フェリクスが唇を噛む。いまだに迷ってでもいるかの表情。エリンはこんな彼の姿を見た覚えがない、と思う。普段の師はこれでもかとばかり思い切りがいいものを。
「……暁の狼が、嵌められた。たぶん、ほっとくと全滅する。エリィ、あなたはどうする?」
 戸惑うエリンに告げられた一撃。エリンは師がなにを言っているのか、わからなかった。まったく、完全に意味がわからない。
「は? なんです、急に。どう言う意味です、嵌められたって! だいたい、狼はいつ出陣したんです!」
 口にしているうちに、意味が通ってくる。師が自分に狼の出陣を告げていなかったことまで、理解できてくる。
 ライソンは来なかったのではない。来られなかったのだ。戦場にいるから。ならば出陣前に挨拶くらいしに来い、と内心で彼を罵る。
「来させなかったんだよ、僕とコグサがね」
「どう言うことですか、師匠!」
「だって、どうして傭兵なの。あの子、ライソンだっけ? あの子が傭兵じゃないって言うなら、僕は別にあなたの付き合いだ。口出したりしないよ。でも――」
 また失うことになる可能性の高い青年。友人だろうが恋人だろうが、それにエリンは耐えられるのか。師が口にしなかった言葉にエリンは唇を噛む。
 他の誰がなにを言おうが関係ない。フェリクスは、フィンレイを失った直後のエリンを知っている。魔力を暴走させて、そのまま死に逝こうとしていたエリンを知っている。
「……僕もね、絶望というものがどう言うものか、知らないわけじゃないからね。ただ、あなたのそれとは違うけど。僕は僕に原因があって、たぶん、他人のせいにしていただけ。僕が信じられなかったのは僕自身。そう言うことだったからね。だけどあなたは?」
「俺だって……」
 本当は、わかっている。自分のせいでフィンレイが死んだ。この手で恋人を殺した。どうにもならない事実だけがそこにあって、あとは進むか止まるか決めるのは自分自身。
「うん。僕の口からは、それ以上は言わないよ、エリィ。あなたはわかってるからね。だからね、エリィ。わかってるあなたが、それを実現できるようになるまで、まだ時間がかかると思う」
「――さっさと立ち直れって言ったらいいじゃないですか。面倒くせぇでしょ」
「なに馬鹿なこと言ってるの? 僕が立ち直るのにかかった時間は二十年だ。あなたは? まだたった五年そこそこじゃない。僕だって無茶は言わない」
 無茶はするけどね。言ってフェリクスは小さく笑った。師の過去を知らないエリンではない。というよりもむしろ。弟子の中では唯一、詳しく知っているのがエリンだった。暴走から回復させる過程で、見せてくれた師の過去。成り行きで見せたわけではないよ、と言って話してくれた過去。
 あまりの壮絶さに、絶望していてさえ、言葉を失った。あるいはそれが回復の最大の切っ掛けになった。
「だから、暁の狼の出陣を、僕は知っていたけど教えなかった。恨む?」
「――いいえ。でも、教えてください。どう言う意味ですか、嵌められたって」
「うん。よくある領地争いだよ。どっかの伯爵とどっかの子爵が喧嘩した。わかる?」
「よくあるように領地が隣り合ってた?」
「そう。で、子爵側は小さく弱い自分を伯爵が攻めた、と言って国王に訴えた。国王はそれを聞き遂げた。とはいっても王軍を出すわけにもいかない」
「それだと伯爵側が完全に反逆者扱いってことになっちまいますからね」
「うん、だから狼に声がかかった。狼は、あなたも知ってるよう前身が青き竜だからね。国王と繋がりがある。かくかくしかじかなんだけど、子爵に手を貸す用意はあるかってね。もちろん報酬は国王と子爵の折半、事実上は全額国王だね」
「だったらとりっぱぐれもねぇし、狼としてはいい仕事だ。そうですよね?」
「これが事実だったらね」
 嵌められた、と師は言った。ならば事実ではなかった、ということ。エリンは師にとられたままの手を握り返す。汗ばんでいるのが自分でもわかった。
「反逆者がいた」
「じゃあ、伯爵はマジで――」
「違う。それだったら狼はたぶん、勝てる。そうでしょ、傭兵隊は強いからね。それが仕事だし」
「まぁ、そりゃ――」
 言って言葉の途中でエリンは青ざめた。フェリクスの言葉の意味が理解できる。
「伯爵と子爵が繋がってたんだよ。思えば伯爵家は何代か前、王家の姫を娶ってる。自分にも王家の血が流れてるって幻想を持つ程度に馬鹿だし。だから、黒幕は子爵だね。あるいは子爵側の誰か」
「でも、だったらなんで……!」
 暁の狼は傭兵隊だ。国の正規軍ではない。反逆者に狙われる意味がわからない。
「エリィ、現実を見て。言ったじゃない。傭兵隊は、強いんだよ。わかる? 反逆軍を起こすとき、一番邪魔になるのは、国王と繋がりのある傭兵隊だ。傭兵隊は報酬次第で動くと言ってもね、狼はそっちにはつかないでしょ。コグサの性格だと、そんな話は蹴るだろうから」
「間違いなく。すぐさま通報に走ります、たとえ自分が死んでも。誰かを走らせます」
