あれから一度もライソンは店に顔を見せなかった。エリンはじっと横になっている。顔を出すも出さないもない。店はあれから開けていない。そう思うのに、どことなく苛立たしい。
「――お節介」
 横になったままぼそりと呟けば、心の中で笑う声。フェリクスが、いまも自分を案じてくれる師が心にいる。
 久しぶりに酷い暴走だった。それは理解してる。だがもう自分では大丈夫だと、思っている。師だけがそれを信じてくれない。おかげで今もまだ精神の接触を保ったままだった。
 ずいぶんと迷惑だろうに。エリンは思う。星花宮とこの店と、同じ王都にあるとはいえ、距離はそれなりに開いている。接触を保つのは面倒で手間だ。
 ――馬鹿なことを考えるんじゃないよ。
 思う途端に飛んでくる思考。小さく笑ってエリンはうつむく。こうして心配してくれる人がいる。あのとき、自分は死ぬべきだったのに。
 両手を掲げてじっと見た。フィンレイを殺した自分の手。好きだった。本当に、楽しかった。魔術師ではないフィンレイと過ごす時間は、それほど長いものではなかっただろう。魔術師のエリンは思う。それでも、その短い時間を精一杯使って、一緒に生きて行くつもりだった男。この手で殺した男。
「死にたかったのに」
 死なせてもらえなかった。誰からも。否、自分自身からも。死にたかったのに、死ねなくて、結局ただの暴走で終わってしまった。あのときもしもフェリクスが止めに跳んでこなかったならば、死んでいたかもしれない。死に切れなかったかもしれない。それこそわからないこと。
「違ぇな。師匠が跳んでこねぇはずねーわ」
 当たり前でしょ。また呟く声が聞こえた。こくりとそれにうなずいて、エリンは目を閉じる。
 あの日以来、安定しなくなってしまった魔力。魔術師としては死んだも同然。否、戦う魔術師としては、だと思いなおす。多少の時間的余裕があれば、一人きりで落ち着いていれば、それほど頻繁に暴走するわけでもない。
 ただ、もう二度と戦いの場には出られない、と思う。フィンレイと戦ったように、戦場を駆けることはない。
 憧れだった。フィンレイが、ではない。フェリクスが。あの小さな体に無尽蔵の魔力。華奢な体から繰り出される途轍もない魔法。フェリクス自身は王命がない限り戦場には立たない。星花宮の四魔導師が出陣すれば、それだけで戦は決着を見てしまう。そう言われるほど彼らは強い。別けてもカロルとフェリクスは群を抜いて強い、エリンは思う。
 ただそれは、二人の魔法が戦闘向きだ、というだけであってリオンやタイラントが劣るわけではない。わかっていながら、やはりエリンはフェリクスに憧れた。
 だからだった。独り立ちを許されてすぐ、傭兵隊に飛び込んだのは。師のように、戦ってみたかった。自分がどこまでできるのか、試してみたかった。そこで出会ったフィンレイ。
「なんでだよ、フィン……」
 コグサに挑発されたなど、理由にならない。傭兵の間では当たり前の軽口だ。自分とフィンレイと、戦い方が違うのだから、手柄争いなど意味がない。彼だとて、わかっていたはずなのに。
 なぜあの日に限って。死んでしまったフィンレイに問うこともできない。理由を知っている人は誰もいない。フィンレイ自身、わかってなどいなかったのかもしれない。事実はただ一つ。この手で彼を殺した。
 フィンレイの命を選べるくらい、盲目で在れればよかった。いまでもエリンはそう思う。大陸中の人間を引き替えにしてでもフィンレイを生かして見せる。そう言いきれるくらい愚かに強い心があればよかった。
「師匠は?」
 わざわざ口に出して問えば、心の中で肩をすくめる気配がした。最愛の恋人であるタイラントと、他の人命を比べなければならない場合、あなたはどうするのか。問うたエリンへのそれが答え。
「それでも、俺は。フィンが好きでした」
 魔法の射線上に自ら飛び込んでくるような馬鹿な男だったけれど。最期の瞬間、驚いたようにこちらを見た気がした男だったけれど。錯覚かもしれない。それでもエリンはいまでも目があったと信じて疑わない。あのとき、フィンレイは何を思ったのだろうと考えることもある。
 ――馬鹿な男でごめんって謝ったんじゃないの。ほんと馬鹿だからね。あなたの好きな人を悪くは言いたくないけど。でも馬鹿じゃない?
 はっきりとした罵詈雑言が飛んできてエリンは喉の奥で笑った。師の言うとおりだと思わなくもない。弁解はしたい。だが、しにくい。
「馬鹿でも、好きでした」
 それならそれでいいんだよ。心の中で言う師の声にエリンは黙ってうなずいた。愚かだからと言って嫌うことはできなかった。本当に、好きだった。
 ――好きだった? じゃあ、いまは?
