気づけば室温が戻っていた。先ほどの寒気は気のせいでもなんでもなかったのだ、とライソンはようやく納得した。
 魔力の暴走。話に聞いたことくらいはある。同僚のアランの話す他愛もない馬鹿話だと思って聞いていた。
「ほんとだったんだな」
 アランは言う。暴走などしたことはないし望めもしないと。自分にはそれだけの魔力はない、と自嘲するよう断言していた。
 つまりエリンには、それだけの力がある、そう言うことなのだろう。思えば付与魔術を使える魔術師だった、エリンは。魔力がないと思う方がどうかしている。のかもしれないがライソンには細かいことはわからない。
「エリン――」
 水でも持ってこようか。問いかけて、声を飲み込む。エリンは眠っていた。苦しそうな呼吸のまま、それでも眠っている。
 病人の看病など、どうしていいかわからないライソンだった。怪我人の手当てならば嫌というほどしてきているけれど、傭兵隊と言うのは基本的に健康体の人間ばかりがいる。
「つらいん、だよな?」
 なににうなされているのだろう。眠りの中で首を振るエリンだった。鬱陶しそうに首を傾け、また戻る。もしかしたら、長い前髪が気持ち悪いのかもしれない、ふと気づいたライソンはそっと髪をどけてやった。
「エリン?」
 閉ざされたままの瞼の向こう、彼はいま何を見ているのだろう。酷くつらい夢でも見ているような、そんな顔をしていた。
 起こしたほうがいいのだろうか。それとも眠らせておいたほうがいいのだろうか。そんなこともわからない。
 不意に、思い出した。幼いころのことを。自分より小さな、まだ母の乳を飲んでいたような弟のこと。小さな体で熱に苦しんで、泣く力もなく息をしていた小さな弟。せっかく良くなって、また母の乳をたくさん飲んで、母は母で病気の前より吸う力が強くなって痛いと笑っていた弟。村が襲われた時、火に巻かれて死んだ弟。あんまりにも小さくて、骨も残らなかった。母は腕に何かを抱きしめたまま息絶えていた。たぶん、弟だったもの。あの場に居合わせたならば、自分もああなっていたかもしれない。せめて小さな弟だけは助けられたかもしれない。
「もう……何年も思い出さなかったのにな」
 今ここで苦しむエリンを見ていたら、唐突とも言える激しさで思い出してしまった。忘れていたわけではない。ただ、記憶の底にしまい込まなければ生きてこられなかった。コグサはそれでいいと言った。忘れようもないことならば、抱えたまま生きて行くしかない、そのために強くなれ、コグサはそう言った。まるで自分自身に言い聞かせるような言葉の色合いを今も覚えている。
「あんたは――」
 何に苦しんでいるのだろう。本当の名を名乗りたくない理由はなんなのだろう。彼の人生に、いったい何があったのだろう。聞いていいことなのかわからないはずもない。聞いてはいけないこと。それでも。
「なぁ、エリン」
 また額にかぶさった髪をそっと手でどけた。ついでに額に浮かんだ汗も拭ってやれば、エリンの溜息。少しだけでも気分がいいのかもしれない。ふ、とライソンの口許が知らずほころぶ。
「……フィン?」
 それが、なぜかわからないままに、凍った。薄く目を開いたエリンが呼んだ名。たぶん名前だ、ライソンは思う。
「エリン?」
 それでも思わず呼び返してしまった。それが、悪かったのかもしれない。現実に、夢からエリンを引きずり出してしまった。
「な……」
 まだ額に置かれたままだったライソンの手。咄嗟にしては激しすぎる勢いでエリンは弾いた。傭兵のライソンが痛みを覚えるほど。
「お前――!」
「なんだよ? 水でも飲むか。うなされてたみたいだけど、どうしていいかわかんねぇからほっといたけど」
「お前……いま……」
 横たわったまま、半身を起そうとして、それでもかなわないエリン。片腕を寝台について、なんとか頭だけでも起こしてライソンを睨み据えていた。
「――聞いたよ。誰。俺と間違えたよな」
 水を取りに行きがてらだ、とライソンは内心に言う。扉に向かい、背を向けたまま問うのは。背中にエリンの視線が突き刺さっている。軽すぎる物音。振り返れば、諦めたよう、エリンがまた横になっていた。
「つらいのか」
「……ちげぇよ」
「でも」
「……そっちじゃねぇよ」
 どちらだ、と言いたいのか、付き合いの浅いライソンにはわからない。ようやく気づいた。奇妙なほどに親しくなった、そう思っているのは自分だけかもしれないと。エリンのことを何も知らない自分がここにいる。
「昔――」
 エリンの言葉を、止めたくなってしまった。先ほどの彼の師が言っていた言葉。このままで済むのか、そうエリンを問い詰めていた言葉。
「付き合ってた野郎がいた」
 寝台の側、立ち尽くすライソンになど気づいてもいないようなエリンの独白。閉ざされたままの目は、過去を見ているのだろう。
「明るくて、人望もあって、一緒にいて、楽しいやつだった」
