約束の三日が長かった。いっそその前に会いに行ってしまおうかと思ったほど。だが考えてみれば用がないことを思い出す。 王都に急ぐライソンの足は、だから常よりずっと早かった。うきうきと弾んでいるか、と言えばそのようなこともないのだけれど。 「よう、いる?」 汚い店の扉が今度は抵抗なく開けられた。やはり楽しみにしていたのだ、とライソンは思う。ただ、意味はよくわからなかった。短刀ができあがってくるのが楽しみなのか。それとも得体の知れない魔術師に会うのが楽しみなのかまでは。 「見てわかんねぇのか。いるに決まってんだろ」 ひょい、と覗き込めば声の主が店の奥まった場所で本を読んでいた。どことなくその姿にコグサとの相似を見てライソンは苦笑する。 「できてる?」 「おうよ。さっさと金払って帰れ」 「って、きた途端にそれかよ。あんた、客商売向いてねぇんじゃないの。一応、俺。客なんだけど?」 からからと笑う声にエリンはそっと目を閉じる。前髪を伸ばしたままにしておいてよかった。心底からそう思う。 「客? この程度の仕事で俺の客を名乗んじゃねぇよ」 鼻で笑って短刀を手渡す。さすがに放り投げはしないか、とライソンはまたも苦笑する羽目になった。いかにもそうしたそうなエリンの態度だった。 「――いい短刀だな」 鞘から抜いて刃の具合を眺めていたライソンへの言葉に彼はうなずく。ゆっくりと明かりにかざせば、美しい刃だった。 「親父の形見なんだよ」 ぎょっとしたようエリンが止まっていた。一応は客、と言った言葉を気にしてくれたのか、茶の支度をしてくれていたものを。 「……すまん。失言だ」 「別に。答えたのは俺だし。嫌だったらはぐらかすから気にすんなって」 「……まぁな」 苦い声とともに出てきた茶。喉の渇きにありがたく口をつければ爽やかな香りがした。思わず目を瞬いてしまう。 「なにこれ。すごい旨いわ」 きらきらと屈託なく輝く目をしていた。若い傭兵らしい希望の目。今日も明日もまだ何もかもが自分の前に開けていると信じて疑わない、否、信じる必要すらもない目。 「魔術師だからな」 エリンは肩をすくめて目をそらす。とても見ていられなかった。その姿をライソンが小さく笑う。 「脈絡、ないんですけど。意味わかんねぇって」 「なにがだ」 「茶が旨いって言ったら、魔術師だからって答えられたら俺ら傭兵はどう答えりゃいいんだっての」 軽く茶器を掲げた仕種に、エリンは眉を上げる。もう飲んでしまったのだろう。改めて注いでやれば嬉しそうな純な顔。 「魔術師は、薬草の類も使うもんなんだよ、小僧」 実際はそうでもない。殊にエリンほどの腕があれば。だが現状、エリンは薬草にも手を出している。魔力の不安定が原因だった。 「ふうん、そういうもんなんだ。薬草も使うから香草もってことか。道理で茶が旨い」 「ジジむせぇやつだな。お前の年なら茶より酒だろうが」 「酒も好きだよ。でも真昼間っから飲んで騒ぐほど落ちてねぇよ」 肩をすくめるライソンの態度にコグサの教育を見る思いだった。あの男もまた、そのあたりの規律にはうるさかった、と。 「これ、忘れないうちに代金の残りな。足りる?」 「あぁ、問題ない。今後ともご贔屓にっと。で、さっさと帰れ」 「エリンな!」 乾いた風のような澄んだ声でライソンは笑う。それだけで、この数年に淀んだ痛みと後悔の滓が吹き散らされていくような。だからこそ、エリンはそれを抱え込む。まだまだ抱いていたかった。 「これさ――」 すでに腰に佩いた剣の側、エリンが魔力付与した短刀はつけられている。どこかしら誇らしげにライソンはそれに触れていた。 「親父が最後に打ったやつなんだ。いい刃してるだろ」 「……まぁ」 「けっこう名の知れた刀鍛冶だったんだぜ、俺の親父」 鞘は自分の手製なのだろうか、名の知れた刀鍛冶が注文したものとしてはずいぶんと出来が悪いようエリンは思う。それでも充分に使い込まれた短刀。ライソンと言う男の姿を見るより、はっきりとした彼がそこにいる。 「――もう、六年近く前になるかな。俺はこの王都からずっと南のちゃっちゃな山村みたいなとこの生まれなんだけど」 「待て。俺に話す気か、それ」 「あんた以外に誰がいるんだよ、今ここに?」 茶化してライソンは笑う。エリンは答えられなかった。突然に昔話をはじめた若造に、どう対処するべきか。 「あぁ……一応言っとくか。別に俺の身の上話の礼にあんたの話しろとか、言わねぇし」 「お前!」 「だから言わねぇっての。傭兵の基本だからな、そんなのは」 エリンの顔色が変わった気がした。顔などほとんど見えもしないのに、はっきりとわかる。だからそれはエリンが体中で拒絶した気配だったのかもしれない。ただ、なにを拒絶されたのかまではライソンにはわからない。 「俺が喋りたいだけ。聞いてよ、思い出話」 ゆっくりと茶を飲み、ライソンはエリンを窺う。