こる要素はどこにもない。ここに川でもあるのならばともかく、小川ですらない。 「あれ……?」 「あなたが感じたのは、フェリクスでしょうねぇ。師弟揃って大暴れです。こっちの計画なんかお構いなしって感じですねぇ、まったく」 「洪水って言うのは、じゃあ」 「エリナードですね。この目に彼は大らかな水に見えますから」 いまはちょっと暴れすぎですけど。言ってリオンは笑った。タイラントは彼の言葉にうなずく。エリナード。水の申し子、と名付けたのはフェリクスだった。 「あぁ、カロルから連絡です。この際ですから、戦場で目ぼしい将をとりあえず拘束ということに計画変更です」 「はい!?」 「とりあえず、捕まえちゃってください。怪しい素振りをしたのとか、狼に執着してるのとか。その辺、見ればわかるでしょう?」 タイラントはこんな時に思い出す。彼はカロルの伴侶なのだと。諦めてうなずきかけて、強いて首を振る。 「それでも! 兵はたぶん、なんにも知らないはずです。だったら停戦勧告とか!」 できることが他にもあるはず。死者を出すのを殊の外嫌うフェリクスのため、何かできることがあるはず。願うタイラントにリオンは微笑む。 「この場合、我々がすべきは停戦勧告ではありませんよ、タイラント」 「え――」 「災害救助、でしょうねぇ。ほら、カロルが参戦する前に行きますよ。あちらもヒューズ子爵の拘束は済んでるみたいですから。さっさと行かないと被害が増えます」 軽やかな春の陽射しのようなリオンの言葉にタイラントは大慌てで動き出す。せめて死者だけは出すまいと。万が一の場合には必ず傷を癒す、それが務めと心得て。 同時刻。ヒューズ子爵の陣営では黒衣の魔導師、メロール・カロリナが動こうとしていた。 「ちっ。手間ばっか増やしやがってよ」 エリナードを止めに行ったのだか煽りに行ったのだかわかったものではない。狼の陣にいるはずのフェリクスに思いを馳せ、ちらりとカロルの口許に笑みが浮かぶ。 「まさか二人揃って大暴れかよ」 ふん、と鼻を鳴らせば羨ましげな響き。できることなら自分も好き勝手暴れたいものを。幸か不幸か星花宮の四魔導師、と言われてはいても、他の三人がとりあえずでも言うことを聞くのはカロル以外にいない。結果として、後方に回ることが多い最近だった。 「まぁ、少しは遊ばせてもらうかな。師匠思いの弟子がいるからよ」 笑ってカロルは飛び出していく。ヒューズの陣ではすでに子爵本人と主立った将が拘束されている。それでもまだ戦いに身を投じている、ということは家中ぐるみの反乱、と捉えて問題ない。ならば好きなだけ暴れるか。カロルの内心を誰も知らないのは好都合だった。 そして狼の陣。コグサが胸元から笛を取り出し高らかと吹き鳴らす。 「総員撤退! 巻き添え食らいたくなかったら退け――!」 隊長の合図を耳にしたものからすぐさま陣の中へと戻っていく。続々と退いてくる狼の兵に疲労の色が濃かった。 「ライソン」 奥にいるライソンに声をかければ、のそりと顔を向けてくる。傷が痛むのだろう。 「動けんなら、お前は見とけ」 コグサの言葉にアランの肩を借りたライソンが姿を現す。先ほどまで笑っていたとは思えない憔悴ぶりだ。エリンの顔を見た、それだけでずいぶん気が楽になっていたのだろう。だがその反動とも言えた。 「隊長?」 「――はじまったな」 ライソンの声への返答でもあり、感想でもあった。ライソンは咄嗟に耳を覆う。アランは口を開けて見ていた。 戦場に、数々の水柱が立つ。何事だと思う間もない。あっという間に敵兵が流されていく。子爵の兵も伯爵の兵もあったものではなかった。 「派手だなぁ」 顔を顰めるコグサに、それで済ませていいものかとライソンは呆れる。アランなど開いた口が塞がらないらしい。兵を押し流す水流が、一瞬で凍っていくそのさま。 「ありゃあ、氷帝だな」 「隊長……。見て、わかるんですか?」 「そりゃ、エリンは同僚だったからな。戦い方を知ってる。あいつはあんまり氷系は使わねぇし。それに、何せあいつの背中を守ってんのが氷帝だからな」 言われてみればもっとも。――とうなずいていいものかどうかライソンは迷う。凄まじい戦いだった。戦いと言うより自然災害だ。 「馬鹿馬鹿しくなるよなぁ」 笑いながら呟くコグサの言葉にライソンは、今度こそ本気でうなずく。これが一流の魔術師の戦い方か、と改めて思った。傭兵も騎士団も関係ない。自然の猛威そのものだ。 