呆然としていた、ライソンは。何が起こったのか少しもわからない。掴んだ手を放せば、崩れ落ちてしまうエリンがここにいる。それだけしかわからない。 「エリン……。おい、エリン……? どうしたんだよ」 聞こえるなどと思っていたわけではなかった。それでも問うしかできなかった。このままでは腕が痛いだろう、ようやく気づいて工房の床に横たえても、かすかな息を彼はするだけ。 ライソンは、自分の血の気が下がっているのだろうと思う。酷く体が寒かった。エリンはなおのこと寒いかもしれない。そう思っても動けなかった。 「エリン――」 このまま死んでしまうのではないだろうか。不意にそんな思いが湧き上がり、ライソンはすんでのところで悲鳴を上げるところだった。 若いとはいえ傭兵の自分が。その矜持にしがみつき、ライソンは耐えきる。一瞬とはいえ、いまのエリンが死んだ両親に、兄弟に、村人たちに見えてしまった。 「頼むよ、エリン。どうしたんだよ――」 先ほどの激情など、かすんで消えてしまった。ただひたすらな困惑だけが残ったもの。どうすればいいのか、わからない。 唐突にライソンが顔を上げた。さっと膝立ちになり、エリンを背中に庇う。これでも暁の狼の傭兵、背中に傷を受けるほど腕は悪くない。だからこそ庇うべき人は背後。そこだけは、絶対安全地帯。 剣を抜きかけるライソンは、先ほど捉えた感覚が増幅しているのを知った。ライソンが傭兵でなかったならばあるいは気づくことがなかったもの。空気が歪むような気味の悪い感覚。すなわち魔術師の転移。ライソン本人はどのような魔法かは知らずとも、体は魔法の感覚を捉える。 「な――」 エリンの工房に、魔法が満ちる。それだけは理解できた。それを起こす輩がどう言う魔術師なのかわからないからライソンはエリンを庇う。そこまではライソンの予想の範囲内だ。 「お前……」 闇エルフの子だった、魔術師は。いまこうして転移してきたのだから、魔術師なのだろう、たぶん。だがなぜエリンに。もしかしたら敵対しているのか。そこまで思ってライソンは闇エルフの子に見覚えがあると気づく。 「どこで――」 会ったのか。闇エルフの子に知り合いなどいない。すでに抜き切った剣を相手に向ければ、冷笑が返ってくる。 「僕を切る? そんなことしてご覧。その子に一生恨まれるから。それでよかったらやってみなよ。ほら早く。するんだったらさっさとしな」 口調にかすかな聞き覚え。否、エリンの語調。やっとライソンは気づいた。見覚えがあるはずも当然のこと。エリンと親しいあの青年。彼は人間だったはずだが、間違いはない。 「あんた、何もんだ。会ってるよな、この店で」 「ふうん。ようやく思い出したの。鈍いんじゃない?」 「あんたな!」 「いいから、ちょっと手伝いなよ。それだけでかい図体してるんだから、当然力持ちだよね。僕はその子を抱いて運ぶなんて器用な真似はできないんだ。手伝いなよ」 「テメ――」 「それと、武器を向けられて喜ぶ性癖はない。そのままだったら敵対した、と見做すけど。どうするの、戦うんだったらさっさとやろう。一応これでもその子が心配なんだけど」 「おい!」 「いいの。ふうん、いいんだったらさっさとして。こんなところに寝かしといたら体が冷えるじゃない。どういう頭してるんだか。病人をベッドに連れてくくらいのこと、考えつかなかったわけ?」 「まず聞かせろ、あんたは何もんで、エリンとはどういう関係だ」 返答次第では今度こそ本当に剣を向ける。ライソンの気迫はだがあっさりとかわされた。 「それはこの子が起きたら本人に聞きなよ。僕が言って信じるの。違うでしょ。あなたは僕がなに言っても信じない。そうだよね? だったら今ここで問答する意味、あるの。その子の具合が悪くなるだけだと思うけど」 もっともだった。非常に悔しいことに文句のつけようがないくらいもっともだった。ライソンは黙って立ち上がり、エリンを腕に抱きかかえる。悲しいくらい軽かった。 「どこ行くの。こっちだよ」 まるで我が家のよう歩いて行く闇エルフの子。ふつふつとこの胸に湧き上がってくる思いはなんだろう。ライソンは考えなかった。 「まったく! どうしてこの子はちゃんと片づけないかな! あなた、見るからに傭兵だよね。だったらちょっとくらいその子持ってても平気だよね」 寝室の扉を開けるなり、闇エルフの子は悲鳴じみた憤慨の声を上げた。確かに整っているとはお世辞にも言えない室内だとライソンも思わなくはない。脱ぎ散らかした服が散乱し、敷布はぐしゃぐしゃのまま。エリンの寝室を覗き見てしまった、そのばつの悪さよりも彼の内面を垣間見てしまったような申し訳のなさが先に立つ。 「いや……平気は、平気、だけど……」 「だったらそうして。僕は用事がある」 「おい、後にしろよ! エリンが――」 「こんな散らかったところに寝かせる方が体に悪い!」 一刀両断して魔術師は服を片付け、敷布を新しいものに取り換える。そのすべての動きに淀みがない。