美しかった。眼前に立つルシフェルは、あまりにも美しかった。曙光のごとく輝く巻き毛のひとひら、吸い込まれそうな黄金の目。何もかもが美しすぎた。 兄のなすまま、兄の意図するままの己になりたい。ミカエルはそう願った自分に愕然とした。願ったなどというものではなかった。 切望した。 この瞳に永遠に映っていられるならば、己の意思など、何ほどのものか。そう感じた自分をミカエルは振り切りれない。 振り切れないことを、憎んだ。あるいは、ルシフェルを。永遠など。この兄が、久遠の後までも自分だけを、自分ひとりを見つめているなど、信じられようか。 ミカエルの視線が惑った。そしてその先にいたのは。 「貴様――」 しどけない形の、アシュマール。嘲われた。アシュマールの目が、嗤っていた。お前一人のものになど、決してルシフェルはなりえない。そう嗤っていた。 「愛しき弟よ」 ルシフェルの声すら、嘲笑に聞こえた。二人の目は、何事も語っていなかったというのに。 ルシフェルを、その存在を賭けるほど愛しく思う。同時に、それを認め得ぬミカエルは愛を憎悪に変えた。そして憎悪する己を、憎悪した。 誰が、いったい。何者のせいで、この己が何かをこれほどまでに憎む。存在をやめてしまいたくなるほど己を憎む。 何者のせいで。眼差しがアシュマールを捉え、兄を捉え。彼らの嘲笑が、己の中から響く。音すらもなく。 これほどまでに誰かを憎むならば。己を憎むならば。いっそ存在をやめてしまいたい。このまま存在していたい。 惑乱するミカエルの中に響いた声。一点の光を見た。声にすがった。光を掴んだ、ルシフェルではない光を。 ――光を神と言った。 「あなたは」 ミカエルの手が、兄を振りほどく。眼光に鋭い光。不意にその手に剣が現れ、ミカエル自身すらもが驚く、一瞬は。 「剣が、この手に。ならば、やはり」 「ミカエル、愛しき弟よ――」 「……あなたは我が兄ではない。すでにその資格を失った。あなたは、神に反逆した。正しき者は神ご自身のみ! あなたの振る舞いも、なすことも、その存在すら、神はお認めにならぬ!」 剣を振るった。微笑むルシフェルに、弾かれもせぬのに傷すらつかなかった。 「あなたは天使として存在しながら、なぜあのような不埒な振る舞いばかりをなすか。疑問だった、常に! ようやくわかった。あなたはそもそも存在してはならなかった……」 剣を振るうミカエルから、表情が失われていく。それをルシフェルは不快に思った。思っただけで、ミカエルの剣が砕けて消えた。 「神とは、なんだ? 所詮、我ら天使の想念より生まれたもの。それが許さぬとは……実に笑止」 ルシフェルの微笑が深くなる。ミカエルが手を掲げた。余裕を持ってルシフェルもまた。アシュマールの目が輝き、ルシフェルの元へと馳せ参じる。そして多くの天使が。 「……それがあなたに与する者らか。ならば討つまで」 「お前が愛する兄を討てると?」 「我が兄ではない! ……兄は、兄など」 「迷うがいい、愛しきミカエル。迷えば迷うだけ、お前は我がもの」 ミカエルの元にも、天使が集まっていた。手に手に剣を掲げ、あるいは槍を持ち。一様に、ミカエルのよう淡々とした表情をしていた。 「笑え、ミカエル。お前には笑顔がよく似合う。泣き顔同様」 微笑んだルシフェルに、刹那の間ミカエルは従いそうになった。ミカエルに与する天使たちに動揺が走る。みなが、思わず微笑もうとしていた。己の意思とは裏腹に。否、己の意思として、ルシフェルに従いたい、そう願った。 唐突な、剣風だった。ミカエルが、唇を噛みしめる。食い破らんばかりに噛みしめて、剣を振るう。巻き起こす風が、呪縛を絶つ。 「ほう……」 ルシフェルが笑みを深くした。そして目に宿る鮮やかなまでの光輝。天使たちの目すらも眩むほど。 「笑みなど要らぬ。泣くなど無用。我ら天使にして。いかなる感情にも動かされることなく、善なるものに、神に尽くすことこそが我らの本分にして存在理由! 感情など、要らぬ」 ミカエルが剣を構えた。ミカエルは切りかかろうとしたのだろうか、その兄に。あるいは。が、与する天使たちのほうが早かった。 ミカエルが命ずるより早く、天使たちがルシフェルとその背後に群がる天使に突進する。恐怖に駆られて。認めぬまま。 不意に笑声。ルシフェルの配下が笑った。口々に笑いながら武器を構える。心の底から、楽しげに。対する者らは無表情。 「これが、お前の望みか。愛しいミカエル」 「あなたを天より追放する。それこそが我が望み!」 剣を抜きもせず、否、現しすらもせずルシフェルはミカエルをいなしていた。愉悦を覚えでもしているかのその目の輝き。舞い上がり舞い落ちる朝陽よりなお鮮やかな巻き毛。 「追放など、ぬるいことを。我が存在そのものを滅ぼせ、愛しきミカエル」 「なにを――!」 「滅ぼしたが、身のため」 喉の奥、ルシフェルが笑った。