荒い息を吐く自分の体の下から、舌打ちが聞こえた気がした。重かったか、と慌てて退けば、それに合わせるよう押し退けられた。 「ガキが」 吐き出すような口調にライソンはよりいっそう慌ててしまう。何か、非常に怒られている、そんな気がしてたまらない。 「お前な、コグサに俺を抱いたなんて言うんじゃねぇぞ」 さも嫌そうにその辺にあった布で体をぬぐい服を着る魔術師を、ライソンはぽかんとして見ていた。そもそも言えるはずのない話題だろう、と反論すらできないで彼を見ている。 「え――」 思うのは、やはり隊長の男だったのかとの思い。あれほどの美貌だ。ここまで美しいと性別がどうのなど関係なくなってしまうだろうとも思った。 現に自分はどうだ、とライソンは思う。いままでの拙い恋愛経験を持ち出すまでもない。エリンを見るまで、同性を抱こうとしたことなどただの一度もありはしない。 「やっぱ……」 呟いた途端、ライソンは殴り飛ばされていた。確かにいまだ裸でぼんやりと床に座り込んでいたのは自分だ。だが傭兵だ。いかに経験が少なくとも、傭兵だ。 その自分を殴り飛ばした魔術師を見上げれば、やはり表情は髪に隠されて見えなかった。 「コグサとできてるなんざァ、想像されるだけで虫唾が走る!」 言ってエリンは殴った拳が痛いのだろう、反対の手で覆っていた。それにライソンは正気づく。はっと飛び起きてエリンの拳に触れた。 「なにしてんだよ、小僧」 「あの。ごめん」 「別に?」 まるで自分のほうが痛がっているようなライソンの顔だった。後悔が顔中に広がっている。ふ、と気が緩む自分を感じてエリンは顰め面をする。 「痛かったよな、ごめん。本当に、ごめん」 「謝んの、そっちかよ、え?」 「え?」 「いきなり襲い掛かられた身にもなれってんだ。コグサに言いつけたいのは俺だぞ、ったくよ。ガキの躾もなってやしねぇ」 「え、あの? エリンさん?」 たらたらと文句を垂れる魔術師に、ライソンはまたも慌てる羽目になる。いきなりがどうのなど言われても、意味がわからなかった。 「おいガキ。とっとと服着ろ。それとも、足らねぇか? 若いねぇ、坊主」 ふん、と鼻で笑ってエリンが服を放ってよこす。それには赤面せざるを得ないライソンだった。 「あのさ、エリン。いきなり襲われたって、その――」 そんなつもりは毛頭なかった。というよりあれは合意の上ではなかったのか。思った瞬間、エリンが最初は戸惑っていたようにも思い出す。 「はぁ? なに言ってんだ、このクソガキが。きっちり襲ったくせに言い逃れかよ」 「襲った気はないって言ってんだろ! あんただって……」 「俺はな、小僧。言いたかないが魔力が安定しねぇんだよ」 「はい?」 苦々しげな声の意味がライソンにはわからなかった。なんと言っても若い傭兵でしかない。付与魔術が使えるような一流の魔術師の魔力が安定しない、という意味がわかるほど世故長けてもいなければ知識もなかった。 「うっかりお前を魔法で跳ね飛ばそうとすると、どうなるか。お前は死亡確定。工房は血肉でどろどろ。掃除の手間を考えたらな、素直に襲われといたほうが楽だったんだ、わかったか」 「だって、あんただって!」 語られた内容のほうをライソンはきっぱりと無視した。脅しが半分、あるいはそれ以下であることは察していたけれど、それでもエリンは殺そうとはしなかったのだから。 「なんだよ」 「その、脱いでたし。その気、なのかなぁ、とその」 「あぁ……」 それは同意の返答ではなく、ようやく納得したとの声。ライソンはこの魔術師と自分の間に決定的な齟齬があったのを今更理解する。 「エンチャントすんのに、お前の体がどう動くのか知らねぇとできないからな。肉のつき方、動きの癖。裸に剥くのが一番手っ取り早い。ついでに、俺が脱いでたのはな、坊や。お前の体を自分の体で測るためだ、馬鹿が! こっちは魔力が安定してねぇんだ。基準がいるんだ基準がよ。勘違いしやがって。ったく、若造はだからやなんだよ、面倒くせぇ」 「え、あ……その……。ごめん」 仕立て屋ではないのだから、巻尺で測ってどうなるものでもないのだろう。そもそも寸法を取っていると言うよりは、魔力付与するための参考に必要だった、ということなのだとはじめてライソンは理解する。さっと青ざめた。 「その――」 「野郎を相手にすんのは別に初めてじゃねぇし。こっちも久しぶりで溜まってたから気にすんな。別にそれを怒っちゃいねぇよ。ただ――」 「隊長には言いません、はい」 「言ったらお前、宿営地中を追いかけまわされて切られるぞ、間違いなく。あ、いや。それはないか」 「ないない、隊長は――」 「コグサ、あれで腕はいいからな。言った瞬間、一刀両断。ばっさり真っ二つだな、お前」 それを楽しげに言わないでほしい。