「よし、決めた!」 突然、両手で自分の頬を叩いたライソンにエリンは飛び上がりそうになる。これほど驚かされたのは久しぶりだった。 「なにをだ!」 できればもう早く帰ってほしい。コグサが待っているだろう、嫌味の一つも言ってやろうとしたとき、目の前でライソンが微笑んでいた。 「あんたに、頼むわ」 「は?」 「だから、短刀。あんたが言ったんたぜ? 俺にも、頼めるよな?」 偉そうに胸を張ってしまってから、はたと何かに気づいたようライソンは首をかしげて不安そうな顔をした。 「でも……、やっぱ、あれかな。隊長が頼んだのとおんなじ人に頼むのは、ちょっと不遜だったりとか、あんたも思う?」 「誰が思うか! 客は客だ!」 言ってしまってからぬかった、とエリンは臍を噛む。それを理由に断ればよかったのだ。とはいえ、コグサを重んじているように思われるのは心外だったから、もうここまで来たら致し方ない。エリンは覚悟を決める。 「しょうがねぇ。――来な」 指先だけでライソンを手招く。その際、小声で何かを言ったような気がしたけれどライソンは気にも留めなかった。大方文句の一言や二言でも呟いたのだろうとばかりに。 事実は違う。エリンは店の表の鍵をかけていた。ついでに開店中、と示してあった看板も裏返して閉店に変えた。もっとも、あまりに汚れていてほとんどの人は看板の存在にも気づいていないのだが。それはエリンも知らないことだった。 「なんだよ、どこ行くの」 「裏」 「はい? なんか――俺、殴られそうな気がすんだけど。気のせい?」 傭兵隊での生活ぶりが窺われるような台詞にエリンは溜息をつく。背後に従えたライソンがにやりとしたのにも気づかずに。 「コグサの兵も質が落ちたもんだ」 「なんでさ?」 「私刑がまかり通るような隊にしてんのはあの野郎の責任だろ。馬鹿じゃねぇの。てめぇの手下くらいきっちり躾けろってんだ」 エリンの文句にライソンは声を上げてしまった。それを聞きつけて彼が振り返る。しまった、と天井を見上げるけれどもう遅かった。 「おい、お前。俺をからかったな?」 おかしいとは思った。コグサが、そのようなことを許しているはずはないと、疑ってしかるべきだった。思わずライソンの襟首を掴んでしまう。 「あんた、やっぱ。隊長と信頼しあってんだな」 「誰が――」 吐き出すようなエリンの口調に、ライソンは笑うだけだった。細い魔術師らしい指を襟から外させようと手に触れれば、思い切り睨まれた。 「口で言え、立派な口があるんだからよ」 ふん、と鼻で笑って魔術師は前に向き直っては歩いていく。何かが癇に障っているらしいのだが、ライソンにはその何かがわからない。 取り立てて、だからと言って詮索するつもりはなかった。傭兵隊に所属するものが第一に教えられる鉄則は、他人の過去を詮索するな、だった。 皆が皆、幸福な生まれ育ちを持っているわけではない。致し方なく、あるいは已むに已まれず傭兵をしているものがどれほど多いか。好きこのんで傭兵稼業に入ったものほど、それが理解できない。だから聞くな、というしかない。同じ隊の仲間だ、信じろと言うしかない。そして戦闘を繰り返していくうち、本当の仲間になる。そう言うものだった、傭兵隊とは。 「この店、意外と広いんだな」 店の表からはとても考えられない奥行だった。細い廊下を進んでいけば、明らかな生活の匂い。 「棲家だからな。ある程度は広さがないとやってらんねぇよ、魔術師なんてな」 「へぇ。そう言うもんなんだ」 「どこ行く、そっちは俺の寝室だ。お前に用はねぇだろうが」 「だったらさっさと歩けよ!」 ちらりと振り返ったエリンは、目の端に照れたライソンを映すことになってしまった。こういうところは年相応か、と思っては含み笑いが浮かんでしまう。 「来いよ」 再び手招けば、扉の前。開ければこれほどあからさまな物もなかった。ライソンが感嘆の声を上げている。 「すげぇ。これ、あんたの工房かよ。うちの隊にあるやつより、すげぇ……」 広さはそれほどでもなかった。大人が五人も入れば息苦しいだろう部屋だ。だが中央に置かれた広い机、その上に乗ったさまざまな器具。壁にかけられた道具の数々に、棚に納められた薬品と思しき数多の壜。正に魔術師の工房だった。 「個人でこんなもん持ってんのってすごくないか?」 「個人でこんなもん持ってなきゃ、店なんざやってらんねぇんだよ、小僧」 いかにも憎々しげに言うけれど、ライソンは笑っていた。エリンの声に悪意がないのに気づいている。これでも歴戦の傭兵、は言い過ぎかもしれないけれどある程度は戦ってきている。これだけの時間を接した相手がなにをどう考えているかくらいは、わからないはずもない。