用もないのに暇を見つけてエリンの店にやってきたのはこれで三度目だ。ライソンは手馴れてきた扉の開け方に自分で少し、笑ってしまう。はじめはあれほど気味の悪い扉だったのに、と。 「――また人相悪くなってる。ちゃんと食べてるの」 店の中から話し声が聞こえてきた。前回の訪問時にも聞いた声。ライソンは二人が気づくより先に黙って外へと出て行った。 「なんだよ、あれ」 ちっと舌打ちをしてしまってから、そんな自分に気づく。驚いて両手を見つめ、ライソンは首を振った。よく、わからなかった。 それでも気分が悪いことに違いはない。なぜか、見当もつかないけれど、不愉快でたまらない。賭場にでも行くか、と思ってやめた。負けるに決まっている。 苛立たしげに街を歩けば、嫌でもあの男が思い浮かんでしまう。前回エリンの店にいたあの男。自分と年はたぶん、それほど変わらない。それなのに華奢で細身でまるで少年のような男だった。 「ちぇ」 それなのにエリンが微笑んでいた。その男に向かって文句を言いながらも小さく笑っていた。大丈夫、心配しないで。そんなことを言うエリン。それでもエリンを案ずる相手の青年。エリンの頬に触れていた青年の指先。照れながらも黙って触れさせていたエリン。 「あんた――」 俺が抱いたときにはあんな顔、しなかったじゃん。内心で思ってぎょっとした。立ち止まってしまっていたライソンを通行人が邪魔そうに見やる。さすがに傭兵の体格を恐れてか、文句を言うようなものはいなかったけれど。 「なんか、腹立つな」 だったらこのまま宿営地に帰ってしまおうか。別にエリンに用事などない。店に行っても邪魔だから帰れと言われるだけ。それもわかっている。 「でも」 なぜだろう。とても会いたい。エリンと他愛ない話をしているのが、楽しい。エリンは、どう思っているのかは知らないけれど。 「やっぱ、邪魔?」 あいつみたいには、気を許してはくれない。思ってライソンの唇が歪む。苛々と歩き回るくらいならば、いっそさっさと邪魔だから帰れと追い返されに行こう。決めて再び歩き出す。それでも一度立ち止まったのは、菓子を買うため。 「これ、五個な。蜜、たっぷりかけてくれよ」 露店の揚げ菓子屋だった。親父がにんまりとして紙袋に菓子を詰める。 「兄さん、女にかい。俺んとこのは人気あるぜ。巧くやんなよ」 「そんなんじゃねぇよ。ま、巧くやれってんだったら色つけてくれよな。蜜もっと!」 「蜜蜜蜜って兄さん、ガキかよ!」 笑いながらも親父は菓子にこれでもかとばかりに蜜をかけてくれた。うっとりと微笑むライソンに、これは本気で女ではないと見極めたのだろう親父が肩をすくめて袋を寄越す。ほくほく顔で受け取って、こんなもので気分がよくなる自分を思う。 「エリンー。おやつ持ってきた。食おうぜー」 できればもうあの青年はいませんように。思ったけれどどこかで予想していた気もする。 「ん、お客さんだね。だったら僕は帰るよ」 「いいですよ、別に。客じゃねぇだろ、お前」 ちらりとライソンを見やったエリンの態度に険がある。嫌われているのかもしれない。ふと思った。 「なんてことを言うんだかね。店にきたんだからお客でしょ。いいよ、気にしないで。また来るよ」 送ろうとするエリンを青年は笑って手で留めた。その後ろ姿をエリンがじっと見送っている。どことなく寂しげな姿だ、ライソンは唇を噛む。 「エリン」 背後に立てば、振り返りもしなかった。それでも言葉の続きを待っている気がした。肩に触れれば、嫌そうに体をゆする。 「俺、邪魔だった? 来ちゃだめだったら、来るなって言えよ」 「言っても来るんだろうが、お前は」 「本気で言われたら――」 「いいから、土産寄越せ。腹減ってんだよ。またあの菓子かよ、進歩のねぇやつだな」 ふん、と鼻で笑ってエリンはライソンから紙袋を奪い取る。すれ違いざまに、ライソンの胸を拳で叩いて行った。 気にするな、とエリンの拳が言っていた。これは自分の問題であって、ライソンとはかかわりのないことだから、気にしなくていい。お前は悪くない、そう告げるようこの胸を叩いた拳。 「気にしたいんだけど?」 小さく呟いても、茶を淹れに行ってしまったエリンには聞こえないだろう。ライソンは叩かれた胸を軽く押さえ、居間へと向かう。店の奥、工房の手前に居間があるのをすでに知っている。 歩きながら、ふと違和感を覚えた。何かがおかしかった。 「ん?」 そして胸にあてたままの手に気づく。思わずじっと見てしまった、自分の手を。自分はいま、エリンの言葉を正確に読み取った。間違ってはいない確信がある。 だがなぜだ。ライソンは不思議でならない。魔術師のエリン。鑑定屋のエリン。まるで傭兵仲間のような態度で気にしなくていいと無言で語りかけてきたエリン。 「あんたのこと、わかんねぇわ」 わかりたい気がする。話してほしくはない気がする。