エリンはどうしているだろうか。もう元気になっただろうか。少しでも、よくなっただろうか。
 思っても、ライソンはエリンに会いには行かなかった。行かれなかった、が正しい。コグサに聞いた彼の話。コグサはどうやら自分がエリンに惚れている、と思っているらしい。
「――違う」
 そのようなことではない。ライソンは思う。確かに話していて楽しいし、一緒にいれば面白い。ただ、それだけだと思う。
 ならば会いに行ってしまえばいい。体調を確かめて、以後軽い付き合いだけにすればいい。それがエリンのためになる。
「わかってんだけどな……」
 会いにも行けない、かといって宿営地で鬱々としていることもできない。結局、王都をふらふらとしている。毎日のように。コグサはどう思っているのだろう。一瞬にも満たない間考えて、止めた。
 エリンの店が遠目に見える。ここでいつも引き返す。店は開いているのか閉まったままなのか、ここからではわからない。エリンが元気になったのかどうか、窺うことすらできない。ならばいっそ、行ってしまえばいい。ここまで来ているのだ、行けばいい。それでもライソンは動けない。今日もやはり黙って背を返す。
「あれ――。あの時の子?」
 不意に背中に投げられた声。まさかこんなところで声をかけられるとは思ってもいなかったライソンだ。そのまま歩き続けた。
「こないだ、会ったよな。名前、なんだっけ?」
 ぽん、と肩を叩かれた。ようやくそれで自分に向けられた声だとわかる。え、と振り返ればそこに世界の歌い手がいた。派手な銀髪を背中で一つに結び、色違いの両目で微笑んだどこから見ても青年。魔術師以外の何者でもない彼の外見。魔法が彼から時間の流れを奪っている。――のだとライソンは聞いている。よく、わからなかった。せいぜいようやく三十代になろうか、というところだろうか。青年と言う年ではない気がしたけれど、屈託のない笑顔は充分に若さを感じさせた。
「エリナードの友達だよね?」
 友達、そう言われてなぜかどこかがずきりとした。きゅっと唇を噛んだライソンを、世界の歌い手タイラントは目を細めて見ていた。
「――ライソン。暁の狼の、傭兵です」
「あぁ、竜のコグサが作った傭兵隊か。コグサは元気かなぁ。前に会ったときは死にそうだったからね」
「え?」
 隊長が死にそうだったなどとても想像できなかった。唖然とするライソンにタイラントは少し歩こうか、と誘いをかける。素直についてきた若き傭兵にタイラントは微笑ましげな目を向けていた。
「シェイティ――フェリクスのことを俺はそう呼ぶんだけどね。彼が殺そうとしたからね。もう、思いっきり魔法ぶち当てようとして、咄嗟に止めなかったら絶対やらかしてた」
「あなたが……止めたんですか?」
 見た目だけを見ればタイラントは自分の長兄より少し上ほどの年か、と思う。生きていれば、だが。だがしかし相手は魔術師。たぶん親より年上だ。自然、ライソンの口調も丁寧なものだった。
「俺が!? 無茶言わないで! 俺が止めたら俺が殺される」
 とんでもないことをなぜかタイラントは楽しげに笑っていった。なぜも何もない、ライソンは気づく。世界の歌い手は氷帝の恋人。あの氷帝が恋をするのかと思えば少し、不思議な気がした。
「まぁ、実際は俺も、止めたんだけどね。ほんとに止めたのは、カロル様とリオン様。俺はちょっと手を出しただけ」
 星花宮が誇る四魔導師のうち三人がかりで止めた、というのか。空恐ろしい気がした。そしてコグサを思う。殺されるようなことをしたとは、思えない。
「隊長のことを心配してるね?」
「それは……まぁ」
「あれはね、シェイティが悪いんだよ。あの人、過保護だから」
 言った途端、なぜか今度こそわからない。タイラントが身を震わせた。まるで悪寒を覚えたかのような仕種にライソンは首をかしげる。
「あぁ、ごめん。なんかぞっとして。シェイティに聞かれたかなぁ」
 言って、けれどタイラントは楽しそうだった。彼にとって世界は明るく美しいもので満ちているのだろう。なんと言っても彼は世界の歌い手なのだから。そんなものばかりで満たされている世界はどのように見えるのだろう、ライソンは思う。違うものばかりを見続けてきた目だった。
「ライソンは、どこまで知ってるの」
「どこって……その」
「エリナードのこと。コグサのこと。その辺の色々」
「……だいたいは、隊長に」
 うつむいたままライソンは言った。それにタイラントがうなずく。ただ、黙っているしかできないライソンだと気遣ってくれたかのように。
「なるほどね。だからエリナードのとこに顔出さなかったんだ」
「え?」
「俺はね、ライソン。いまエリナードに薬を届けた帰りだよ。なのに、君は帰ろうとしてた。あの子のところに行かないでね」
 くすりと笑う色違いの目。派手な外見に反して、タイラントは誠実なのだとライソンは悟る。この外見に、吟遊詩人と言う職があればどんな女も男も選り取り見取りだろう。だがタイラントは氷帝一筋だ、と聞く。それだけでも、誠実な男なのだと理解してしかるべきだった。
「……行けないっすよ」
「どうして?」
「だって! エリンは……。俺は、エリンを傷つけたくない」
