硬質な花だった。花弁も茎もが、人界で言う宝石のごとく輝く。変らない天の陽光に華やかに、控えめに煌いた。
 ミカエルと、ミカエルに従う天使たちはそれを摘んでいた。笑いさざめきながらいとも明るく。一輪摘むごとに涼しげな音が響いた。
「さぁ」
 ミカエルが振り返る。天使たちは口々にミカエルを賛美した。
「私を賛美してはいけない。褒め称えるのは私ではない」
 ミカエルが顔をうつむかせる。天使たちは言葉を変えた。そしてミカエルが作った祭壇に花を捧げていく。
「褒むべきは神」
「いと高きところにましますお方」
 先ほどまでミカエルを称えていたのと同じよう、天使は口にする。わずかにミカエルは不満を感じた。神は遥か高みにいますもの。己と同じはずがない。
「いずれ」
 天使たちも理解するだろう。自分たちを作り上げた何者かを敬うのは決して悪いことではない。否、敬うべきだった。
 思いに耽るミカエルを喧騒が破った。天使たちがざわめいている。ミカエルは眼差しを上げた。そこに光が。あるいは、闇が。
「兄上――」
「愛しき弟よ。これは何事か?」
 微笑むルシフェルに、ミカエルは答えを返しはしなかった。答えなくとも兄にはわかるはず、眼差しに思いをこめた。ルシフェルがうなずく。
「取り壊すよう、お命じになりますか。兄上」
「命じる? せぬ」
「では」
「お前が己が意思としてそのようなものを自らの手で破壊する日を楽しみに待とう」
「な――」
 あまりにも淡々とした言葉だった。笑みすら浮かべずルシフェルは言った。兄の怒りの激しさをいやでも感じた。
「兄上は――」
「神とやらを崇める? 好きにすればよい。お前がそれを崇めるならば、私はそれを破壊しよう」
「なぜ!」
「戯れに」
 ルシフェルが笑った。以前のような笑みではない、ミカエルはそう感じた。他のどの天使の目にもルシフェルの笑みは同じものに映っていた。
「我らは我らとしてある。頭を垂れるも膝をつくも我が誇りが許さぬ」
 昂然とルシフェルは顔を空に向けた。ミカエルが神と呼ぶ何者かが座すと言う空へ。ルシフェルの手には剣が。挑戦に剣を掲げ、ルシフェルは嘯く。
「神とやらがいるならば、私を罰するがいい。我らが人間を罰するように」
 そのままルシフェルは剣を掲げ続けた。ミカエルも、追随する天使たちも微動だにできない。ルシフェルに従った天使たちが密やかに笑い声を漏らした。
「不遜なる我を罰することもせぬようだな、お前の神とやらは」
 唇を歪めルシフェルは言う。そしてミカエルを一瞥し、背を向けた。
「兄上!」
 言葉に視線は返ってこなかった。無言で立ち去る兄の背に、ミカエルは不安を覚える。同じほど、ルシフェルに従う天使たちを憎悪した。
「あの者たちが――」
 ルシフェルを増長させているに違いない。この己の言葉を聞き入れぬ兄ではなかった。神なる上位者がいるとミカエルが言ったなら、ルシフェルは支持してくれた、以前ならば。
 去っていったルシフェルが不意に笑みをこぼした。いかにもおかしそうに目を伏せて笑う。口許に当てた指先が、笑みの光に煌くようだった。
「美しきルシフェル?」
 アシュマールが問う。兄弟の争いを、最も楽しんでいる天使がいるとすればそれはアシュマールだった。
「おかしなものよ」
 ルシフェルが呟くよう言い、傍らを歩むアシュマールに手を伸ばす。短い髪に手を滑らせ、感触を楽しんだ。
「私は弟の言いなりであったかな?」
 自らを卑下するような言葉に天使たちが一斉に笑い声を上げた。ミカエルに従う者たちとは違う、高らかな声。
「この目にはミカエル様こそが、あなたに従順であったと見受けましたが?」
 アシュマールの言葉に謙虚はなかった。ミカエル様と言い、美しきルシフェルと言う。どちらに敬意がこめられているか、アシュマールの声を聞けば瞭然だった。
「この兄は、ミカエルの言葉を受け入れて当然、そう思っているようだ」
「それこそが不遜」
 笑みとともにこぼした言葉にルシフェルは応えた。髪をなぶっていた指先が頬へと滑る。周りの天使たちが姿を消した。喉の奥に響く笑い声を残して。
「いかがなさるおつもりか、麗しのルシフェル」
「なんとしようか。あれは、愛しき弟。いまは、まだ」
「いまは?」
 口許を吊り上げて笑うアシュマールにルシフェルは目を細めた。すべらかな頬の感触を楽しんでいた指先に力がこもる。爪の先で頬を切り裂いた。血が、滴る。
「この傷も残すか、その髪のように」
 アシュマールは身じろぎ一つせず、傷と痛みを甘受した。笑みすら浮かべてルシフェルを見つめ続けた。
「それが御身の意に適うならば」
「適わぬ」