あの青年がエリンにかかわっているのならば、それだけなにも知りたくない。 「どこで油売ってんだ。俺の店はそれほど広かねぇぞ」 居間から聞こえてくるいつものエリンの声。ライソンはそっと唇だけで笑ってみる。うまく笑えているのだろうか、自分は。 「はいはい、別にいいじゃん。飾ってあるの見てただけだっての」 「売ってやらねぇし。買えねぇし」 「買わねぇし。買えねぇし!」 「情けないね、坊や。いつか店ごと買って見せるくらい豪語しろよ、若造なんだからよ」 「店ごと? あんた付きだったら考えるよ」 「どこの狒々爺の言い分だ。ガキが」 吐き出すエリンが笑っている気がする。声は聞こえるけれど、顔はよく見えない。苛立って伸ばしたライソンの手をエリンは払った。 「なんで払うんだよ」 「坊や、いきなり顔の前に手が出てきたらお前はどうすんだよ、あん? 自分がやるだろうことを俺がしたからって俺を責めんな」 「だって!」 「鬱陶しいし邪魔だ」 言えばライソンが途端にしゅんと萎れる。青菜に塩をかけたとてこれほど萎れないだろう有様。エリンは内心で小さく微笑む。嘘や冗談ではないライソンの態度。それがわかっている。だから微笑んでしまうのかもしれない。 「――この前髪がな」 「はい!?」 「なんだよ? 髪の毛の話してたんだけど?」 「そうは聞こえなかった! あんた、ぜってぇわざとだろ、いまの!」 「なんのことだ?」 前髪に隠されたエリンの顔。見えなかったけれど唇だけはよく見える。にんまりと笑っていた。人が良くはなさそうなその笑みを、一度だけはっきりと見た彼の顔に当てはめてみる。この上なくぴったりで、少しばかり背筋が寒くなった。 「――まぁ、邪魔は邪魔だけどな、坊や。見られたくねぇから伸ばしてんの、おわかり?」 「あ」 「それなのに不用意に手をだされりゃ、当然払うよな」 同意を求めるような、教え諭すような言葉。ふいにエリンが遥か年上の魔術師なのだと気づく。態度こそ、とてもそうは思えなかったけれど。 「別に店に来るなとは言わねぇし、言っても無駄みてぇだし。コグサが文句垂れてないとこみりゃ、一応、隊のほうの仕事はちゃんとしてから遊び歩いてるみたいだしな。だったら文句は言わねぇよ」 「言ってんだろ」 「追い出してねぇだろ」 「まぁね」 「だろ。だからさっさと座れよ、茶が冷めんだろうが」 ライソンも手を払われて、怒られて混乱していたことは確かだった。黙って座ったのはそのせいに違いない。 だがそれ以上に困惑していたのはエリンだった。先ほどの客が何か策略を仕掛けて行った、と考えた方がどれほど気が楽になることか。 事実は違うことがわかっているから頭がおかしくなりそうだった。自分が口にしているはずの言葉。見せているはずの態度。それがこんなにも薄っぺらい。 なぜ当たり前に生きている。どうして自分は生きている。 久しぶりにそんなことを思った。ライソンのせいに違いない。彼の咎では、なかったけれど。 「エリン?」 茶を注ぎかけたまま、エリンが止まっていた。ライソンの声に慌てて首を振る。そんな姿も彼にしてはたぶん、珍しいのだろうとライソンも思う。 それほどの知り合いではない。こうして時折店に顔を出す、客ではない面倒な相手、それだけでしかない。 「ほんと、お前これ好きだよな」 誤魔化すようなエリンの声。なにを誤魔化したのかはわかるはずもない。ライソンはエリンの態度に気づいただけで、笑って聞き流した。何もできない自分には、それがせめてもだった。 「……ガキの頃さ、すげぇ好きだったんだよ。年に一度のお祭りの屋台で年に一度だけ、買ってもらう。すげぇ珍しいお菓子だと思ってたのにさ、こっちじゃごろごろしてんだぜ? 俺のあの憧れは何!?って言いたくなるよな」 ひょいと摘まんでライソンは菓子を口に放り込む。ただひたすらに甘かった。そして油っぽかった。子供のころにはもっと旨かったはず、そう思っても思い出の味と言うのはこんなものかもしれない。 「エリンさ、そう言うのってある?」 何気なく聞いたはずが、けれどエリンには悟られた。無言で立ち上がってしまったエリンの後姿にライソンは唇を噛む。詮索するな、そうコグサから釘を刺されていたはずなのに。 「ほれ、食えよ」 うつむいたライソンの前、新しい皿が出てきた。少しばかりいびつな焼き菓子。無言で口に運べば、干し果物の甘み。そして。 「なんか、苦いんですけど。エリンさん」 「焦げてっからな。――俺がガキの頃好きだったのは、それだよ、坊や」 「焦げた菓子がお好きとは変わったお子様で」 「うっせぇ。これでも巧くなったほうなんだっての。昔は……本気で食えたもんじゃなかったからな……」 それでも嬉しかった、大好きだった菓子。味ではなく、作ってくれたその心がなにより涙が出るほど嬉しかった。 思い出に緩むエリンの唇を、ライソンは黙って見ていた。 |