「美しきルシファーが、虚無に降り立った。ルシファーが大地を思えば、そこが大地となった」
 空を仰げば空が生まれ、太陽を、月を、星々をそこに生きる物を作り上げた。
「そうしてここが――魔界が生まれた」
 足にもたれかかりつつ静かに話を聞いていたサリエルの髪をアーシュマは撫でる。
「ならばこれも」
 サリエルが、自らの足元の草に手を触れた。柔らかな手触りとは裏腹の、鋭い香気。触れただけで遠くまで高く香った。
「ルシファーの創造なのですか」
「無論」
「……美しい」
「麗しきルシファーのすることだからな」
「……あまりにも、違うのです」
 サリエルはどこか遠くを見つめながら言う。あるいはその目はかつて己の故郷であった天界を見ているのかもしれない。
「魔界は、何もかもが生きている。天界はなぜでしょう。死んでいるとは言わない。でも……」
「ミカエルのせいだな」
 アーシュマの声にサリエルは顔を上げた。悪魔の目に浮かんだあからさまな嘲笑に、わずかに怯む。
「ミカエルは、兄が欲しかった。心から、全存在を賭けてでも。それをなぜだろうな。どうしても認めなかった。側で見ていた俺にはよくわかる。誰より、美しきルシファーは理解していただろうが」
「それが?」
「自らの欲望に従うより、規律を選んだ、ミカエルは。だから天界はよそよそしい。生気を欲するより、律するほうを選んだ。そのせいだ」
「……従うには、強さが必要でしょうね」
「お前は、強い」
 アーシュマが笑った。天使であったサリエルが、自らの欲するところのため、すべてを捨てた。言われたサリエルだけが、理解せず目を丸くする。
「お前は、天使であることを捨てた。俺のために。捨てられなかったミカエルより、遥かに強い」
「そんなことは――」
 目を伏せたサリエルの頬の赤みにアーシュマは目を細める。天使であったころの透徹な白さはなくなった。変わっていまは熟れ切った白。何よりそれがアーシュマを惹きつける。
「美しきも汚きも、所詮は裏表。善悪すらも裏表。どこに飛ぼうが、結局、天界魔界人界までもが一つの世界。ミカエルには、わからんだろうがな」
 皮肉に言えば、サリエルが天を見上げる。思っていた、サリエルは。かつて従ったミカエルを、狭量だとは思わない。ミカエルはミカエルなりに、己の欲望に従ったのだと感じる。
「あの方は、ルシファーよりも己が大事だった。そう思います、私は」
 サリエルは選んだ、アーシュマを。天使である自分の存在が滅びてもかまわない、ただ一瞬かの悪魔の目に留まることができれば本望。
「ミカエルは己が大事、か……」
 そうであったのかもしれない、アーシュマもまた思う。遥かなる昔、ルシファーの側にいた自分に向けた目が、決してミカエルは嫉妬だとは気づかないだろう。
 気づいてしまえば、すべてが終わる。ミカエルは天使たる自分を認められなくなる。ならば気づかねばよい。ミカエルがそう考えたとは、アーシュマは思わない。考えたのならばすでに気づいているのだから。
「哀しいな、ルシファーも」
 あのときルシファーは言った。命すらもくれてやる、弟の望みならば、と。ミカエルには戯言だっただろう。アーシュマは知っている。あれはルシファーの本心だったと。
「私も悲しい」
「サリエル?」
「あなたは言った。ルシファーとは何事もなかったと。そうでしょう。でも、違ったのでしょう?」
「おい、サリエル」
「信じませんよ、私は」
「ちょっと待て」
 立ち上がりかけたその肩を、アーシュマはいかにも慌てて押さえつけた。その表情をたっぷり楽しんでサリエルは微笑む。
「人の話を聞いていたか、お前は。俺はルシファーを拒んだと言っているだろう。あのときはなぜかわからなかった。が、いま思えばわかる」
「なにがです」
「不思議とはっきり覚えている。あのとき空に月がかかっていた」
 不意にサリエルは動きを止めた。まじまじとアーシュマを見つめる。苦笑してでもいるかの悪魔の表情に、堕天使は静かに微笑む。
「私が月の司りをするから? そのころ私はまだ意識すらもはっきりしないほど幼かったというのに? 自らの意思など欠片もなく、ただミカエル様に従った私だというのに?」
「俺もお前もそういう運命だったと言うことさ」
 悪魔の指が、サリエルの髪を一筋とって風に流した。あたかも月の光で染め上げたかのような銀の髪が、柔らかに冷たく光を放つ。
 堕天使の指が、アーシュマの瞼に触れた。かつては紫めいていたと言うその目。いまは闇夜の漆黒。思えば、笑いたくなった。
「サリエル?」
「……ミカエル様が、私を嫌った原因はあなたかと思えば、おかしくて」
「なに?」
「元々紫の目はお好みではなかったのだろうけれど。あなたが紫の目をしていたから、きっとよけいに嫌いになった」
 喉の奥で笑う堕天使に、悪魔は言葉もない。困惑を浮かべた指先が、自らの頬の辺りでさまよった。
「嫉妬されるようなことは、なかったんだがな」
「それでもミカエル様は嫉妬した。そそのかしたのは、あなたなんですね」
「なにをだ」
「暁のごときルシファーがミカエル様を誘惑するように。誘惑をミカエル様が拒むと知っていて」
「とんでもないことを言ってくれるな。俺は美しきルシファーの怒りが恐ろしい」
 ふいとそむけた目許が、笑っていた。堕天使は呆れたよう悪魔を見やる。