 それだけではないだろう。ライソンにだとてわかる。エリンの声にあった色。失ってしまった絶望の色。
「他人が聞くと怒鳴り合いだって、いっつも言われてたな。こっちは楽しくお喋りしてたんだが」
 ふっとエリンが息を吐いた。懐かしくて、それ以上につらい思い出に。ライソンが弟を思い出すときに吐く息と似ていて違う吐息。
「剣を持たせりゃ無敵だったよ。誰もフィンには敵わなかった。馬に乗せたらもうありゃ竜巻みてぇなもんだよ。俺を後ろに乗せたフィンが戦場に出たら、台風だって言われてたがな」
「戦場……?」
「――傭兵だった。お前と同じ、傭兵だった」
 エリンはそこで目を開いた。漆黒の目にはそれ以上の闇。ライソンを見る眼差しには何もない。ライソンの後ろに、別の傭兵の影を彼は見ていた。小さく笑って吐き出すよう、嘲る。
「ぜんっぜん、似てねぇのにな。フィンは綺麗な栗色の髪をしていた。傭兵にあるまじき頭だな、あれは。長く伸ばして、後ろで結んで。馬の尻尾とフィンの頭と区別なんかつきゃしねぇ」
 はは、と乾いた笑い声がした。エリンの声だと一瞬ライソンはわからなかった。それほど違う声。開いた目が、天井を見つめる。それなのに、なにも見ていなかった。
「俺特製の剣を持って、戦場を駆け巡って。手柄をあげて帰ってきた。いつも一緒に戦ってるわけじゃなかったけどさ、なんでだろうな。なんであの日は、一緒にいなかったんだろうな、俺」
 ゆっくりとエリンの腕が上がっていく。失ってしまった恋人の影を抱こうとするように。見るに見かねて手を出せば、エリンの体が跳ね上がる。そしてようやくライソンを思い出す。
「その人は?」
 ここまで来たら話させてしまいたい。そんな優しさではなかった。ただ、聞きたかった。塞がりかけた傷口に爪を立てるような、そんな気分。ライソンの皮肉に歪んだ唇にエリンは気づくはずもない。
「フィン?」
 エリンが笑っていた。もう、笑うしかないとでも言うような、そんな笑い声。なぜか既視感を覚えライソンは眉を顰める。
 そしてぞっとした。あの日に、村が襲われて、自分一人が生き残ってしまったあの日に、焼け残った家の残骸の中、自分があげていたあの笑い声。
「死んだよ」
 唐突に笑いを収めたエリンの無表情な声だった。傭兵ならば、そのようなこともあるだろう。引退の年まで生きていられる傭兵のほうがずっと少ない。
「――俺が殺したんだ」
 だがしかし。ライソンの顔色が変わった。いまエリンはなにを言った。手を伸ばしても拒まれる。だから、乱暴に顎を掴んだ。
「あんた、いまなに言ったんだ? 俺の聞き違いだよな?」
 傭兵を殺したのか、という問いでは無論なかった。エリンが自ら恋人を手にかけるはずはないだろう、本当のことを言ってくれ。そんな問い。エリンは黙ってラインを見て、笑った。
「俺の魔法で、フィンは死んだ。直撃で、死体も残りゃしなかった」
「でも――!」
「俺は、選んだんだ! あの瞬間、魔法の着弾点にフィンが入る。悟った瞬間、選んだ。別の場所に軌道を歪めれば、他に被害が出る。フィンが率いてた三十人。被害が予測できる千人。――俺は、選んだ。フィンを殺したのは、俺だ」
「それは……」
「あぁ、くだらないこと言うなよ? 魔術師の魔法が来るってわかってるのに突撃したフィンが悪いとか、俺の魔法の着弾点くらいわからないフィンじゃなかったはずなのに何やってたんだとか。そもそも命令違反で突っ込んだのはフィンだとか。――そんなことはこの五年、何度も何度も気が違うくらい聞かされてる。それでも。――殺したのは、俺以外の何者でもない。フィンは、俺がこの手で殺した」
 自分の顔の前に掲げられたエリンの手。まるで捧げるようだとライソンは思う。自分自身を生贄にして、彼は何を望むのか。そんなことまで思ってしまう。
「今更俺がなに言っても――」
「無駄だってわかってんならするな。聞く気もねぇよ」
「でもエリン。あんたは――」
「こんなに苦しんでる。それをフィンが望むのか? あいつだって今頃後悔してるさ。――あぁ、はいはい。それも何度も聞いた。たまには違うことが聞きたいね」
 投げやりな声が潤んでいた。亡くした恋人への思い、後悔、自責。そんなものでは済まないのだろう。
「お前なんか、フィンとは全然似てねぇよ。――それでも、お前は傭兵だった。なんとなく……フィンの匂いがした」
 戦場の、血と汗と埃の匂い。ライソンがこの店に運んできたのはそれだったのだとエリンは今更ながら気づいた。
「俺は――」
「フィンじゃない。フィンは死んだ。俺が殺した。――あとは、コグサに聞けよ。フィンレイ。青き竜の副隊長、コグサの同僚だ」
 それきりエリンは黙った。天井を見上げたまま、無言で目を閉じもせず。泣いているのかと思った。泣くこともできないのだと、気づいてしまった。




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