 言ってみて、はじめてそうだったのだとわかる。再びエリンがつらい思いをするくらいならば、二度と会わない方がいい。それでもこうして店の近くまで来てしまった自分。タイラントから顔をそむけ、ライソンは唇を噛む。
「ライソン、時間は平気?」
「え、あ。はい。まぁ、別に宿営地に待機してなきゃいけない用事もいまはないですし」
「うん。だったらちょっと飲みに行こう」
「はい!?」
 唐突な誘いにライソンは真正面からタイラントを見つめてしまった。なにを考えているのかわからない吟遊詩人にして魔術師。見たくらいで若いライソンにわかるはずもなかった。
「いやだったら無理には誘わないけど。どうする?」
「……お付き合いします」
 唐突な誘いに半ばは諦めたようなものではあったけれど、確かに自分の意志でライソンはここまでついてきた。話が聞いてみたかった、あるいは語りたかったと言うのが主な理由。だがなぜだ、とライソンは周囲を見回す。
「飲みに行くって聞いた気がしますけど?」
 なのになぜ、エイシャ神殿なのだ。神殿は居酒屋ではない、むろんのこと。訝しげな、というよりはさらに不審の強い表情のライソンにタイラントは肩をすくめる。
「酒場になんか行ったら面倒くさいんだよ。弾くのはいいけど、捕まっちゃったら君と話なんかできないだろ」
「あ――」
「だったら星花宮に帰って……とも思ったけど?」
「勘弁してください」
「だよな。君がシェイティに会うのはまずい。大変にまずい。俺と、せめてリオン様くらいは待機してないと、君の原型が残らなくなりそうだ」
 それなのにリオンはいま、神殿の用事で星花宮を留守にしている、とタイラントは溜息をついた。問題はそこなのだろうか、と思わなくもないライソンだった。
「俺が、なんで氷帝に」
「君がエリナードの近くにいた傭兵だから」
「でも!」
「あの子の昔の話は聞いたんだよね。だったらわかるんじゃないかな。シェイティは、また傭兵がエリナードを傷つけるんじゃないかって思ってる。馬鹿な筋肉の塊が、可愛い弟子を苦しめるって思ってる。別に君がどうのじゃない。強いて言えば、フィンレイだね」
「それは……」
「うん。昔の話なのにね。シェイティは彼がエリナードにしたことに対して、死んで詫びろくらい思ってるよ。というか、俺にはそう言った。ついでに、あぁもう死んでるか、なんて言ってたけど。ほんと、師弟揃って過保護だよ……」
 どことなく力ない笑みだった。最後の言葉の意味だけはわからなかったけれど、フェリクスがエリンをこの上なく慈しんでいることだけは、理解した。
「君はさ、ライソン。どうしたいの」
「どうって……。どうも、できないと思います」
「できるできないじゃなくてね、君は、どうしたいか、を俺は聞いてる」
 ライソンは目を見張る。そこにいるのが楽しげな吟遊詩人ではないと今更気づいた。星花宮の魔導師、でもない。何者とも規定できない。真に偉大な人間がそこにいる。世界の歌い手だ、と理解した。
「俺は……」
「先に、ちょっと助言をあげよう。シェイティも、コグサも君にはエリナードにかかわるなって言う。そうだよね? 遠くにいれば、あの子は傷つかない。でもね、人は一人で生きて行くことができるんだろうか。俺はそうは思わない」
「氷帝は、もう少しエリンが元気になったら、――そう思ってるんじゃないんですか」
「かもね。でもさ、大事に大事にしてるだけがいいことってわけでもないだろ。傷ついたっていいんだ。そこから立ち上がればいいんだから。それに、君が万が一エリナードを傷つけて苦しめたとしても、エリナードにはシェイティがいる。この世で絶対、唯一エリナードが全幅の信頼を置ける人がいる」
 それは、どう言う意味なのだろう。魔術の師弟とはそのようなものだと言うのか。それとも、別の意味があるのか。
「シェイティに、カロル様がいるようにね。ちょっとした昔話。ただし、他言無用」
 にやりと笑ってタイラントは自分とフェリクスの出会いを話してくれた。ライソンにも、詳細が省かれたのだとわかる話し方だった。それだけ、互いにどれほど傷つけあったのかがわかってしまう。
「それでもね、結局俺たちはいま、こうして一緒に生きてる。だったらエリナードにもそういう機会があったっていい。俺は、そう思う」
「でも、俺は……」
「友達でもいいと思うよ。別にあの子の恋人になれなんて言ってない。――だいたい、星花宮の魔導師は同性の恋人を持つやつが多すぎる! 俺はたまには弟子が可愛いお嫁さん連れてくるの、見たいんだよ! 誰も彼もみんなどうして好きこのんで男ばっか選ぶかなぁ。何でだって聞けばさ、師匠がそうなんだからしょうがないとか言うしさ。もう、俺だって返す言葉がないってやつだよね、それ」
 からからと笑う世界の歌い手タイラント。だがライソンは聞いていなかった。友達でいい、それで充分。言われた言葉だけが喉に突き刺さって声すら出せなかった。反論したかったのに。反論したい理由だけがわからないまま。




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