言葉はない。だが気配が和らいだ。それを同意と取ってライソンは再び口を開く。 「普通の、平和な村だったんだけどな、俺の村。いきなりだよな、急に変わる時なんてそんなもんだ。いまは、わかる。でもまだ俺、ガキだったし」 「いまも……ガキだろうがよ」 「言うなって」 何も気にしていない、ただの世間話の延長でしかない。そんなライソンだった。あるいはそのせいかもしれない。追い出さなかったのは。少なくなった茶を注ぎ足してやったのは。菓子まで出してやったのは。 「盗賊が出てるって話はさ、聞いてたんたぜ、俺も。でもまさかって思ってた」 「おい……それ……」 「うん。いきなり全滅。ご領主はなんにもしてくれなかった。たまたま通りがかった傭兵隊がいなかったら、俺も死んでた」 「それが?」 「うん、隊長。ほんとはまだ傭兵隊じゃなくて、起こす寸前だったらしいけどな」 だから自分にとってコグサは憧れなのだとライソンは言う。憧れで、そして命の恩人だと。あの日から、戦い方も傭兵としての振る舞いもすべてコグサに仕込んでもらった。一人前にはまだ遠くても、日々近づきつつある。ライソンは思う。 エリンは黙ってライソンに向けて菓子の皿を押しやっていた。思いやりに見えるだろうか。見えてほしい、そう思う。 真実は、違うところにあるから。六年近く前のそのコグサがなにをしていたか、エリンは知っていた。当時の自分と共に思い出したくなかった。 「俺さ、いつかは隊長も引退すんだろ。その時に養ってやんの、夢なんだよ」 「年寄いびって遊ぶのか。いい性格してんな」 「なんでそうなんだよ、あんた。どういう性格してんだかな」 「生憎こういう性格だ。払うもん払ったんだろうが。さっさと帰れっての」 「だからさー。それまでに俺は絶対に一流の傭兵になってやるんだ。そう決めてんだ。隊長に恩返し、するんだ」 エリンの嫌そうな声を完全に無視してライソンは決意を語る。もしかしたら誰にでも話していることなのかもしれない。決意を新たにする意味で。そうであればどれほど気が楽になることか、エリンは内心でそっと息をつく。 「そういや、隊長。驚いてたぜ」 「なにをだよ。いいからとっとと喋るだけ喋ってさっさと帰れよ。俺は仕事があんだよ、小僧」 「ん、あんたのこと」 「俺? 一応は聞いといてやるがな、坊や。よもや口滑らせたんじゃねぇだろうな?」 二人の間に何があったのかを。エリンの示唆にライソンは大袈裟に震えて見せる。自ら両腕で体を抱えて見せるのに、エリンは見えないよう小さく笑った。 「言ったら俺、短刀取りにこられる訳ねぇだろ。ばっさりやられんぞって言ったの、あんただろ」 「やってねぇから驚いたのかと思ってな」 「まさか! そっちじゃねぇし。あんただよ、エリン」 不意に、ライソンが若い傭兵ではなくなった気がしてエリンこそ震える。本物の震え。だからこそ、必死で隠す。別人に、見えていた。その柔らかな笑みの形が、ライソンを年嵩に見せていた。 「あんたにぽんぽん怒鳴られたって言ったら、隊長。腰抜かしそうだったぜ」 意味などわからない、でも面白かった。ライソンの笑い声にただひたすらに純粋を聞いた。あんたも面白いと思うだろ。彼の声はただそれだけを言っている。理解できてしまったエリンは、肩をすくめるだけ。 「俺さ、隊長は恩人で、それ以前に尊敬してて、大好きだ。あんたと喋ってんのも楽しいよ、エリン」 「――だからなんだってんだ、帰れって言ってんだろうがよ」 「だからさ、なんてーの。隊長とあんたが仲悪くっても、俺は別にそれはそれでしょうがねぇし。でも俺はどっちとも仲良くしたいなってことなんだけど?」 「仲良くだ? ガキが生意気ぬかしてんじゃねぇよ」 ようやく鼻で笑えた。それにも気づかないからライソンはまだ子供だ、とエリンは思う。思って自らを立て直す。 「だいたい、別に仲は悪くねぇよ。あれは……あの野郎が俺の八つ当たりを甘受してんだけだ。俺はコグサに八つ当たりする理由がある。コグサはそれを受け入れる理由がある。ガキにはわかんねぇ大人の事情ってやつだよ、坊や」 ふん、と鼻を鳴らして、だがエリンは青ざめていた。いま語ったのは誰だ。自分はそのようなことを言うつもりは微塵もなかった。 「それ、隊長に言ったらどうなんの」 「言ったら二度と店には入れねぇ」 口止めしたはずが、ライソンがにやりと人が悪そうに笑った。人懐こい笑みのほうが似合う。思った途端に否定する。笑顔など、見たくない。 「それって、また遊びに来てもいいってことだよな、エリン?」 エリンが返答をする暇も与えずライソンは身をひるがえす。笑いながら店を出ていく軽い足取り。エリンは今更気づく。すぐそこに置いてあった油の染みた紙袋。近所の揚げ菓子屋のものに違いない。土産だったのかもしれない。 |