この家を熟知しているものの動きだった。 「いいよ」 ライソンが重いと思うほどの時間がかかっていない、それがまず驚異だった。いくら軽いとはいえ男性一人腕に抱いていたはず。 「……おう」 叩いて膨らませた枕にエリンの頭をそっと置くよう横たわらせれば、なぜか自分の両手がひどく冷たい。 「あんた、何――」 何をしているのか。問う言葉が途中で止まる。闇エルフの子は枕からエリンの頭を外させて、寝台に腰を下ろした自分の膝の上に彼の頭を置いた。そっと愛おしむよう髪を撫で、そして。 「僕の声が聞こえるね? 聞こえないなんてほざいてごらん。強姦するよ。嫌だったら起きなさい」 なんと言うことを言うのか、この男は。危ういところで怒鳴りかけたライソンが止まる。エリンの薄青い瞼が開いて行く。 「……なんか、やたらと不穏な台詞が」 「そりゃね。僕だって二度も三度も同じことはしたくないし?」 「まぁ、そりゃそうですよね。……って師匠!? なんでここに!」 「そろそろ倒れる頃合だと思ってたし。それに自分の弟子が暴走したのに気づかないほど腕が悪くもないんだけど?」 室温がひどく下がっていた。エリンの魔力が暴走した結果だった。魔力の流出という形で現れる彼の暴走。かろうじて破滅を止め得たのは、ひとえに闇エルフの子の魔術師の技術だった。 「それは、まぁ……」 「エリン! その、大丈夫なのか……いま、なんか妙なこと聞いた気が……」 ぬっと顔を出すライソンにやっとのことでエリンは焦点を合わせる。正直に言えば今は他人との会話をしていられる気分ではなかったのだけれど。暴走自体は収束しつつあっても、いまだ魔力の流出は止まっていない。こればかりはエリン自身が回復するより他に方法がない。 「エリン、この人は誰なんだ。俺は、この人を入れてよかったのかよ」 真摯な若い傭兵の目から、エリンは目をそらす。誤解されようが曲解されようが知ったことか。そんな気になるのは暴走中だからか。 「ちゃんと受け入れて。このままじゃ喋るのもつらいでしょ」 「……平気です。すぐに」 「ふうん? だったら僕は、自分の弟子の体調を見誤ったってわけだ。そう、この僕が、ね? ねぇ、可愛いエリィ、もう一度聞くよ。つらいよね、受け入れるの、どうなの」 「――はい、受け入れます。ありがとうございます」 「けっこう」 くすくすと喉の奥で笑った魔術師の、なにを受け入れてどうなったのか、ライソンにはわからない。それでもエリンの顔色が少し、よくなった気がした。 「――この人は、俺の師匠だ。入れてよかったか? 入れなきゃ、死んでたよ」 投げやりな言葉。師匠だと言う男の膝枕のまま、エリンは顔をそむける。ライソンは見たくないとばかりに。 「エリィ。僕を拒まない。見られたくないことがあるんだったら、見ないから。その辺はお互いの信用ってことでちゃんと受け入れる。僕の魔力はあなたに比べたら無尽蔵だ。好きなだけ取りなよ。死にたいの」 「別に……死にたくは……」 「だったらちゃんと回復する。いいね」 膝枕のエリンが師の膝に押しつけるよう、うなずいた仕種。ライソンこそ、目をそらした。 「受け入れるって、なんだよ。俺にわかるよう誰か説明してくれよ」 「誰か? そう言うのガキの言い草って言うんだよ。エリィが説明できる状態だとあなたは思うわけ? 素直に解説してくださいって言いなよ」 「解説してくださいー。けっ」 ライソンを睨んだ師の手をエリンはとる。まるで止めているようだった。その辺にしておいてください、と頼むような手だった。ちらりと視界の端で捉えたライソンがほっと息をつく。 「傭兵であってるの。だったら魔術師と付き合いがあるんだからわかるでしょ。暴走だよ、暴走。この子は暴走すると魔力を流出させちゃう。僕ら魔術師にとって魔力と言ったら体力も同然だからね。いまは精神を接触させて、僕の魔力を分けてる。それを受け入れろって言ったの、遠慮なんかいる間柄でもないしね。これでいい?」 一応は丹念な説明をしてくれたつもりだろう男にライソンはどこかを見たまま頭を下げる。が、彼は見てもいなかった。エリンの髪をそっと撫でていた。 「もう少ししたら、薬が届くよ。ちゃんと飲むんだよ。だから、それまでに体が起こせる程度には回復すること。いいね」 「薬――」 「ボケ神官に頼んであげたんだよ、この僕がね。そもそもきちんとした生活をしないから、こんなことになるんだ。あんまりひどいと帰って来いって言うよ」 「それは……」 「一人暮らしがしたいなら、日常生活くらいはまともにすること。僕だっていつもいつも飛んできてあげられるとは限らないんだよ、エリィ」 そう言いつつ、いつもいつも飛んできてくれる師だと、エリンは知っていた。何度も何度も手を煩わせた。それでも見捨てずこうして側にいてくれる師。縋りつけば、自分より小さな手なのに、包み込むよう握ってくれる手。 「師匠――」 子供に戻ったような涙まじりの声からライソンは耳をそむけたかった。それでも凝視していた。 |