まして敵意殺気に反応するよう鍛えている体だった。 エリンが何かをごそごそと探していた。その間に放った一言だったから、なおのこと他意はないのだとライソンは思っている。案の定、見つけ出したものにうなずいて振り返るなりエリンは言った。 「脱ぎな」 大きな机の器具を身をかがめて眺めていたライソンだった。思わずきょとんとしてエリンを見つめてしまう。 「はい?」 「聞こえなかったか、小僧。脱げって言ってんだ、それと。短刀、さっさと出せよ、やるんだろ」 「え、あ。はい」 気圧されるように短刀を渡せば、エリンが鞘から引き抜いて刃を確かめている。うなずいたからどうやら合格らしい。コグサに装備品点検を受けるときと同じほどにライソンは緊張していた、魔術師相手に。 「ちゃんと研いであんな、それだけは褒めてやる」 「道具はちゃんと始末しとけってコグサ隊長が何度も言うからな。あんたは口うるさい母親かって勢いだぜ」 「礼は言っとけ。刃毀れの一つでも見つけたら叩きのめすところだった。で? 坊や、いつまで着てるつもりだ。さっさと脱げって言っただろうが」 腕まで組んでエリンが傍らで待っている。混乱してライソンは両手を振り回しかけ、ここには壊れ物がいくらでもあることに気づいて危うく留まる。 「ちょ……ちょっと待てよ! なんで脱ぐんだよ!? 俺頼んだの、短刀の魔法付与だろ!」 「だから? お前に魔法のなにがわかる。わかる俺が脱げって言ってんだ」 「だったら隊長! 隊長は――」 ライソンの儚い抵抗は潰えることになる。長い前髪に表情の窺いにくい魔術師の唇が嫌な角度に吊り上がる。 「あの野郎の体は隅々まで知ってんだよ、一々脱いでもらわなくったって結構。見たくねぇし」 それはそれで、とてもまずいことを聞いてしまった気がする。そしてここでおとなしく脱ぐのはもっとまずい気がする。 「いや、その! 隊長の彼氏に手ぇ出したら、俺、隊にいられねぇって!」 言った途端だった、エリンが憤然と掴みかかってきたのは。同僚の、非力な魔術師がライソンはなぜかとてもとても懐かしい。 「誰が彼氏だって、あ? 馬鹿なことぬかしてんじゃねぇぞ、小僧」 「だって!」 「いいからさっさと脱げ!」 言いざまに、服をはぎ取られた。奪い返そうとした上着は遠くに放り投げられ、魔術師の唇がにやりとしている。どうやら本気で脱ぐ羽目になったらしい。 「放せよ! もう……」 文句を垂れつつライソンは渋々と服を脱ぐ。若い見事な体だった。エリンは特に何の感慨も覚えず眺めている。 「おい、あんた」 「なんだよ?」 「一応、聞いてもいいか?」 「なにをだ、言うことあんならとっとと言えよ、うるせぇ客だな」 「――なんであんたも脱ぐんだよ」 呆れ顔のライソンの前、エリンもまた上着を取って肌をさらしていた。呆れ顔でも作っていなければ、とても見ていられないような肌をしていた。室内で仕事をすることがほとんどなのだから、当然と言えば当然。白く透き通った肌、などというものにお目にかかったのは一体いつが最後だっただろう、ライソンはぼんやりと天井に視線を投げる。 「だからぼけっとしてんじゃねぇよ、客!」 「客に怒鳴るなっての。脱いだだろ、脱いだ脱いだ」 「お前はそれで水浴びすんのか、え?」 意地悪そうに言われてしまった。確かに下着姿のままで水浴はしないだろう、普通。そこは死守したいライソンだったのだけれど。 「別に野郎のブツ見ても嬉しくねぇよ、脱ぎな」 「嬉しがられてもなぁ……」 「嬉しくねぇって言ってんだろうがよ」 ぼそりと言って諦めて全裸になったライソンの前、エリンは立つ。まじまじと眺められると、大変に居心地の悪いライソンだった。その上、飛びあがりそうになることを彼はした。 「ちょっと、エリンさん!? 何してんですか!?」 そのまま、黙ってエリンが抱きついてきたようにしか、ライソンは思えなかった。肌が触れる。しっとりとした柔らかい肌だった。かっと頭に血が上る。 「なにって……」 言い返そうとしたのだろうか。胸元から見上げてきた魔術師の顔を、はじめてライソンは目の当たりにした。思わず両手で頬を包んでしまう。 「うわ」 隠すのがもったいない美貌だった。なぜ隠しているのか、意味がわからない。前髪をかきあげれば、文句が聞こえた気がしたけれど、いまのライソンには聞こえていない。 「あんた」 なにを言うつもりだったのかも自分ではわからない。気がついたときには唇が柔らかかった。甘く柔らかいものに触れられている、否、触れているのは自分。 ガキだの小僧だの、罵詈雑言が聞こえた気がした。そのうち、止んだ。 腕の中に抱いた体が、どうして突然に抵抗をやめたのか慮ることができるほど、ライソンは大人ではなかった。 |