 その姿が光に包まれていたことを思う。鮮やかな純白の翼を持ち、金の髪に紫の目をした天使。いまとは似ても似つかないアーシュマを。
「それでもあなたはあなただった」
 混乱を好み、惑わさずにはいられない天使、あるいは悪魔。サリエルの知る天界とは違う時代の天界を混乱に叩き落した者。
「見目形が変わろうが、俺は俺さ。お前がお前であるように。俺の白い鳥」
 アーシュマが、銀の髪を手に取る。変ってしまったかつての金の髪。たかが、それだけのこと。アーシュマは口にはせずにそう言った。
「それにしても、お前にはつらい話だったかな」
「なにがです」
「神の存在を、信じていただろう? かつての天使よ」
「そんなものを信じていたならば、私はここにはいませんね。空々しくて、儀式など嫌いだった。花を祭壇に供える? 生きているものはみな尊いと教えるのに? 花の命はでは、尊くないとでも? 何もかもが嘘のようで、好きではありませんでしたよ、天使のくせにね」
 従順さも持ち合わせていなかった。なぜと問うてはならぬと教えられた。それでも問うことをやめられはしなかった。何もかもが異質だった天界。
「私ははじめから魔界に存在するべきだったとまで、思いましたよ」
「それはつまらない」
「アーシュマ?」
「美しい天使が落ちてきた。偶然にしろ、他の何ものかにしろ、それに出会えたのは俺の幸運。純粋無垢な天使を篭絡するのも、中々楽しかったがな」
「またそういうことを!」
「楽しくは、なかったか。俺の銀の歌鳥」
 髪をいじっていた手が、首筋に伸びてきた。抗えようはずもなく、また抗うつもりなど欠片もなくサリエルは目を閉じる。
 唇に感じる悪魔のそれ。わななくような、震えるような感覚が、今でもまだ慣れずにいる。慣れられない己を、悪魔が楽しんでいることも知っている。
 それでも離れていく唇が惜しいと思う。知らず追いかければ、深いくちづけ。唐突なほどのそれにサリエルは心から震えた、あるいは歓喜に。
「俺は、幸運だ」
 唇を離しつつ悪魔は言った。いつとは知らず、サリエルはアーシュマの膝に抱き上げられ、その首に腕を投げかけていた。わずかな羞恥が堕天使の頬に浮かぶ。
「なにがです」
「美しきルシファーを見るがいい。ミカエルを見るがいい。愛しながら、惑わさずにはいられない。愛しながら憎まずにはいられない。お前は?」
「答えなど」
「知っている」
 眼前で、漆黒の目が笑った。いまなお紫の目をした堕天使が、その目に映り込む。悪魔は言う。この目に他の何者かが映ることなどないと。言葉にはせず。だからこそいっそう強く。
 その目の強さ、真摯さに打たれたかのよう堕天使は目を伏せた。含羞む目許にほころぶ唇。それが悪魔をひたすらに打つ。
 恥らいつつ目を上げたサリエルはアーシュマの目をさけるようにして滝を見つめる。天使の滝と呼ばれる理由がよくわかった。
「綺麗……」
 あれが堕ちた天使の、自ら捨てた光であると聞いてなお、それはいかにも美しかった。捨て去った光であるからこそ、美しいのかもしれない。
「――あれから、数えるのも嫌になるほど時は流れた。それでもいまだミカエルは美しきルシファーのものにはならない。己の非を認めはしない」
「認めないでしょう。決して」
「だからこそ、ルシファーは憂いに沈む。その手に確実に掴んだはずの愛しい弟。心はいまも掴んでいる。ミカエルが、兄を憎み続けているのがいい証拠」
「いつか……。ご兄弟が一緒になることは、あると思いますか。アーシュマ」
「さて。世界が終わるそのときには、あるいは」
「ないと?」
「とは言っていないさ。そう聞こえるだろうがな。考えてもみるがいい。そのときには魔界も天界もなくなるだろう。ならば幻魔界も意義を失う。人界? 所詮は我らの遊びの種。必要不可欠ではない。そのとき世界はどうなる? いささか俺にも恐ろしい」
「……原始の至福、というものかもしれませんね。そんな世界は」
「天使も悪魔もなく、か? それではいささか面白くないな。雑多であるからこそ、惑わし甲斐があるというもの」
「あなたと言う人は……」
 呆れたよう言うサリエルの眼差しが和みを帯びた。言葉とは裏腹の愛に、悪魔は全身を、魂があるならばその魂を、いわば全存在を浸された。
「原始の至福など、要らん。俺の至福はここにある」
 サリエルを引き寄せ、唇を重ねる。吐息までもが重なり、ひとりでに天幕は閉じていく。あたかも天幕自身が二人の愛に恥らうかのごとく。不意に天幕が開かれた。
「アーシュマ様、アーシュマ様! それとサリエル様、サリエル様? お迎えなの。ちょっときて欲しいのなの。帰ってきてくださらないと、みんな困ってるのなの。……お邪魔?」
 愛らしい耳が困り顔とは別に興味津々と動いていた。サリエルは苦笑してアーシュマの手を退けた。悪魔は長々と溜息をついた。
「あぁ、お邪魔だ」
 とは言え、主を必要としているならば帰らねばなるまい。悪魔は堕天使の手をとり、反対の手でパーンの襟首を掴む。掴むなり、放り投げた。頓狂な悲鳴を残し、笑いながらパーンは消えていく。二人の姿もまた。
 天使の滝を望む天幕だけが風になびく。それも次第にどこへともなく消えていった。あとには天使が落とした光輝のみ、深々と。




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