「なれば、消しましょう」
 目許の笑みを消し、それでも顔は笑ったままアシュマールはうなずく。瞬きの間に傷は消えた。はじめからなかったのかもしれない。
「参れ」
 ふとルシフェルの目に強い光輝が宿る。アシュマールは一瞬の躊躇もせずその腕の中に納まった。神に挑戦したルシフェルのよう、ルシフェルの首に腕を投げかける。くちづけの距離で互いの目の中を覗き込む。
 微笑った、アシュマールは。紫めいた目が煌く様の美しさ。あたかもそれはルシフェルの光輝を映したかのごとく。寿ぐルシフェルの朝陽の目に夜明けが射し、そして飲み込む。
「美しきは醜く、醜きは美しい。参りましょう、無知の霧とやらに阻まれず、神とやらに汚された空の向こうに」
 アシュマールの言葉に、ルシフェルが笑った。笑ってアシュマールを抱え込む。高らかな笑い声と、ルシフェルの光に、あたりが眩む。
「さて、麗しきルシフェルよ。御弟君はいまの言葉をいかに聞いたか。ご興味が?」
 光の中、ルシフェルの耳許でアシュマールは囁く。悪戯と言うにはあまりにも無惨。惨いと言うにはいかにも美しい。
「遊戯なれば」
「弟君はそうお聞きになりますか」
「聞かぬであろう」
 アシュマールの眼前でルシフェルが笑みをこぼす。そのあまりの光輝に、アシュマールですら目が眩んだ。
 ほかの者を交えず、兄とだけ話せば再び兄は己のもの。ミカエルはそればかりを念じて兄の元へとやってきていた。
 そのミカエルが見たものは、アシュマールと戯れるルシフェルだった。あからさまな笑い声と、小さな嬌声。
「あの者が――!」
 ミカエルが気づくはずもない。アシュマールがルシフェルを拒んだことも、ルシフェルとともにミカエルを玩具と見做し遊戯に耽るのみとも。気づかず、幸いであった。
 震える手には、ミカエルの心を表すよう剣が握られていた。どちらを切りたいのか、不意にミカエルは剣に目を落とす。
「あの者か」
 アシュマールに、兄がたぶらかされている。
「兄か」
 己より、あの者を、従う天使たちに惑わされている兄を。
 いずれとも決められず、いずれであるとも言い切れない。拳を握り締め、顔をそむけて立ち去った。いまだ剣を握ったままとは知らず。
「あのようなことは……」
 振り返りもせず呟く、ミカエルは。背後を窺うなど、できようもない。視線を向けることすら苦痛。
「許されない。決して――」
 握った手の中にある硬いものに目を向ければ、そこに己の黄金の剣。目を瞬いて、苦笑した。静かに手を開けばそこに剣はない。
「何に、何が許されぬと?」
 振り返りたくなどなかった。だがしかし、その声は。ミカエルですら従わざるを得ない美しい声。唯一無二の、兄の声。
 音がするほどぎこちなくミカエルは振り返る。途端に苦い味を舌の上に覚えた。しどけない姿のアシュマールが、こちらを見ていた。
「あのようなことは!」
 見てはならぬものを見た。ミカエルは、激する。かえって心が定まった。けだるげなアシュマールが笑う。
「所詮、戯れ」
 ルシフェルが近づいてくるに従ってミカエルは下がった。滑るよう近づくルシフェル。対してミカエルはあたかも山を背負ったがごとく。
「愛しい弟よ」
 ルシフェルの腕が届いた。胸に抱き取られる瞬間、ミカエルは逆らった。力を振り絞り、あたう限りもがいた。
「戯れなど! 決して神が許しませぬ!」
「愛しい弟。神とはなんだ? 所詮、お前の心が思い描き、我が言葉によって存在したもの。それが、許さぬと?」
「兄上のお言葉によって存在を始めたと、なぜおわかりになります。初めから、神は高みにあって……」
「それを確かめる術は?」
「確かめるなど……。神は、我らの目にすら見えぬもの。ですが、確かに」
「目に見えぬ、な。ならば不在と変らぬ」
「いいえ! いいえ!」
 力の限り首を振っているつもりだろう、ミカエルは。だがそれはまるで風に揺れる一輪の花のようだった。
「ならばこう言おう。愛しき弟よ、ミカエルよ。目に見えぬ神ならば、それはどこにでもいる。同時にどこにもいない」
「違います、兄上!」
「どこにもいない神ならば、この兄が神であるも同じこと」
 息を飲むミカエルの目が大きく見開かれた。遠く、アシュマールの笑い声がする。ミカエルには届かず。ルシフェルには聞こえていた。それでいて、否、だからこそあえて続けた。
「この私がお前の神だ」
 ルシフェルの手がミカエルの頬を包み込む。兄を見つめ続けるミカエルの目から意思が消えかけた。




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