「だからな、ライソン。星花宮の魔導師はほとんど戦場に出ない。わかるか」 「それだけで決着がつくから。聞いちゃあいましたけど、こりゃマジだわ」 「だろ。こんなもん、『人間の戦い』じゃねぇんだよ」 「でも!」 「わかってる。四魔導師も、エリンもみんな人間だ。それでも、人間の戦いにならねぇ。見な」 いまもまた、河川の氾濫が可愛らしく思えるような水流。流されていく兵は、とライソンは案じてしまう。兵のためではなく、死者を出さない、と師に誓ったエリンのために。不意に土壁が現れ、兵はそこに縋って息をつく。その目は至るところに吹き荒れる炎に、戦場に降り注ぐ太矢ほどもあるつららに、どこからともなく現れて兵を拘束する蔦の群生に震えていた。 「……っておい!」 突如として陣に姿を現した人間。銀糸の髪に色違いの目。華やかな吟遊詩人がどこからともなく現れる。無論、タイラントだった。 「カルミナムンディ!? なんでこんなところに――」 「久しぶり。コグサ。俺? 俺、戦場向きじゃないんだよねー。で、だったら狼に重傷者がいるからそっち行けってシェイティに。うん、まぁ。確かにそっち向きだよね。で、どこ?」 人の話を聞いているのかどうか。転移してきた魔術師は朗らかに笑っていた。 「重傷者ならここにいるよ。だが、向こうは――」 「だったらちょっと弾きながらにしようか。そのほうが話が早いしね」 言ってタイラントは竪琴を構えた。戦場だと思えば言葉もない。だが吟遊詩人だと思えば当然。アランなど、なにを言っても自分の常識からは外れる、と覚悟を決めたのか黙って首を振っていた。 「リオン様とカロル様が参戦してるよ。とりあえず、エリナードをなだめながらリオン様は災害救助中」 「……災害救助とは言い得て妙だなぁ、おい」 「だと思う。それで、エリナード、何かあったの?」 ほろほろと爪弾かれる竪琴の音色。ライソンは黙って聞き惚れていた。こんなところで世界の歌い手の演奏を聞くことができるとはこれぞ僥倖というもの。が、聞き惚れていること自体に驚いた。先ほどまで痛んでいた傷。それに気づいたタイラントがにこりと笑った。 「あいつはあれでって言っちゃなんだが、真っ直ぐな男だしなぁ。狼が裏切りにあったのに腹立てた、というべきか。この坊やが重傷負ったのに切れたと言うべきか」 「隊長!」 「事実だろ」 あっさりといなされて、いまこそライソンは身の置き所がなくなった。傷の重さに何かとんでもないことを口走った気がする。癒されつつある体にそれをまざまざと感じた。 「あぁ、切れちゃったかぁ。うん、さすがシェイティの弟子だよね。切れて立ち直るなんて、さすがとしか言いようがない」 褒めているのか貶しているのか、それとも単なる感想なのか。ライソンが思うと同時にただの感想、とタイラントが呟いた。 「あの……タイラント、さん? その、エリンは」 「別にさん付けなんかしなくていいのに。エリナードがどうしたの?」 「んじゃ、遠慮なく。あいつ、魔力が安定しないんじゃ。あんまり長い間戦場にいるのは、危なくないですかね」 ふ、とタイラントの眼差しが和らいだ。何か急に認められた気がしてライソンは身じろぐ。その時にはもう傷が痛まなかった。背後を振り返れば、音楽の届くところにいた負傷者の全員が癒されつつあるらしい。 「あの子はね、魔法を使いたくなかった。その意味は、わかるね?」 エリンの過去。彼がその手で奪ってしまった最愛の命。ライソンは黙ってうなずく。 「だからね、気の持ちようって言ったら軽々しすぎるけど、そう言うことなんだよ。あの子が戦う気になれば、また魔法は戻ってくる。その証拠って言っていいのかな? やっと素顔に戻る気になったみたいだしね」 青き竜の最強魔術師、黄金の悪魔とも異名されたエリナード。その名の由来にもなったのだろう鮮やかな金髪。 「ライソン。君の目にあの子はどう見えてるんだろうね。あれは、君の知ってたエリン、じゃないよね? いまあそこにいるのは、俺たち星花宮の魔導師が知ってたエリナードだから」 言われた瞬間、怒鳴らなかった自分を褒めたい。ライソンは代りにタイラントをしっかとばかり睨んだ。 「馬鹿なこと言わねぇでくれますか。あれもエリンだ。俺が知ってるエリンだ。見た目も魔法も関係あるか!」 結局怒鳴っていたのに、なぜかタイラントは莞爾と微笑む。呆れたコグサの小さな笑い声。アランはまだ呆然と戦場を見ていた。そろそろ終局らしい。 |