 からかうような師の声にエリンは顔を顰める。言葉尻を取られるのは好きではない。単なる言葉の綾だ。死んでしまった、自分が殺した男。もう終わってしまったこと。たとえまだ好きであったとしても。
 思うのに、唐突に違う面影が浮かぶ。師のしたことか、疑えば心の奥を弾かれた。自分ではない、と叱りつけられて叩かれた。エリンは目を細めて微笑む。子供じみた、と言ってしまえば怒られるだろう――現に精神が接触しているいま、筒抜けになった思いに師が顔を顰めたのが感じられる――けれど、そんな師の示す態度がエリンは好きだった。
 どうして、独立してすぐに離れてしまったのだろう、と今更思う。実戦は何よりの修行だなどと嘯いて傭兵隊になど入らなければ、こんな思いをすることもなかった。憧れの師の側で、研究に励んでいればよかった。現に傭兵時代もエリンの籍は星花宮にあった。師が、帰る場所を作ってくれた。
 ――済んだことをぐずぐず言わないの。帰ってきたいなら、いつでも帰っておいで。言うまでもないと思うけど、僕はいつでも歓迎するよ? それでもね、エリィ。
「……なんですか」
 ――あなたは、研究好きではあるけど星花宮にこもりきりになりたいわけじゃないと思うんだけど? かといって、教師向きってわけでもない。星花宮で小さな子供の面倒、見たいの?
「勘弁してください。ガキの相手は好きじゃない」
 ――でしょ? だったらね、色々あったけど、その上これからも絶対に色々あるけどね、エリィ。あなたが傭兵隊に入ったのも、いまそうやって僕の元に戻らないで店を開いているのも、あなたにとっては必然なんだと思うよ。わかる?
「わかんねぇって言いたいです」
 ――そんな馬鹿を弟子に持った覚えはないね。
 ふん、と鼻で笑うような声がして、接触が引いて行く。まだそこにある、とはわかるけれど、少し遠い。忙しくなったのかもしれない。異変があればすぐに跳んでいくよ、そんな気配めいた思考だけ、伝えてきた。
 フェリクスの気配が遠のいたからかもしれない。先ほど浮かんだ面影をはっきりと思い浮かべたのは。
「ライソン?」
 フィンレイとはあまりにも違う。砂色の髪も、薄青い目も、フィンレイのものではない。長い髪をひるがえした陽気な傭兵。どちらかと言えば細身だったフィンレイと、ライソンは重ならない。
「匂いだけ」
 戦場の匂い。傭兵の佇まい。ライソンがこの店に持ち込んできたもの。楽しかった、青き竜での暮らしの匂い。
「なんでだよ」
 暴走したあの日、フェリクスにライソンは叱責されていた。まさかそのせいでもあるまい。コグサがなにかを言ったせいでもないだろう。
「だったら」
 どうして顔を見せないのだろう。待ち望んでいるわけではない。会いたいわけでもない。ライソン個人に興味はない。あの傭兵の匂いに、もう一度触れたい。
「だったらコグサでいいか」
 自虐的な笑いを漏らし、首を振る。コグサはフィンレイを知っている。共に竜の副隊長を務めたコグサ。己の軽口のせいで、エリンがフィンレイを撃たざるを得なかったのだと後悔しているコグサ。
「お前のせいじゃねぇよ」
 いつか、本人に告げられればいいとエリンは思う。それでも今はまだ、会いたくない。
 浮かんでは去る面影。ライソンなど、別にどうでもいいと思う。用もないのに店に来て、喋っては勝手に帰って行った若造。いつも甘い揚げ菓子を買って来ては嬉しそうに食っていた。
「あいつも――」
 不意に思う。朗らかであれるはずはないほど、つらい過去があった。少年時代に家族も知人もすべて失ったライソン。それ以上を聞いたことはなかったけれど、両親だけではないだろう、家族は。兄弟がいなかったとも、思えない。
「話さなかったのは」
 口に出すのがつらいから。生々しい思い出の傷がいまもまだ血を流しているから。エリンには、それがわかる。この手が、愛した男の血に汚れているのを知っているからこそ、わかる。
「あぁ……そうか」
 コグサか師匠かはわからない。どちらからも、かもしれない。ライソンは忠告されたのかもしれない。エリンに会うなと。かすかな繋がりであったとても、ライソンが戦死すれば自分は悲しんだだろう、エリンは思う。今ここにまた新しい傷をつけるようなことはするな、とライソンは言われたのかもしれない。
「だから、来ねぇの? お前」
 呟いてみて、会いたいのだろうかと首をかしげる。考えても、わからなかった。なぜか店に馴染んでしまっていた若造の面影だけが、いまもまだここにある。来てほしいのだろうか。会いに来たら、自分はどうするのだろうか。思考を弄ぶエリンだった。そのせいかもしれない。見落としたのは。思わず横たわっていた寝台から跳ね上がる。
「師匠!? もうちょっと穏便に跳んでください。こっちは病人なんだ!」
「全快した、もう大丈夫って言い張っていたのは誰? あなたじゃないの、エリィ」
「それは……そうですけど。でも!」
「まぁいいよ、そんなことはどうでもいい。エリィ、用事がある」
 引き締まったフェリクスの表情に、エリンは唇を噛んだ。何が起こっているのかわからない。何かが起こっているのだけは、確かだったけれど。
「エリィ、体調は」
「だからもうほとんど平気ですって。そりゃ、……ちょっとは驚きましたけど」
「そう。跳べる程度には元気?」
「場所にもよりますけどね。平気ですよ。で?」
 一度フェリクスははっきりとエリンを見つめた。訝しそうな眼差しで応える弟子の手を取る。
「ほんとはね、心配させたくなかったし、言えば今でも心配するだろうし。あなたが万全じゃないのは、僕が一番よく知ってる。嘘ついてもだめだからね、エリィ」
「まぁ……繋がってますし。嘘ついても無駄だってことは承知してますけどね」
 精神に接触している師の心をつつけば小さく師が笑った。それからそっと首を振る。不意に嫌な予感を覚えてエリンは眉を顰めた。




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