困ったようなコグサの苦笑。それにエリンはかっとしそうになる。その寸前、呼吸を読んだコグサが顎で天蓋の一角を示した。さすが友人、と腹立たしくなる。 「なんだよ?」 「そこにいんだよ。――重傷者、風にさらすわけにゃ行かねぇんだっての」 「な――」 予想していたのに息を飲む。隣でフェリクスが苛立たしげな溜息をついた。エリンは黙って天蓋の隅へと行く。確かにそこには一枚、幕が垂らしてあった。即席の天幕、というところか。そっと引き開ければ。 「なんだ、これ」 数人が、横になっている。うめいているものはさすがにいない。ただ、傷の痛みに耐えているだけ。傭兵隊にいたことのあるエリンには、それがわかる。 「え……? エリン?」 奥のほうから声がした。黙って足を進めれば、どうして当たり前の声が出せているのか不思議なライソン。 「見事に横っ腹切り裂かれてるね。なに、鎧の一つも着てなかったわけ?」 「いやぁ、着ちゃいたんすけどね。あっちのほうが上手――」 「んなこたぁどうでもいいんだよ!」 フェリクスの淡々とした声とライソンの苦笑。エリンは割って入って隣を睨む。そこには看病をしていたと思しき狼の魔術師、アラン。魔力の弱い魔術師は薬草の扱いに長けているものが多いから、薬草師の代わりを務めているのだろう。 「ライソンは仲間を庇って――。俺もこいつに守られて――」 「うっせぇ!」 怒りのとばっちりとでも言うような怒号を浴びてしまったアランが身をすくめる。ライソンですら顔色が変わるような怒りの声。向こうからコグサが顔を覗かせて、肩をすくめて終わりにした。 「てめぇ、コグサ! てめぇの指揮が悪いからこんなことになってんだろうが! 責任とれ、責任!」 「とる気はあるが――」 「裏を取らなかったのはコグサの責任。でも嵌める気だった依頼人じゃないの? どうするの、エリィ。ライソンは重傷だよ、どう見ても」 ぎゅっと唇を噛む。師に言われなくとも、そんなことは見ればわかる。友人でもなんでもない。それでも。 「エリン。あんたがそんな顔すること、ないんだぜ? 俺は別に――」 「うっせぇッ!」 「だってさ、別に客と店主ってだけだろ。なぁ?」 同意を求められたアランが自分に振るな、と顔を顰める。ライソンはアランを見やりつつ、横目でエリンを見ていた。 まさか、こんなところで顔が見られるとは思ってもいなかった。刻々と体が冷えて行くのを感じている。すぐにきちんとした医者か、あるいは神官に見てもらえたなら、助かるだろう。だがどちらもここにはいない。 「エリン。ちょっと顔見せてよ」 前髪に隠されたエリンの顔。最期ならば見ておきたかった。ほっとして、彼が現れて、ようやく認める。友人などではない。だからこそ、近づいてはいけない。安心だった。いまこれほどの傷を負っているのは。 「あ――」 気の抜けたアランの声。顔を覆ったフェリクス。向こうから覗いたままのコグサが馬鹿馬鹿しいとばかり笑う声。 「ふざけたことぬかしてんじゃねぇぞ、ライソン。なに勝手に死ぬ気になってんだ」 「だからって重傷者を思いっきり殴るあなたもあなただと思うけどね、エリィ」 「どこが思いっきりなんです? 俺は魔術師です。思いっきりやるんだったら魔法使ってますよ」 「それは同意。やる、が殺る、になるけどね」 ふふん、と鼻で笑うフェリクスだったから、どこまで本気かライソンは疑わしい。と、思った瞬間睨まれたから、たぶん紛れもない本気だったと気づく。血の気が下がった。そしてまだ下がる血があるのだとぼんやり思う。 「師匠」 「うん、なに?」 「これ、危ないですよね?」 「そう言った気がするけど? 記憶力は大丈夫なの」 「だったら、さっさと片をつけて、タイラント師かリオン師に来てもらいます」 きっぱりと言って、エリンはフェリクスを見つめる。それでいいかという弟子の目に師は微笑んでうなずいていた。 「で、ライソン。それ、一応どういう状況でやられたのか、聞いとくぞ」 聞かない方がいいのに。ぽつりと呟いた師の声をエリンは無視する。戸惑うライソンの代わり、アランが口を開いた。 「狼が、子爵側にやとわれてんのはご存じで? だったら話が早い。ライソンは騎兵なんで、吶喊したんです、当然」 「まぁ、わかる」 「味方のほとんどが前線に投入された後」 ぞっとしたようアランが顔を顰める。否、嫌悪の表情。恐怖ではない。子爵側のあまりにもあからさまな裏切り行為。 「だろうね。それを予想したから僕らは来たんだけど」 当然の予想だった、とうなずくフェリクスの傍ら、エリンは無言だった。いまこの瞬間まで、そのような裏切りがあるとは信じていなかった。自分がいたころの竜は、そのような裏切りにあったことはない。 