心からライソンは思う。が、ほんの少しエリンが笑う声が聞こえた気がした。それでいいような、そんな気がしてしまう。 「なぁ、あんたさ」 ひょい、と近づけば嫌そうな態度。当たり前かもしれない。勘違いで襲い掛かってくるような若い傭兵に好意を持つはずもない。内心でライソンは苦笑する。 「どうして顔隠してんの。もったいない。すげぇ美人さんなのに」 「野郎に面眺められても嬉しくねぇからだよ」 「ふうん、綺麗なのに」 無造作な手がエリンの額に触れた。前髪をかき上げられて、顔があらわになる。真正面から覗いてくる傭兵からエリンは目をそらしたくない。だから睨んだ。 「やっぱエリン、綺麗じゃん」 「お前な、一回やったくらいで俺の男ってな面してんじゃねぇぞ」 言うと同時に顔から手を払う。武骨な傭兵の手が、額に触れている。武骨なくせに優しい手が触れている。耐えられなかった。 「してない、してないって」 思い切り頭を振りながらもライソンは笑っていた。癇に障ると言うより気が抜ける。 「もういいから帰れよ、仕事にならねぇっての」 片手を振れば渋々とライソンが帰り支度をはじめる。それでも未練がましげな気配が濃厚に残っていて、エリンは内心で小さく笑う。 「三日後に来いよ」 言えば猛然とライソンが振り返った。尻尾があれば間違いなくちぎれそうな勢いで振っていたに違いない。思ってエリンは唇を噛む。笑いを噛み殺すのなど、何年ぶりになるのだろう。 「え、来ていいの!?」 「お前な、俺に注文出したんだろうが。短刀のエンチャントだ。三日もありゃ充分だな」 肩をすくめる魔術師に、それがどう言う意味の言葉なのかライソンにはわからなかった。隊に戻ったら同僚に尋ねよう、そう思う。腕の良し悪しがわからなくて、すごいと言うこともできない、それが寂しいと思ったライソンは、だからもうただ褒めたかっただけかもしれない、この魔術師を。 エリンはライソンを見送りはしなかった。ゆっくりと工房を眺め渡していただけ。小さく溜息をつく。 「ガキが」 肌から立ち上ってくる男の匂いがたまらなかった。他人の匂いが自分の肌から香る、そんな経験をすることがなくなって何年になるのか。 小さく呟いたエリンの掌、美しい珠が乗っていた。見ればそれは、水の珠だった。魔法によって集められ、球形にされた水。 「この程度なら、な……」 なにを失敗することもない、当然だった。魔術師にとっては初歩の初歩。その珠を器用に操り、エリンは体を拭っていく。いわばエリンの、これが水浴びだった。 「横着するなって、叱られたよな」 昔のことを思うとき、エリンの眼差しは和らぐ。誰もいない今だから、髪をかき上げた。水の珠の表面に、自分の顔を映してみる。 「ずいぶん、変わったよな」 昔と今と。魔術師にとって流れる時間とは、普通の人間のそれよりもずいぶんと優しいもののようにエリンは思う。 だから、たった数年で変わるはずもない、容貌など。それでもエリンはそう呟いた。溜息と共に。 「戻りたいって言ったら。師匠」 必ず快く迎えてくれる。その自信がエリンにはあった。だからこそ、甘えられない。そう思っている。なんとしても、ここは一人で乗り越えるべき試練、そう思っている。 「師匠……」 それでもたまには、心弱くなってしまう。拭ったはずなのに肌が香る気がしてしまうこんな日には。ぎゅっと握りつぶした水の珠は床に染みを作らずただ消えて行った。 「あのガキが」 ふと机の上に目をやれば、ライソンの短刀の横、前金代わりだろう多少の金があった。置いて行け、とも言わなかったのだからきちんと頭を働かせていた、ということか。 「意外と……」 頭の回転は悪くはないのか、思った途端に勘違いで抱かれた身を思う。溜息をつき、だがエリンはライソンを悪くは思わなかった。強いて言えば、無感動。怒る気もないが喜ぶ気もない。溜息と共に短刀を取り上げる。 「ん?」 先ほどは気づかなかったが若い傭兵が持つにしては、ずいぶんと立派なもののように思う。鞘から抜いてもう一度見定めれば、やはりそうだった。名のある刀匠の手になるものに違いない。 「なんで、あいつ。こんなもん持ってんだ」 ただの若い傭兵ではないのだろうか。不意に不安が兆す。意味もわからないままに。それがたまらなく嫌だった。 エリンは店の気配を探る。と言っても傭兵たちがするよう、気配を感じ取ろうとしているのではない。エリンは魔術師だった。 「よし」 ないと見極めて、念のためにコグサの剣も探る。順調に移動していた。ならば問題ないとばかりエリンはライソンが開けて出て行った扉の鍵を再び閉める。付与魔術をかける間は人に出入りしてほしくなかった。 小物とはいえ、コグサの剣に続いての付与魔術。しばらくは仕事にならないな。苦笑しつつエリンは詠唱に取り掛かった。 |