手の一振り、一瞬で天の一角が崩れた。振り返るまでもない、ルシフェルに与する天使はすぐさまルシフェルの意図を悟る。 「滅ぼせ、ミカエル。できぬか。ならば、黙って立っていてやろう。為すがよい」 事実、ルシフェルは無防備に立った。両手を下げ、微笑んでミカエルの眼前に。首をかしげ、愛しげに弟を見つめ。 「……悪を絶つため、それを滅ぼせばまた自らも悪に堕する。あなたの罠には、嵌らない!」 「つれないことを言うものだ。兄はお前のためを思うがゆえ、申し出たのだが」 ルシフェルが笑い声を上げた。いまこそはっきりとする。ルシフェルは、嘲っていた、己が弟を、いまこの瞬間はじめて。 「やめよ」 世界が止まる。どちらの天使もが、静止したよう動かない。もどかしげに身じろぐは、ミカエル方の天使のみ。ルシフェルに従った者らは、彫像のよう、動かなかった。 「参れ」 彫像が命を吹き込まれる。逸早くルシフェルの元に参じたのは、アシュマール。ルシフェルの傍らに立つアシュマールに、ミカエルが閃きのよう、憎悪を見せた。ほんの、目の惑いほどの一瞬のみではあったが。 「私を追放する? 甘いことだ、愛しきミカエル。お前が欲しいというならば、この身も命もくれてやったものを」 「戯言を!」 「欲しいか、ミカエル。欲しいと言うがいい」 「……言わぬ!」 「ためらったな、愛しい弟、我がミカエル。ためらいこそが、お前の真実。ならば追わせてやろう。お前が真実を認めるまで、終わらぬ年月を、追わせてやろう」 ルシフェルの足元が、崩れた。目を見開き、ミカエルは辺りを見回す。先ほどルシフェルが崩した一角の余波が、ここまで達していた。 「兄上!」 咄嗟だった。落ちていく兄に、手を差し伸べたのは。 「それでいい」 ルシフェルが、手を払った。莞爾として、ミカエルの手を振りほどく。ミカエルが青ざめた。己が行為を悟って。 「追え、追うがいい。ミカエルよ。いつまでも追うがいい」 落ちていく、否、堕ちていくルシフェルに、与した天使が次々従う。あたかも光の洪水だった。滝のよう流れ落ちる天使の群れは。 「何時何時までも、追うがいい。お前の神はこの兄なれば」 ルシフェルである光はいつまでも見えていた。光の中にある、なによりも強く美しい光こそ。ミカエルは見つめていた。 「愚かな」 ルシフェルが。あるいは己が。どちらともわからず神にすがった。答えは一つ。兄たるルシフェルは、神への反逆者。 ミカエルの目が、決然とした色を宿す。夕陽のごとく明々と輝いていた黄金の目、ルシフェルと色を分かち合ったその色は決別の色を帯びて青へと変る。 ルシフェルもまた、弟を見つめていた。微笑み、勝利を確信し。周囲に、自らに従った者らがともに堕ちていた。 「美しきルシフェルよ、御目が」 ルシフェルは振り仰ぐ、天界を。ミカエルの目に変化が起きたのと時を同じくして、ルシフェルの目もまた。決別の青ではなく、名残の情をこめた勿忘草色。 「我が弟が、我が身と違いたいと申すならば、あわせてやるまで」 「ささやかな嫌がらせのようにも」 「愚かな。あれは愛しき者。我がもの。この手に入るまで、どれほど時がかかるか。それもまた――」 「一興、と?」 ともに堕ち下るアシュマールが、笑っていた。その身から、すべての天使から、ルシフェルさえ例外ではなく。 光が剥ぎ取られていく。見上げれば、時が尽きるまでも語り継がれそうな光の滝。天使から剥がれた光輝が、あたかも水のよう降り注ぐ。 傍らで、あるいは遠くで。天使たちが姿を変えていた。自らの意思のまま、異形にも美しくも。アシュマールもまた。 光が剥げ落ち、その真実が現れたかのように。髪も目も、翼すらも漆黒に。天使たる光輝を剥ぎ取ったこの姿こそが、真であると誇るかのごとく燦然と。輝く闇があるならば、アシュマールだった。 否。それはルシフェルにこそ相応しい。姿は変わらず。己の意思で変えた目の色のみが、天との隔たりを語る。 だが見よ。その闇の深さ濃さ。強すぎる光は深すぎる闇をも生む。そのあまりの美しさ。ルシフェルが光をまとえば、夜が生まれる。空を仰げば、その目の輝きが星となる。それほどまでに美しい。触れれば、滅ぶほどに。そして滅ぶとわかりつつも、触れてみずにはいられぬように。 「美しきルシフェルよ――」 アシュマールの声が知らず震えた。そば近くで見続けてきたはずのアシュマールでさえ。 「すでに天使ではない。反逆者と呼ばれるも不快。なればなんと呼ぼう、自らを。ミカエルへの愛ゆえに、悪魔と呼ぼう」 天使が善だと言うならば、確かにルシフェルらは悪だった。それほどに揺らぎやすいものだった、善悪など。 「ゆえに私は今後ルシファーと名乗ろう」 天使たちは名を捨て、悪魔として新たに存在を始めた。ルシフェルゆえに、悪魔が生まれ、魔界が生まれた。あるいは、ミカエルゆえに。 |