「エリン。竜とは違うんだ、竜とは」 コグサの遠い声。ならばきちんと裏を取れ。言いたい言葉が出てこない。小刻みに体が震えていた。 「エリィ。やっぱりあなたを連れてくる――」 そんなことをするべきではなかった。あるいは早かった。言いかけたフェリクスの声が止まる。そっと弟子を窺えば、怒りの表情。 「……ざけんじゃねぇ」 ぼそりと呟いたエリンから、アランが身を引く。正しかった。コグサが傷をおして様子を見にきた。正しかった。 「ふざけんなッ!」 怒号と共にエリンが顔を振り上げた。前髪を払い、厳しい眼差し。そしてその姿から、はらはらと、色が落ちて行く。 「おい、エリン――」 黒々とした髪が茶色に、褐色に、ついに金へと。目の色さえも色が抜けて藍色へ。一言呟いたのち、その手には紐がある。手早く額に巻き付け邪魔な前髪を留めた。 「さすが僕の弟子。切れ方も立ち直り方もそっくりだ。で、エリィ。どうするの? さっきから聞いてると思うけど」 「全滅させます」 駄目だとにっこり微笑むフェリクスの襟首にエリンは手をかける。それを気にした風もなく微笑む師だった。 唖然として、だがアランは彼らを見ていた。彼ら、ではない、エリンを。呆然と、そこにいる金髪の魔術師を。 「……黄金の、悪魔。竜の、最強魔術師」 伝説にもなった青き竜の魔術師。赫々たる武勲だけを残し、消えて行った魔術師。敵からも味方からも悪魔と呼ばれた男。敵からは恐ろしさゆえに、味方からはその魔法精度の高さゆえに。 「間違いない、この人だ。わかってても、よかったはずなのに」 魂が抜けたよう呟くアランにエリンは気づいてもいなかった。殺させろ、全滅だとフェリクスに食ってかかるのに忙しい。 「あのね、エリィ。考えなよ? 兵を殺してどうなるの。そんなもの殺したってどうにもならない。命令に従っただけでしょ。罰を受けるべき人はどこ?」 「子爵の陣と伯爵の陣」 「そのとおり。さっさと済ませて突入するよ」 「師匠?」 「手伝ってあげる。いまだけは、あなたの背中を僕が守ってあげる。この僕に守らせるんだ。半端な戦い方したらあとで説教するからね?」 アランとライソンは天を仰いだ。にこやかな言葉の裏側にあるものをうっかり聞いてしまったせい。ぞっとするはずが、笑っていた。 「ライソン、頭は平気か? なに笑ってやがる」 「いや……なんか、すげぇ楽しいわ」 「お前……」 「あんたが、竜の魔術師だったんだな、最強の。ふうん、そっか。なんか納得だわ」 「……なんも思わねぇのかよ?」 「別に? 派手な面だと思うくらいかな? 別にあんたの面に惚れたわけじゃねぇし」 「な――」 息を飲んだエリン。顔をそむけて唇を噛む。何をやっているのだとフェリクスがその背を叩く。 「痴話喧嘩と惚気は後で込でやって。傷が治った後、二人でね。つくづくメロール師が言ってた意味が最近になってよくわかるよ。他人の惚気を聞かされるほど馬鹿馬鹿しくって恥ずかしいことはないね」 「師匠!? そんなんじゃ――」 「いいから行くよ。ちなみに、ライソン?」 「はい?」 「僕がこの前言ったこと、覚えてるよね?」 エリンを泣かせたら大地の果てまで追って殺すと言った彼の師。ライソンは顔を強張らせたままうなずく。 「だったらいいよ。その覚悟があるんだったら、この僕の弟子を口説くんだね」 「いや……その……」 「いまさら怖いからやめたとか言っても聞かない。エリィもあなたに興味があるみたいだしね」 「ねぇです! 俺はただ、コグサが……!」 「俺をダシにするんじゃねぇ。俺のために飛んでくるお前かっての」 「うるせぇぞ、コグサ! 師匠、行きます! とりあえず、全部ぶちのめしてからだ!」 「うん、全滅は駄目だけどね、エリィ。全員戦闘不能だったらいいよ。好きにしな」 「死者がでなけりゃいい?」 「そういうこと。行こうか」 笑顔で言葉を交わす師弟に傭兵隊の面々は根こそぎ気力を奪われていた。一人ライソンだけがくつくつと笑っている。 「おい、ライソン」 「なんだよ?」 「頭、平気か?」 訝しそうなアランが顔の前に手を出して指は何本だ、などとやっている。それにライソンは大きく笑いその拍子に痛んだ傷に顔を顰める。 「俺、やっぱエリン、好きだわー」 ちらりとコグサを見やった。とっくに出て行ってしまった師弟に代わりコグサがこちらにやってくる。黙って頭を下げた。 「まぁな……。こんなことになるんじゃねぇかと、思っちゃいたんだがな」 「すんません」 言葉面だけ殊勝げに詫びて見せた兵の頭をコグサはきつく叩く。それでも多少は手加減していた。相手が重傷者だからこそ。治ったら思いっきり殴ってくれる。心に決めたことを見抜かれたよう、ライソンが首をすくめた。 |