「だからだよ。危険を排除するため、最初に狼が狙われた」
 そうは言っても、エリンにはわからない。正しく師の言うとおり、傭兵隊は強い。貴族の持つ自家の兵で敵うものなのだろうか。エリンとしてはうなずけない。
「言ってるでしょ。伯爵と、子爵が、手を組んだ。僕はそう言ってるよ、エリィ」
「あ――」
「狼がどんなに強くってもね、両軍から挟み撃ちにされたら全滅まっしぐらだ。まして傭兵隊はどこにいるの」
「……最前線にいるのが、普通、です」
「ほらね? 子爵軍を背後に、伯爵軍を前方に。狼は追いつめられてる。それでエリィ。どうするの」
 蒼白になっていることに、この弟子は気づいているのだろうか。体調が案ぜられて仕方ない。本当ならば、戦場になど出したくない。まだまだ不安定な彼の魔力。何か切っ掛け一つで戻りはするだろうけれど、それは時間以外にないだろうとフェリクスは思っている。だからこそ、こんな話は告げたくなかった。
「師匠」
「なに?」
「不安です。俺の魔力は、不安定で、たぶん、何があってもすぐ対処するってわけにはいかない。だから――」
「寂しいから一緒に来てってところ? いいよ、可愛い弟子の頼みだからね」
「師匠! からかわないでください! 冗談言ってる暇なんかないでしょうが!」
「タイラントにもよく言われるけどね、僕は冗談がとても下手なんだ。だから言わないようにしてる。つまり全面的に事実ってやつだよ」
「……よく俺の目の前で惚気ますよね、師匠」
「別に惚気てない。それこそただの事実。あぁ、そうだ。一応、タイラントとリオンが伯爵側に潜入する」
「はい?」
「だって、どうせ話したらあなたは行くって言うに決まってるからね。だから僕らは狼担当」
「ちなみに?」
「カロルが子爵側に行くってさ。可哀想にね」
 まったくだとエリンはこんな場合だというのに子爵とやらに深く深く同情した。そしてはたと気づいて首を振る。
「師匠!」
 嵌められたとすでにこちらでわかっている。ならば狼は。まさかと思う。コグサが隊長である限り、全滅はないと思う。それでも。
「行くよ。追尾する? それとも運んであげようか」
「遠慮します。追尾くらいはできますよ。なんてったって、氷帝の弟子だ」
「その意気やよしってとこだね。うん、大丈夫。助けに行くよ、エリィ」
 言うや否やフェリクスは転移呪文を発動させた。エリンになにを言わせる間もなく。それが気遣いだと、エリンは知っている。慰めて、励ましてくれた師のためにも、ここは自分がしっかりしなければならない。一呼吸すらもおかず、エリンはフェリクスを追尾した。
「上出来だね」
 出現点に姿を現すや、フェリクスがにやりとしている。我ながらなかなか素早い呪文だった、と自負していたエリンがほっと唇をくつろがせた瞬間、またも青ざめることになった。
「てめぇ、コグサ――!」
 狼の、野営地だった。いったい何というところを出現点に選んだのか、と身を震わせる間もない。天幕を張る暇もなかったのだろう、ざっと張られた天蓋の下、傷を負ったコグサが横たわっていた。突如として現れた二人の魔術師に周囲の兵が目を白黒とさせつつも剣を取っていた。敵ではない、と傷ついた体でコグサが示し、彼らは息をつく。
「わりぃ、ちょっと、ぬかったぜ」
「裏取れよ、ボケが。だから間抜けさらすんだ」
「まったくだ」
 からりと笑った声に力がない。ぞっとした。ライソンが友人になるかもしれない男だったのならば、コグサは紛れもない友人だ。
「ちょっと見せて」
 ひょい、と無造作にフェリクスがコグサの傷を覗き込む。それからほっとしたよううなずいた。
「うん、これだったら大丈夫だね。体も頑丈だし」
「師匠!」
「あとでタイラントを呼んであげる。別にリオンでもいいけど。それまでに、だからさっさと片付けるよ、エリィ」
 神聖呪文の使い手でもあるリオン。呪歌の使い手でもあるタイラント。いずれにしても傷を癒すことができる。彼らが来るまで充分コグサは持つ、そうフェリクスが判断したのならばたぶん、正しい。戦場を離れていた自分の目よりはよほど。そうエリンは無理矢理に納得した。
「……コグサよ」
「おうよ」
「色々言いてぇことはあるしな、お前だってそうだろ」
「まぁな。だが――あれは――」
「んなこたぁ、いまはいいんだよ。あとでゆっくり話しゃいい。とりあえず、聞きたいことがある」
 エリンは周囲の兵たちをすでに見取っていた。どこに誰がいるかまではわからない。そもそも狼の兵をそれほどよく知らない。だが、いない人間ならば、わかる。
「ライソンは、どこにいる?」
 すうっとあたりの気温が下がった気がした。よもや、と思う。まさか、あるいは。側に寄ってきた師が、そっと手を取った。こんなところで暴走するんじゃないよ、とでも言うように。それすら振り払い、エリンはコグサを見据えていた。




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